オタク、死す(物理)
「推しが尊い! 死ぬ!」
限界を超えたオタクの語彙力は、生死に関するレベルまで低下する。
かくいうアラサーのわたしも、軽率に死ぬだの何だのと口にしていたが――まさか、本当に『死ぬ』とは。
もちろん尊さに爆発四散したのではない。勤勉な日本人にありふれた、単なる過労というやつだ。
◆
体を見下ろすと、ふわふわのドレス……ドレス?!
深層心理にこういう少女趣味があったのか。かわいいアイドルの女の子達は好きだったけれど、あくまで鑑賞対象で、自分がああなりたいとは思えなかったのに。
パニエというのだったか。スカートが膨らんで少しスースーするのが心許ない。
それに、こんなに高いヒールなんて。
疲労が抜けきらず毎朝ギリギリまで寝ていたせいで駅までダッシュすることも多く、かかとの高いパンプスはあまり好きではなかった。でもこの靴は、まるでオーダーメイドかのように足にぴったりだ。とっても走りやすくて助かる。
……そう、今わたしは走っている。夢だか天国だかの出口を探し、どこかもわからない建物の中を。
ドレスがよく似合う洋館だ。歴史あるホテルと言われても納得だが、なんとなくテーマパークのような、現実離れした空気があった。
長い廊下は天井も高く、威圧感のある巨大な窓が並んでいた。おしゃれなランプが等間隔で配置されているけれど、外の夜空に輝く月の方がよっぽど明るい。
本当に、どうしてこんな場所にいるんだろう?
わたしは死んだ。それは確かだ。
この状況に気付いた直後、背後から誰かに声をかけられたのがつい先刻のこと。怖くなって何はなくとも逃げ出してみたのだが、どこかに着くかと淡い期待もあった。
食パンをくわえた女子高生でなくたって、屋内を疾走していれば事故は起きる。
そしてその瞬間に希望は潰えたのだ。
「きゃっ?!」
廊下を走ってはいけません。学校での教えは正しかったんだな、などと逃避したくもなるだろう。
尻餅をついたのはこちらだけ。それでも紛れもない衝撃と痛み……夢でないことの証明。
「怪我はないか」
男性と思われる静かな声が降ってくる。絶望に頭が真っ白になりかけたが、ともかく謝らなければと反射で顔を上げ、直後、あまりの美貌に言葉を失う。
世の中には、これほど神がかった作画のイケメンが存在するのか!
手を差し出している若い男は、まるでファンタジー然とした動きやすそうな黒衣姿だった。青い瞳の硬質な輝きは、カラコンなどではないと一目でわかる。言葉は流暢だったが日本人には見えない。
何より印象に残るのは、左の頬から鼻にかけた一筋の傷痕だ。この顔、どこかで――
「……ぁ」
宵闇色の髪、切れ長のサファイアの瞳……こう『描写』される人物をわたしは知っていた。そういえば、彼らは昔パーティーで出会っていたという『台詞』もあった気がする。
窓に映る自分の顔を見て、血の気がひいた。
だって、どう見ても似すぎている――生前プレイしていた、恋愛シミュレーションゲームの主人公に。
「……ま、じか……」
貴族の娘らしからぬ嘆きが漏れる。
どうやらここは夢の中でも、天国や地獄でもないらしい。いや、どちらかというと地獄か?
なぜ、よりにもよってこの作品なのだろう。この物語で何度『推し』の死を経験させられたと思っているのか。
万が一、万が一にもだ。転生とやらだというのなら、せめて知らない世界の方が幸せだったとすら思う。
まずい。まずすぎる。
厄介なのはこのゲーム……どのルートもほぼバッドエンドの『鬱ゲー』なのだ。
呆然と座り込んだままのわたしの前に、とうとう男が片膝をつく。
「立てないのか?」
視界いっぱいに絶景が広がり思わずのけ反った。恋愛に免疫のない女にとって、至近距離での美男子は目の保養どころか猛毒である。
「あ――い、いえ、大丈夫! 大丈夫です!」
怪訝そうに眉をひそめられ、再び口を開かれる前にと大慌てで立ち上がる。
未だ状況に頭は追い付かないが、仮に何かの奇跡が起きてあのゲームの世界に転生したというのなら、絶対に、何があっても、この男の機嫌だけは損ねてはならなかった。
でなければ……殺される!
「あああのっ、そちらこそお怪我は? どこか痛めてませんか? と、というか最初に謝るべきでしたよねっ、ぶつかってすみませんでしたァ!」
「よく喋る女だな」
呆れたような低い声。それほど不機嫌そうではなくて、おや、と内心で首を傾げる。人違いかと思うほどゲーム内での印象と異なっていたから。まあ正直、この男について知っていることなどほぼないに等しいのだが。
更に言えば、こんなイベントは見たことも聞いたこともない。推しキャラを救うべく、数えきれない周回をした自負ならあるのに。
ともかく、落ち着いて考える時間が欲しかった。それに一刻も早く、この危険な男から距離をとりたい。
ふと、自分の胸元に深紅の薔薇がささっているのを見つける。ぶつかった拍子に花びらは少し歪んでしまったようだが、きれいに咲いた一輪。おあつらえ向きに、刺を取り除いた茎にはリボンまでついているではないか。
「あの、これっ差し上げます!」
ので、許してください!
物で見逃してもらおうだなんて浅はかかもしれないが、わたしの知る彼は、命乞いの言葉を聞き終える前に首をはねてしまうような人物だ。
驚き固まっているのをこれ幸いと、もと来た廊下を脱兎の如く駆け戻る。
「な――おい、待て!」
そんなの無理に決まってる!
どこからか不思議な甘い香りが漂った気がしたけれど、怖くて振り返ることはしなかった。
心の中で猛烈に謝罪しながらも足を止める気はない。予想と裏腹に、焦ったような声を最後にしたきりで、特段追いかけてくる気配もなさそうだった。
そうしていくつか角を折れたところでやっと、ぜえぜえと呼吸を整える。鏡面のように磨かれた廊下に座り込み、頭を抱えた。
「待ては、こっちの台詞よ……」
メリバ、という言葉がある。メリーバッドエンド――主人公は幸せを感じているが、周りはみんな死んでいるとか世界が滅びているとか、端から見れば不幸な物語を指す語だ。
この作品は基本的にどれもバッドエンドだが、一つだけ存在するトゥルーエンドすらもそのメリバなのだった。
今にして思えば、わたしは元々ハッピーエンド至上主義者だったはずなのに、どうしてそんな鬱ゲーにハマっていたのかわからない。疲労が祟ってこうなるくらいだから、心身ともにどうかしていたのかもしれないが。
とにかくストーリーは救いがなかったものの、どのキャラも魅力的だったのは本当だ。
中でもわたしの推しは、ルシュカというサブキャラの青年である。
繰り返すが、彼は作中で絶対に死ぬ。攻略対象ではないから当然といえば当然なのだけど、不憫すぎる扱いに何度涙したか知れない。
それを言うなら、先程の青年も別に攻略対象ではなかった。
彼はあるイベントをきっかけに隣国の若き皇帝となるのだが、いくつかのルートの中には、主人公の暮らす国を攻め滅ぼしにくる結末も存在する。つまりむしろ、敵だ。
――「女も子供も関係ない。一匹残らず殺せ」
あの恐ろしくも美麗な画と凍えるような声音は、プレイヤー達の印象に強く残ったに違いない。だからあんな風に……穏やかな人物などではないはずなのに。
冷酷無慈悲な悪逆皇帝、シルヴィ・エルーシア。
死んでしまう我が推しルシュカ・エルーシアの、ただ一人の弟だ。