信頼とは?信用とは? それは、ハッキリ言って『他者の不利益になる事を積極的にやらない論理的思考』である
皆さんは信用や信頼という言葉についてどの程度考えたことがありますか?
どのような認識を持っていますか?
まずは信用と信頼という言葉の区別について話していこう。
信用とは信じて用いること、信頼度とは信じ頼ること。
つまり信用とは、ある程度の用事をこなす能力があり放棄ややっつけ仕事をしない程度に弁えているということ。
信頼とはその人物に対して自分にできないことであってもこの人ならばできるであろう、大抵の人にはできないがこの人ならばできるであろうと端から疑うということをせずに確信めいた感情をもとにその人物を頼ることである。
つまり人間の信用というものは、
不利益になる行為をその人が犯した場合にその人はどれだけの罪の意識を持つだろうかと考え、それがある一定の水準を超えることを信用できると判断するということだとも考えられる。
利益を優先せず自身の悦楽の感情を満たすことに関しての興味関心が強い傾向にある人間は信用できない、或いはそういった悦楽を伴う行為を行うことこそが利益だと考える人間は信用できない、など。
つまりは相手が自分に対して行う不利益な行動というものが相手にとっては、その行動の結果が生まれる不利益や風評などといったものと比べても十分に価値あるものだと考えた場合その人間は信用できないということでもある。
よくテレビなんかで詐欺師に信用させられるという表現を用いられることがあるが、これはつまりその人間が獅子に対してそれを行うことが利益にはならないと勘違いさせられる行動というわけである。
つまりは相手を信用させるにはいかに自分が相手に不利益な行動を行うことによって利益を得るか、という信用を失う原因となり得るものを隠し通すかということに尽きる。
これにはいくつかの手段が存在する。
一つは自信を善人だと誤解させること。
一つは先程述べた通りに自身の利益を隠すこと。
もう一つは相手と同じ利益を共有すること。
善人ならば中止に対して不利益な行動をとることは感情的にストレスとなりうるものであると先入観を持ち、受信を助けようと無条件に力を貸す事こそが行動原理であるとも考えさせられる。
人間というのは、自分の都合の良い様に考える生き物であるからして慎重な人間以外は大体この様な思考に陥るものである。
が、それも時と場合により何が何でも自身の利益を守らなければならない、自身にとって致命的な隙というものは警戒するというのが人間の当たり前の行動原理である。
つまりは普段の日常生活でうわっと声を上げて驚かせられる様な事であれば警戒などはしないが、
それも続けばうんざりしてきて当然警戒はされるであろうし、鬼ごっこやかくれんぼなんかの子供がよくやっているが好きなんかでもそう言っとけかが引き出されるもので。
要はまともに育った人間であれば警戒しろと言わんばかりの状況で警戒しない方が可笑しいのだ。
利益を隠せば相手が地震を警戒せず敵とみなさないこととなり、つまりは何もせずとも勝手に自滅してくれるだけで良いと、第三者的な立場に甘んじることができるという一点で先述した三つの方法論の中でも一番追及の低い方法である。
とはいっても確実性に欠けるために、どうしても結果を出さなければ致命的な状況となり得る環境においては最もリスクの高い方法でもあるのだが。
緊急性が高い案件である場合、博打のような行動は取るべきではないのは当たり前であり、つまりは良く言えば様子見、悪く言えば日和見であるのだ。
最後の相手と利益を共有するということはつまりは裏切りであり、相手が不利益を被ることで利益を得る状況で相手と同じ利益を追求することによってどちらに転ぶ夫の利益を得ることができるという、 初めから勝ちが確定しているような状態である。
字面だけ見れば、良いのだろうと考える方も多いだろうが、実際のところこれというのは恨みを一番買いやすい方法論でもあり、また失敗したという事実はどうしても残るものでもあって、 短期的な利益の追求という点においては他より最も優れているといえるが、長期的な利益という点においては最も適していないのである。
要は捨て駒に扱わせるのがちょうどいい方法論であり、大抵の下っ端が裏切る時このような状態になるというのは敵の黒幕や親と呼ばれるものがリスクなく末端を使い潰すのにちょうど良い方法論であるというわけである。
と、ここまで三つの方法論を述べたが、総評としては余計なリスクを負うことをしないで利益を享受しようと思えばどの方法であっても自身で行うなどという事はせずに、末端にやらせる事が最も確実で低リスクな運用方法であり、つまりは私としては理想的な信用の悪用方法として詐欺というものが最も発達していて優れていると考える理由であれば。
つもりは日常生活において信用されるという事は外面によって相手に誤解を与えることは詐欺であるとも考えられるわけで。
相手の外面だけを見て勝手に騙された気になっているなどとよく表現されるが実際のところは詐欺と変わらぬのが本質であり、信用という段階を抜けずに信頼という段階に至らぬのであれば、そこに一切の騙しといったものが含まれないというのは夢物語である。
つまりはこれを分かりやすく例えるならば、
『女性の乳房を大きく見積もり実際に確かめて騙された気分になる男』というのは実際には信用という段階で止まっており信頼はされておらず、その程度の薄い関係なのである。
世の中の男性職員にはここのところを分かってもらい、信用関係ではなく信頼関係を結べることを切に願っている。
それはつまり相手が本当のことを教える事が、
自身の不利益になり得ると考えたわけであるから。
世の中の若い男性の大半が、化粧を落とした顔を 重要視しており、一部には化粧によって騙されたと考えこれを許せないと主張する男性が多いのも確かである。
いや、全く嘆かわしい。
私はそう考えるが、女性男性職務はどう考えるであろうか?
ちなみに私は性自認としては男である。
年下に対して好意を抱きやすいという、一般的で男性的な観念を持つねぎまである。
私としては信用や信頼という言葉を、このように捉え、考えています。
これを機会に皆さんも一度信用や信頼という言葉について考えてみてください。
信用を置くべきものと、そうでないものの区別ははっきりとしなければ、いずれ取り返しのつかない状況にもなりえますので。
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