Forked road
人間の幸せはお金ではないと考えざるを得ない昨今、もちろん健康も大切だが自分に合うパートナーを得た人生は幸せだと言えるのではないでしょうか? 果たして今のパートナーと性格は合っていますか? もっと価値観の近い人がいるのではないですか? それは同世代じゃなければならないのですか? もし気持ちが明るくなれる人が現れたら そして年の差がある人だとしたらあなたはどうされますか?
1月末、極寒。
21時過ぎ、池袋駅前西口広場に通りかかった。
「う?」
植え込みに座っている者に目が止まった。
ケガしているのか?包帯でも巻いているのか?
耳を隠すようにまるで頭巾のように顔に薄汚い布を巻いてその上からダウンジャケットのフードをかぶっている。
さながら魔法使いの老婆のようだった。
年寄りなのか?中年か?まさか?若いのか?
全体的な雰囲気から男には思えなかった。
寒空の下、うつむきケータイを見ていた。
薄汚れたグレーのダウンジャケット、
フードから見えている髪は何日も風呂に入っていない脂ぎった髪、
黒ずんだ手の甲、顔、足元に置いた紙袋。
家出か?
怖いもの見たさも手伝ってしばらく見ていた。
連れがいるのか?誰か来るのか?
しかしいっこうに変わらない現状が続いた。
こちらが凝視していたため視線を感じたんだろう一瞬、顔を上げた。
え? 若いのか?
スッピンで薄汚れた感じではあったが若い女に見えた。
いや間違いない。
男はその場から動けなくなった。
ひと声かけたいと思った。
迷えば声を掛けられなくなる、迷ってはいけない Don`t get lost.
「ねぇ、こんばんは、」
「ねぇ、そう、君だよ、驚かしてごめん、寒いしさ、温かいモノでも食べに行かない?」
女は顔を上げたまま固まった。
確かに女だ、やはり若い、家出か?
10秒くらい沈黙が続いた。
文句を言って来るのか?
が、極微かに瞳の奥に訴えかけて来るモノを感じた。
彼女は無言のままうなずいた。
そして植え込みから立ち上がった。
見知らぬ者同士が初めて合意した瞬間だった。
動くモノは何もない雪と氷の空間。
測定すれば-20℃には達すると思われる永遠に溶けない真っ白にそして所々に青みがかりながら凍り付いた世界。
それがひとつの言葉で合意した瞬間、その世界の氷が見る見るうちに湯気を立てて溶け出し雪の下から土が顔を出し土が緑に変わり木がはえ花が咲き青空に代わる。
氷河期の景色がたった3秒で春の景色になる、見知らぬ二人に初めて気持ちが伝わり合う瞬間だ。
二人は肩を並べて歩き出した。
「ねぇ、ホテルへ行こう、イヤらしい意味じゃない、本当だ、何もしない、今の君には温かい食事と同時に風呂と着替えが必要だ。」
彼女は 3秒ほど男を見たがまた前を向き黙ったまま歩いた。
5分ほど歩くと鉄道系のシティホテルに着いた。
女をロビーのソファに座らせ男はチェックインカウンターに立った。
休日前で一般向けの部屋は満室、割高の部屋しか空きがなかった。
ベルボーイを断り二人はエレベーターに乗り込んだ。
24階の特別フロアに向かう。
エレベーターの箱の中、無言のまま、気まずい雰囲気を解消するために男は声をかけた。
「大丈夫だよ、本当に何にもしない、」
だが彼女は無言のままだった。
肩を並べて歩いていた時にニオったがエレベーターの中ではそれが確実に隣の彼女からだと言う確信を得て隣をチラリと見たがすぐに視線を正面に戻した。
エレベーターが止まりドアが開いた。
ロビー階とは打って変わって静寂なフロアだった。
廊下を少し歩き男はルームナンバーを確認するとドアを開けた。
照明を点ける。
エグゼクティブデラックスツイン、大きなベッドが二つ並ぶ広い部屋。
男はドアを締めロックを確認する。
女はドア近くにたたずんだまま動かなかった。
「好きなとこへ座って、」
男は女に言うとルームフォンの受話器を取った。
「あ、もしもし、温かい食べ物 何がある? あ、それからね・・・、」
間接照明とスタンドライトが上品で静寂な部屋を演出していた。
今度はバスルームへ行く。
音をたててバスタブにお湯が溜まっていく。
男は女にソファに座るようにうながす。
「何はともあれ まずお風呂だ、お風呂に入りなさい、よく温まって何度も何度もシャンプーしなさい、体も何度も洗うんだよ、」
女は無言で軽くうなずいた。
風呂に入れてその後どうするんだ?
駅前で拾った女、いや、よく見れば女の子だ。
あの様子じゃ未成年だろうな? 犯罪者にはなりたくない。
風呂に入れて飯食わせてまた寒空の元へ返すのか?抱けば犯罪になる、ならばどうして拾ったのか?
わからないが何となくあのまま彼女をあの植え込みに座らせたまま立ち去れなかったのだ。
そう何となくなのだ。
男はバスタブの湯の量を見に行った。
「お風呂 沸いたよ、入って、」
女は顔を上げたがソファから立ち上がろうとはしなかった。
ダウンジャケットのフードをかぶったままなので表情はわからない。
「ねぇ、その顔に巻いた包帯、ケガしてるの?」
女は無言のまま首を振った。
「ケガじゃないんだね?」
「寒さよけ、と、ナンパよけ、」
しゃべった!
しゃべる前は暗い女の子か?と思っていたが案外ハッキリ喋る子だった。
「ナンパよけ?そうか、ケガじゃなければいいんだ、とにかく風呂沸いたから入って、」
女はちょっと間を空けてから言った。
「ぶたない?」
「え?」
女はフードをかぶったまま話し始めた。
「私をぶったり蹴ったりしない?」
「しないよ、するわけない、」
「マジ?」
「マジだよ、今まで誰かにぶたれたり蹴られたりしたの?」
女は軽くうなずいた。
気になる話しだったが今は風呂だと思った。
「ま、話しは後だ、風呂 沸いたから入ってくれ。」
「ぶったり怒鳴ったりしなければ何でも言うことをきくから、」
「わかった、わかったよ、どこか体で痛いとこないか?」
「ない、喉渇いた、」
「ああ、そうか、冷蔵庫の中の物 何でも飲んでいいよ、あ、お酒はダメだよ。」
女は冷蔵庫のドアを開きペットボトルの水を一気に飲み干した。
「もう1本いい?」
「いいよ、好きなだけ取ってお風呂に入りながら飲んでくれ、」
「ありがと、」
女の子は小さな声でそう言うと顔を隠していたフードを頭から取り
ボロボロのダウンジャケットを脱いだ。
そして顔を隠していた茶色く変色した包帯を取り去った。
女の子はペットボトルを2本取りバスルームの中へ消えて行った。
美人だと思った。
大きな瞳、通った鼻筋、とがったアゴのライン。
男は気を落ち着かせるためソファに腰掛けスマホを取り出しチェックをし始めた。
が、もうスマホどころではない。
スマホは立ち上げてはいるが視線はバスルームに行った。
なにか? 話題はないか? 何でもいい?
あんな子どもに何をビビッているんだ。
しっかりしろ、ナメられるぞ。
ソワソワしながら時間だけが流れて行く。
居ても経ってもいられずバスルームの扉の前に立った。
「シャンプー4回、体4回、洗わなきゃダメだよ、聴こえてる?」
返事が返って来ない。
「ねぇ、聞こえてる? わかった?」
「聞こえてる、4回ね、」
今度は返事が返って来た。
ドアチャイムが鳴った。
ドアを開けるとワゴンに食器を乗せたルームサービスが来ていた。
男は届いたシーフードサラダとナッツをツマミに瓶ビールを飲み始めた。
若い女がバスルームにいる、風呂に入っている。
38才、東京で義父が代表を務めている弁護士事務所に努めている、雇われ弁護士だ。
クライアントとの会食の機会も多い、数々の繁華街も渡り歩いて来た。
銀座、赤坂、歌舞伎町、池袋、北、新地、難波、祇園、中洲、ホステスをお持ち帰りしたこともある。
小娘が入っているバスルームの中の様子などドキドキしたりすることはないと思っていたが不思議と今夜は気になって仕方がなかった。
バスルームに突入しそのまま犯すことだって出来る、どうせ金目当てで付いて来たんだろう。
犯す? そんなことやれるのか?妄想するだけだろう?情けないヤツめ。
我慢出来ずにソファから立ち上がってバスルームのドアの前に立ち中の様子をうかがった。
「今、何回め?」
「2回め、あと2回、」
「そうか、ドアの前に着替え置いておくから着るように、下着もあるから、今まで着ていたものは全部捨てなさい。」
「捨てるの?」
「そう、捨てるの、」
「全部?」
「そう全部、明日、ちゃんと買い直すから、」
「お金ない、」
「お金は出すから心配しなくていい。」
男がソファに座って玉子サンドイッチを食べながらグラスのビールを空けるとグレーの上下のトレーナーを着た女の子がバスルームから出て来た。
濡れた髪のために白いバスタオルが肩に敷かれていた。
これがさっきの子か?
男はあざやかなマジックでも見たような気持ちになり拍手しそうになった。
風呂上りだから当然すっぴん状態なのに美人なのだ。
つまり化粧で化けているのではない正統派の美人だと言うことだ。
男は動揺が顔に出ないように意識した。
男は女の子のそばに立って濡れた髪に顔を近づけた。
「よし、いい香りだ、ちゃんと4回洗った?」
女は無言のままうなづいた。
「食べ物、取ったから食べなよ、」
男は努めて平静を装った。
ワゴンの上には鍋焼うどん、サンドイッチ、そしてリンゴ、オレンジ、バナナ、イチゴなどの果物がスライスされて並ぶ皿、そしてプリンアラモードがあった。
女の子はアルコールランプで保温された鍋焼うどんをソファのセンターテーブルに運びウーロン茶を飲みながら食べ始めた。
うどんを箸でつまみ上げフーフーと冷ましてから口に入れたが熱かったため「アッ!」と反応した。
「熱かったか?」
女の子は微かに笑った。
ひとつまみ、うどんを口に入れ噛み飲み込んだ。レンゲでスープをすくい飲む。
女の子の動きが止まる。
「ど~した?」
女の子は指で涙を拭いた。
「別に、」
男は暫らくの間、黙って鍋焼うどんを食べる女の子を見ていた。
ひと通り食べ終わったところで話しかけた。
「名前は?」
「何で?」
瞳だけ動かして小さな声で応えた。
「会話するのに必要だから、」
「警察に通報しない?」
「通報されるよ~なことやったのか?」
女の子は黙ったままうなづいた。
「通報なんかしない、話がしたいだけだよ、なにやった?」
「万引き。」
「何を?」
「食べ物、パンとかいろいろ、あと食い逃げも、」
「情状酌量の余地有りだ、いつか社会貢献して恩返しすればいい、他に悪いことは? やってない?」
間があった。
また無言になった。
「そ~か~、で、何て呼べばいい?」
「好きなように、」
「それじゃ人間同士としてコミュニケーションが取れない、下の名前だけでいい教えてくれないか?」
「ふゆこ、」
「ふゆこ?どう言う字?」
「寒いからふゆこ、」
「何で名前くらい教えられないの?」
「うそつきたくないから。」
小さな声だったがハッキリと言った。
男は話題を変えた。
「いくつ?」
「言いたくない、」
「いいじゃないか、」
「20、」
「ホント?」
「うそ、」
男はひとつ息を吐いた。
「決して説教したり、ましてや警察に通報したりしない、
君を見てるとなぜだか守りたい気分になるんだ、
何かの縁でこうして知り合うことが出来た、これも運命かも知れない、
そんな君をまたあの寒空の下に返すなんてしたくない、
君が生きて行くために力を貸したい、人助けがしたい、それだけなんだ、
少なくとも僕は君の味方だ、少し君のことを話して欲しい。」
女の子は無言のままだった。
「家出?」
「家出じゃない、」
「家出じゃない? じゃなに?」
「一人で生きてる、」
「一人で生きてる?」
「うん、」
「親は?」
「いたけど、」
無言になった。
「けど? 」
「殴られるから出て来た、」
今、多いらしい虐待を受けてる子か? それがとうとう僕のとこまで回って来た?と言うことか。
「お父さんに?」
「ううん、」
「じゃ、お母さんに?」
「違う、」
「じゃ誰?」
「お母さんの男、」
よくあるパターンだ。
「殴られるだけ?」
「蹴られたり、言うこときかないと髪の毛引っ張られたり、ビンタされたり、」
「言うこときかないと、って?」
「ホウシ、」
「ホウシ?」
「お母さんがいない時 ホウシさせられる」
「エッチってこと?」
女の子は無言のままうなずいた。
「お父さんは?」
「昔、いなくなった、」
「そっか~、でも君がいなくなればお母さん、心配するだろ?」
「しない、男が私に手出しているの知ってるから 出てけ、いなくなれ、って言ってた、
ある日10000円くれて、手切れ金だ、どこへでも行きな、ってアパートから出された。」
「それいつのこと?」
「中3のころ、あ!」
女の子はしまった!と言う表情をした。
「中3?のころ、どのくらい前? 」
「・・・、一年 ちょい、かな?」
15、6、か、明らかに未成年だ。
「高校は?」
「行ってない、」
「そ~か~、」
また少し時間を空けた。
「じゃ1年ちょっとホームレス?」
「ホームレスじゃない、ひとりで生きてるだけ、」
「あ、まぁ、そのひとりで生きてるのが約1年ちょっとか?」
「2年かな? アパートにいる時も家にいたくなかったから、」
「食べ物は?」
「コンビニ、ファミレスの裏の廃棄物かスーパーの万引き、」
「それだけで食いつないで行けるか?他は?」
「エンコウ、」
「体、売ってお金もらうやつか?」
「でもマジでしたくなかった、」
「なぜ?」
「怖かったから、」
「怖い? 何で?」
「何だかんだ言って結局 お金くれない、お金くれって言うと殴られたから、」
男はビール瓶に残ったビールをすべてコップにつぐとビールを飲み干した。
この若さでなかなかハードな人生歩んで来たんだな。
「2年間風呂入ってなかったの?」
「たまに体は拭いた、」
「どこで?」
「公園の水飲み場。」
「え? 目立つだろ?」
「夜中だから、 冬、寒かった、」
「そ~か、だろ~な、今夜はゆっくりベッドで寝な。」
「その前にやることやんなきゃ、」
男が?と言う表情をしていると女は続けて話した。
「さっさとやって金、人助けしたいとか言ってたけど、なら金ちょうだい、ホテルに泊めてくれるし食べ物ももらったから 4万のところ3万でいいから、」
男はスーツのポケットから財布を取り出し万札を5枚数えて差し出した。
「え? 5万?いいの?」
「いいよ、」
女は札をつかみポケットに入れようとしたが 2万を返した。
「こんなに良くしてもらって5万は多過ぎる、」
「いいんだよ、取っておきな、まだまだ寒い日は続くから、」
「ダメ、もらえる理由があるならもらうけど理由がないならもらえない、」
男は少し口先をすぼめて感心しながら返金を受け取った。
「そ~か、」
エグゼクティブデラックスツイン、間接照明が安らぎ感を演出する部屋。
38の男と16くらいの女がいる。
親子としか見られない二人 男はこんな値段交渉をしている自分が可笑しく思えた。
「じゃ、する?」
「しないよ、」
「え? しないの?」
「しない、」
「しないのにお金くれたの?」
「そう、」
「それじゃお金もらえない、」
「なら、足の裏揉んでくれる?」
「いいけど そんなことでいいの?」
「ああ、いい、」
「わかった、じゃ、 ベッドに寝て、」
「それ全部食べてからでいいよ、」
男は靴下を取りベッドの上から食事をする女の子を見ていた。
オレって本当はロリコンなのか?
見ていて血が騒いだ。
ホステスより血が騒いた。
しばらく見ていたがやがて女が食事を終えてベッドに来た。
男はうつ伏せになった。
細い指が足の裏に触れる。
最初はくすぐったかったがすぐに気持ち良くなって来た。
「あ~、気持ちいい、」
「ここ?」
「あ~、気持ちいい~!」
「もうイクの?」
二人同時に笑い声を挙げた。
本気で笑った。
16才くらいの女の子にしてはマセたジョークだが可笑しかった。
本気で笑う。
笑えば いい子じゃないか、と思う。
相手もいい人じゃないか、とお互い理解し合える。
その笑いは二人の間の距離を縮めた。
若い女の子の指は柔らかくてどこかくすぐったい。
男は自然と笑ってしまう。
また二人の笑い声が大きくなった。
「そんなくすぐったい?」
男は背を反らして笑った。
「もういい、もういい、」
「じっとしてなきゃマッサージ出来ないよ。」
男が笑えば女の子も笑う、女の子が笑えば男も笑う。
ツボにハマった。
男が肩で息をしながら言う。
「ちょっと待って、気持ちを落ち着かせるから、」
部屋が静かになった。
「大丈夫?」
女の子が言う。
男は何度も細かくうなづいた。
「じゃ行くよ、」
女の子の細い指が男の足の裏を押し始めた。
男が身をよじった。
男の肩が震え出した。
大爆笑になった。
笑い合った。
「もういい、ありがとう!」
「ダメだよ、まだ全然マッサージ出来てない。」
「充分してもらった、ホグれたよ。」
「やってないじゃん、」
「足はやってないけど心がホグれたよ。」
「ココロ?」
「指、見せてみて、そのくすぐったい指。」
ベッドの上でジャレた。
出会ったばかりだと言うのに本物の親子より仲がいい雰囲気になった。
「服、全部捨てさせただろ? 明日、服、買いに行こう、」
「お金ないから今までのヤツ着る、」
「お金の心配はしなくていい、わかった?」
女の子は黙ったままうなずいた。
「ねぇ、続き、」
彼女の柔らかい指が男の足を包んでいく。
不思議と今度はくすぐったくなかった。気持ち良かった。
「ねぇ、さっき何で池袋の駅前で私に声かけたの?」
「可愛かったから、」
「だって顔、隠してたのに、」
「チラっと見えたんだ、」
「可愛くないよ、」
時計を見ると夜11時だった。
「もういいよ、疲れたろ? もう寝な、」
「いいの? 3万もくれたのに、」
「ああ、もういい、じゅうぶん気持ち良かったよ。」
「ホントは眠くなっちゃったの、」
そう言いながら女の子は隣のベッドへ移る。
「携帯、充電しなくていいの?」
「あ、いいの、」
「バッテリー無くなるよ、」
「あれ、ニセ物だから、」
「ニセ物?」
「だって今、ケータイ持ってないとオカシイでしょ?」
「そ~なのか?」
「それにケータイ見てないとヒマだと思われてすぐナンパしてくるし、」
「どこで手に入れたの?」
「ショップ、」
女の子はベッドに潜り込んだ。
そのまま静かになった。
明日、服を買いに行く約束までしてしまった。
なぜ?こんなにこの子に入れ込むんだ?
16才を抱けば犯罪だ。
それならど~する? 明日、服を買ったら別れるしかない。
そりゃそうだ、これ以上関わっても何のメリットもない。
ホントにそうか?何のメリットもないのか?
可愛いと思ってるんじゃないか?
ベッドに潜り込んだ顔を見るともう軽い寝息を立てていた。
よく寝ている、可哀想によっぽど疲れたんだろう。
ひとりで生きてる、か、俺と同じだ。
男は冷蔵庫から冷えた缶のジントニックを開けるとテーブルのオレンジと一緒に飲んだ。
嫌な予感と言うモノがある。
例えば胃がたまに痛む、たまにだ。
まさか?自分に限ってそれはない、断じてない、そう思った瞬間、嫌な予感がする。
胃癌。
例えば、どこかで子犬の鳴き声がする、嫌な予感がする。
まさか?子犬が捨てられているのか? 嫌な予感は的中する。
結局、見過ごすことが出来ず家に連れて帰ってしまうことになる。
毎日の散歩、餌やり、糞の始末、それが何十年にもおよぶことになると知っているにも関わらず、愚かにも犬を飼ってしまう。
今も嫌な予感がしているのだ。
家に電話した。
妻が出た。
事務所に泊まった、明日は大阪に出張だと言って切った。
短い電話。
食事はちゃんとしたのか?も聞かない。
いつものこと。
男がいるのは知っている。
2年前、よく使う興信所に依頼した。
仕事で知り合った IT関連企業の社長らしい。
なぜ?電話なんかしたのか?
向こうだって帰宅時間が遅いことがある。
お互い様だ。
心底にヤマしさがあるからか?
何がヤマしいのだ? 未成年者だからか? 確かにそれはある。
だが何もしていないのだ。
まだ何もしていないのだ。
おい、お前、弁護士だぞ。
クライアントに提出するレポートを PC で書いていた。
ふと背中に気配を感じ振り向いた。
女の子が上半身をベッドから起こしていた。
「どうした?」
男が声を掛けた。
「ううん、何でもない 寝ないの?」
「ああ、起こしちゃったか?」
時刻は0時を回っていた。
さっきの笑いで少しは心を開いたのだろう?
女の子がベッドから下りてソファーの男の隣に座った。
しばらく無言だったが女の子が口を開いた。
「すごい、」
「なにが?」
「世の中にはこう言う人がいるんだ。」
「オレ?」
「そう、」
「なにが?」
「だってさ、こんなホテル見たことない、私が知ってるホテルってベッドがあるだけ、それに何もしないのにお金くれて、ヤラセロって感じじゃない、ねぇ何で?」
男は微笑んだがしばらく考えていた。
「お金で何でも思い通りになるとは思ってないからかな?」
「え? どう言うこと?」
「例えばお金で誰かを抱いたとする、でもそれは虚しいだけ、愛されてないって感じるから、手をつなぐだけだって愛されているって感じれば心は満たされるよ。」
女の子は黙ったまま微かにうなずいた。
「それとね、援助交際、つまり売春は止めた方がいい、その理由は二つ、その一つは肉体的にも精神的にも自分を傷付けるから、病気が感染するし怖いめにも合う、だろ?」
「だってお金稼がないと生きられない。」
「技があればいい、」
「技?」
「そう、誰かに必要とされる人間になればいいってこと。」
「私、誰からも必要とされない、」
「今はね、でもドンドン技を身に付けていろんなことが出来るようになれば必要とされる人間に変わっていく、それを修行って言うんだ。」
「シュギョウ?」
「そう、」
「それと売春を止めた方がいい理由の二つめ、年を取るから、」
「年を取るから?」
「そう、その女の子が永久に年を取らないなら美しいままなら感染予防をしっかりとして、怖いめに合わないように強そうな男を間に入れて売春すればいい、楽にお金を稼げるからね、でもどんな花もいつかは枯れる、枯れた花に売春は出来ない、一度、楽にお金を稼ぐ経験をしてしまうと年を取っても楽に稼ぐことばかり求めてしまうがもはや無理、そうなってから技を身に付けてお金を稼ごうとしてもやる気も出ない。」
女の子は黙ったままだった。
「ごめん、つまんない話しをした。」
「ううん、話してくれてありがとう、」
「なんか温かいモノでも飲むと眠れるよ、」
男はホットミルクを注文した。
曜日に関係なく毎朝同じ時間に目が覚める。
隣のベッドを見ると布団が盛り上がっている。
やはり現実なんだと思う。
顔を覗くが黒い髪しか見えない。
ピクリとも動かない、熟睡しているのだろう。
充電してあるスマホを見る仕事関係のメールに新着が来ていた。
チェックする。あっと言う間に50分が経つ。
事務所の事務員にメールする。
事務所には立ち寄らずそのまま大阪に出向くことを伝える。
シャワーを浴びる。
髭を剃る。
昨日と同じシャツを着る。
事務員からの返事が来ていた。了解とのこと。
代わりに3つのリクエストが来ていた。
それに応えるとあっと言う間に9:00AMになった。
「朝だぞ、起きて、」
羽根布団をゆする。
無反応。
が、3回繰り返すと布団の中からうめき声が返って来た。
「あ、夢じゃないんだ、」
「やっぱり布団で寝る生活っていいもんだろ?」
女の子は目を閉じたままうなずいた。
ルームサービスで運ばれて来た朝食を食べる。
中華粥にサラダとオレンジジュースにウーロン茶。
「とにかくそのナリじゃ外も歩けない、服を買いに行くから。」
女の子は無言のままペコリと頭を下げた。
男の右の口元が少し上がった。
10:00AMを過ぎてからチェックアウトした。
灰色のトレーナーの上下を着た10代半ばの女の子とグレーのコートに紺のスーツを着たおじさんが池袋駅の地下街を肩を並べて歩く。
親子にしか見えないはずだ。
行き交う人がコート姿の男とトレーナー姿の女の子を物珍しそうに見ながら通り過ぎて行く。
「まずは下着だ。」
しばらく歩くとランジェリーショップが見えた。
色鮮やかなブラジャーやショーツが並びまるで花畑のような店先だった。
店先で男の歩が止まった。
女の子が男の横顔を見た。
どうしたの?と言う表情だった。
「娘の買い物に来たんだと言えばいい。」
店内に思い切って足を踏み入れるとすぐに20代半ばと思われる女の店員が寄って来た。
「いらっしゃいませ。」
「あのね、、」
その後の言葉が出て来なかった。
「お嬢様の?」
「うん、娘に下着を選んでやって欲しい。」
男は 娘 を強調した。
「はい、どんな下着を?」
女子店員は男と女の子の顔を交互に見た。
男はランジェリーショップの中にいる自分の姿を道行く人はどう思っているのだろうか?とそればかり気になっていた。
「下着を一週間分選んでくれ、」
「はい、下も上もですか?」
「ああ、」
「靴下も取り揃えておりますがいかがでしょうか?」
「必要ならたのむよ、」
「あ、お客様、お色とかデザインはど~しますか?」
「基本は白で後はこちらの好みで、」
「こちら?」
店員が え? と言う顔をした。
男は店員からも店内の客からも店の外を往く人からも顔が見えないように後ろを向いた。
「色はどっちがいい?」
「デザインはどっちがいい?」
「キャミはどれがいい?」
男は最初こそ恥ずかしかったが段々と度胸が据わって来た、と言うより慣れて来た。
10代半ばの女の子の色鮮やかで華やかな下着を選ぶのは世間体さえ無視すれば楽しかった。
男の心中は95%のドキドキと5%のデザイナー気分で占められていった。
他のお客さんがいなくなるとデザインにまで意見を言うようになった。
「いや、こっちの方がいいと思う。」
「白もいいけど薄いピンクもいいと思うな。」
「試着?」
「出来ます、こちらへどうぞ、」
男が え?と言う顔をすると女の子は店員と共に店の奥のカーテンへと消えて行った。
しばらくするとカーテンの隙間から中を覗き込んだ店員が話し始めた。
「ねぇ、これどうかな?」
カーテンの中の女の子から男を呼ぶ大きな声がしたが男はすぐに背中を向けた。
店員とカーテンの間で小さな笑いが起こった。
大きな紙袋 2つになった。
「いいの?こんなに買ってもらっちゃって、」
「いい、女の子らしくなっていいよ、それよりスーツケースが要るなぁ。」
次はスーツケースを買いに行った。
シルバーのスーツケースを購入。
「これなら君が入るな。」
笑う女の子。
「背は?」
「160くらい?」
「へ~、」
そして次の店、洋服屋に行く。
下着ショップをクリアした男にとっては洋服屋のハードルは低くなった。
「おお、これ可愛いんじゃないか?」
アイボリーのダッフルコートにチェックのシャツとベージュのニット、オレンジのスカーフとデニムパンツにローハー。
男はマネキンの着ている服を上から下までそのまま買った。
女の子は買ったばかりのダッフルコートに着替え試着室からカーテンを開けて現れた。
「お~ 思った通りだ、」
「思った通り?」
「可愛いよ! 服が!」
「モデルがでしょ!」
二人がジャレ合う。
男は女の子の笑う横顔を見た。
ドキッとするほど可愛いかった。
次のショップへ渡り歩く。
女の子がワンピースに手を伸ばす。
「あ~、こ~ゆ~の好き、」
「じゃ、これね、」
「でもいい、いらない、」
「ど~して?」
「だってもうたくさん買ってもらったよ、」
「いいよ、こっちだって楽しいんだ。」
「ほんと?」
それから靴とバッグのショップを渡り歩いた。
お昼を過ぎて二人はレストランに入った。
「ねぇ、まだ名前訊いてなかった。」
女の子が訊ねて来た。
男が口を開いた。
「名前は高木洋平」
「タカギヨウヘイ?」
「タカギは普通の高木、ヨウヘイは太平洋の洋に平和の平。」
「年は?」
女の子が続けて訊ねた。
「取り調べだな、38、君が16だろ? 22差だ。」
「ヨーヘー、」
女の子が声に出して呼んだ。
「なんだ、いきなり呼び捨てか? 22上だぞ。」
「じゃ、ヨウちゃん。」
二人はずっと笑顔だった。
「そっちは?」男が言った。
「まつもとゆいか」
「まつもとゆいか? いい名前だな、どんな字?」
「松本は普通の松本、ゆいかのゆいは結ぶ、結婚のけつ、ゆいかのかは花。」
「そうか、いい名前だ、結花、」
「はい、」
元気のいい返事だった。
「ホントにきれいになった、夕べとは大違い。」
「初めてだよ、そんなこと言われるの。」
テーブルが静かになった。
「なぁ、結花、」
「なに?」
「俺、そろそろ仕事に戻らなきゃならない。」
サッと結花の顔色が変わった。
「そうだよね、」
池袋駅構内。
銀色のスーツケースを引いたアイボリーのダッフルコート姿の女の子とグレーのコートに紺色のスーツ姿の中年男。
「俺は東京駅へ向かう。」
「東京で仕事?」
「いや、大阪へ出張なんだ。」
「そう、」
「キップ買ったろ? どこへ?」
「私は、そ~だな、新宿でも行ってみようかな?友だちもいるし、」
「そ~か、あ、連絡先は・・・、俺のスマホの番号教えておく、何か?書くもの、」
探したが何もなかった。
「いいよ、私、かけないし、」
「そ~か、」
二人は歩き出した。
「新宿・渋谷方面、5番線、6番線そっちだな、俺の方は7番、8番線だから、」
結花は無言のまま小さく頷いた。
「じゃ、行くよ、」
高木はそう言うとホームへの石段を登り始めた。
一歩、一歩、上る。
昨夜、池袋の西口で拾ったホームレス女の子。
体から発するニオイも臭かった。
それがひと晩で変わった、可愛いのだ。
だが所詮、大人と子どもだ。
恋愛の対象に考えてはいけないのだ、むこうもこっちも。
未成年者、家出娘。
飯も喰わせたし風呂にも入れた。
それで終わり、それでいい。
それにしても今まで俺の人生であんなに可愛い子は出逢ったことあっただろうか?
いや、なかった。
あの可愛さに負けて服まで買ってやった、楽しかった。
あれがデートってやつか?ホステス相手じゃ得られない気分だ。
どうする? このままさよならか?
当たり前だろ? あんな子に関わっているヒマなどないはずだ。
もっと考えなければならないことが山ほどあるだろう?
仕事のこと、事務所のこと、妻のこと、息子の進路の問題、
家出娘どころではないのだ。
まず大阪出張のことを考えろ。
とりあえず着替えを取りに一度家に立ち寄らなければならない。
そんなことを思いながら石段を上り終えた。
お昼になろうとする時間だったがホームに出ると寒かった。
アイボリーのダッフルコートを探した。
いた。
向かいのホームにいた。
目は合ったがお互いに特に反応しない。
恥ずかしい。
結花が小さく手を振ってきた。
応えられるか 恥ずかしい。
電車が来ないか?ホームに首を出して左右をのぞく結花。
その仕草を見て女優か、タレントか、どっちでも成功するだろうと思った。
だが、どうしようもない。
忘れよう。
仕事もある、今、重要な案件を抱えている、手は抜けない。
第一、妻も子どももある、世間体もあるしましてや仕事柄絶対 手を出してはいけないケースだ。
考える余地などない。
ホームにアナウンスが流れた。
電車が入って来た。
向かいのホームにも電車が入って来た。
結花を目で追ったが見えなくなってしまった。
これでいい、これでいいんだ。
頭とは裏腹に目は結花を探した。
いない、いない、どこに行った? いない。洋平は焦った。いない。
無意識の内に洋平は階段を一段飛ばしで駆け降りていた。
電車に乗ってしまう、それでいい、いいはずだが、乗ってしまう、止めなければ、階段 半ばの平らな所で飛び降りた瞬間、足をくじいたが構わず走った。
そして階段を最後まで飛び降りた瞬間、アイボリーのダッフルコートが目に入った。
いた!
互いに駆け寄った。
そして二人は飛び付き抱き合った。
が、高木はすぐに体を離した。
乱れた息のまま隠せない笑顔で高木が口を開いた。
「ど~した?」
「わかんない、よ~ちゃんは?」
結花は宝くじで10万円当たったかのような表情だった。
「オレもわかんない、」
二人は大きな声で笑った、そして再び抱き合った、細い体だった。
結花の腕が高木の首に回った。
キスしそうになった、高木はそれをやっとの思いで止めた。
「新宿の友達、会わなくてもいいか?」
「いいよ、あんなのウソだもん。」
また笑い声を挙げる二人。
「大阪、付き合わないか? たこ焼き食べに行こう。」
何も言わないまま結花は再び高木の首に飛びついた。
東京駅構内のコーヒーショップに結花を待たせ五反田の自宅に向かった。
駅から徒歩圏内にある築15年になる賃貸マンションだ。
誰もいないはずのインターフォンに妻が出た。
石造りのメインエントランス、ロックが解除され中に入る。
まだいたのか?いつもなら仕事に出ている時間なのに。
中2の息子はとっくに学校に行っているはずだ。
妻、玲子。
肩までのショートボブで栗色に染めている。
大股で歩く。2つ年下の36才、身長は162。行政書士として働いている。英会話、スイミング教室、着付け教室と習い事も多い。20代に見られることもあると聞いたことがあるがまんざらウソではないかも知れない。
それなら世間の男が放っておかない?かも知れないと妄想したことがあった。
なぜそんな妄想をしたのか?
以前、なんだ?と思ったことがあったからだ。
妻が主に使う車のドアのポケットに駐車場のレシートがあったのだ、テーマパークの駐車場だ。息子と二人で行ったのか? が、そんな話は妻からも息子からもなかった。他にもメールにチグハグな返事があったことがあった。「いつならいいの?」何のことだ?
そんな会話に身に覚えは無かった。
もしあれば直接話して来るはずた。
仕事柄、素行調査などはよく使う。
調査した。
案の定、男がいた。
不思議と狼狽えなかった。
妻はどうして不倫を?と考えた。
仕事柄、素行調査など簡単に行える弁護士と言う仕事に就いている自分のことを考えなかったのか?
もしかしてバレてもいいと思っているのか?
多額の費用をかけて調査しこれ以上不幸を招き入れるのも得な行動ではないと自らを納得させたので何も言わなかった。
ドアを開けるとその妻が奥から廊下を歩いて来た。
「お帰り、泊ったの?」
「ああ、これから大阪へ行く、着替え、」
高木は言いながら妻とはすれ違いに奥へと入って行く。
「シャワーするから着替えたのむ、」
夕べ、シャワーはしたのだがここはシャワーしないとまずい。
「ご飯は?」バスルームに妻の声が追いかけて来た。
「いいよ、なんか温かいモノ飲みたい、」
「コーヒー? 紅茶?」
「緑茶、」
高木は頭からシャワーを浴びた。
浮気なんかしていない、まだ。
しばらくして高木がバスルームから出てリビングのソファに座った。
「折り畳みベッドあってよかったわね、ちゃんと眠れた?」
妻、玲子はそう言うと湯呑茶碗を差し出した。
「ああ、」
「寒くなかった?」
「毛布 2枚あるしエアコンだってある。」
「下着と靴下とシャツは出しといたけどネクタイは自分で選んで、私そろそろ出るから。」
薄桃色のタートルネックにベージュ色のスーツ姿、手にはダウンコートとバッグを持ち、
栗色のストレートを肩まで垂らした妻が玄関へ歩き出す。
「髪、伸びたな」
玲子の足が止まり振り向いた。
「私の外見を見るなんてめずらしい、やましいことしてる?」
「別に、」
「そんな訳ないか?」
薄ら笑いを浮かべて玄関から出て行った妻。
高木はドキリとした。何も言わない方が良かったと後悔した。
慌てて身支度をする高木。
頭の中は結花のことでいっぱいだった。
ちゃんと待っているか?
急いで着替えてから玄関を開けて外へ出る。
寒かった。
東京駅に着いた。
スーツケースを片手で持ち上げエスカレーターを急いで下りる。
人の流れに逆らいスーツケースを引き足早に歩く。
昨日 出会ったばかりだ。まだどんな人間かもわからない。
隙を見て財布を抜いてドロンするかも知れない。
いや確実にそうだ、そうに決まっている。
でなきゃこんなオッサンについて来るなんておかしい。
わかっているさ、そんなこと。
でも早足になる。
これが若い頃、未体験のまま通り過ぎてしまった「恋」ってやつなんだと思う。
症状としてはこれに憑りつかれると判断能力が著しく低下すると言う。
そんなことなんてあるものか?と思っていたが夕べから自分の判断力がおかしくなっていることだけは自分でもわかる。
だが、その病原菌を遠ざけるどころか?自ら接触しに行ってしまっている。
おかしい、確実におかしい、夕べから。
八重洲地下街のコーヒーショップに着いた。
いない。
さっき、座らせておいた席にいないのだ。
店内を見渡したがいない。
トイレか? 店の外の通路を見る。
左右へ首を振る。
どんどん客が入って来て入れ替わって客が出て行く。
どこ行ったんだ・・・、
レジの店員に話しかける。
店員は首をかしげた。
20分ほどしたが結花は戻って来ない。
店の外へ出て辺りを見回すがアイボリーのダッフルコートは見当たらなかった。
姿をくらませたんだ、きっとそうだ、最初からこんなオッサンと旅行なんかする訳がない。
いいじゃないか、それならそれで。
こっちだってヘンな問題抱えなくてすむ。
さらに30分経過した。
もういい、新幹線に乗ろう。
だが高木はその場を去ろうとはさなかった。
あいつめ、どこへ行ったんだ。
八重洲中央通路まで探し回った、いつのまにか八重洲口全体を探していた。
1時間が経ち1時間半が経った。もう一度コーヒーショップに戻ったがやはりいなかった。
高木は深いため息をついた。
ダマしか、ウソだったんだ全部。
池袋の駅でオレに抱き付いて来たのもウソか、それなら名女優だ。
だいたいこんなオッサンに若い子が好きだなんてヘン過ぎる。
もう行こう。
高木はスーツケースを引き新幹線乗り場へ向かった。
改札をくぐり東海道山陽新幹線のホームに出て到着していたのぞみに乗り込みシートに就いた。
いつもなら弁当と缶ビールを買い一杯やり始めるのだがそんな気分にならなかった。
車窓からホームを見ていた。
続々と乗客が乗り込んで来て荷物を頭上に持ち上げていた。
結花、短い間だったが夢を見させてもらったよ。
そんなことを思っているとホームに電子音が鳴り響き新幹線の扉が閉まるアナウンスが流れた。
こんなとこに居られない。
「すいません」そう言って隣の席の前を横切りスーツケースを取り出して新幹線のドアから飛び出た。
その瞬間ドアが閉まった。
良かった、何故だか ホッとした。
空かさずホームを早足で歩き出した。
不思議だが心が晴れやかだった。
微笑んでいた。
微笑んでいる自分が楽しかった。
山手線のホームへ急ぐ。
秋葉原・上野方面 池袋に向かう。
やがて池袋駅に着き西口へと向かう。
いないとわかっていてもドキドキした。
池袋駅西口に出た。
見渡したがアイボリーのダッフルコートはいなかった。
いるはずのないアイボリーのダッフルコートを探して歩き回った。
交番付近、西口五差路、公園、劇場、繁華街、いない。
寒さで耳が冷たくなった。あいつ震えてないか?もっとお金を渡しておけば良かった、と悔やんだ。
あ!
さっきまでの宛ての無い歩き方とは違い一直線に歩き出した。
昨夜、結花と過ごしたホテル 階段を早足で上がりロビーに入った。
中は温かい。辺りを見渡した。
いた!
確かに結花だ、間違いない。
うれしさで顔が赤くなり一気に体温が2度くらいは上がったような気がした。
高木はもう二度と見失なわないように結花から視線を外さないまま柱に身を隠しアイボリーのダッフルコートの背後から忍び寄った。
なるべく明るい言い方でなるべく脅かさないようになるべく小さな声で話し掛けよう、そればかり思った。
高木は背後から結花の耳元に囁いた。
「お嬢さん、待ち合わせ場所が違いませんか?」
結花は振り向きざまに高木の首にしがみついた。
高木も抱きしめた。
結花が泣いた。
幼子が注射された様に泣いた。
声を挙げて泣いた。
「ご、ごめんなさい、でも家庭がある人だから私なんか迷惑だから、」
それを言うのが精一杯で後は泣き続けた。
「迷惑なら探しになんか来ないさ。」
高木も言葉が詰まった。
すぐに周りの視線が気になった。
結花をうながすと二人揃ってロビーの出口へ向かった。
「オレと一緒に来ないか? 大阪へ。」
「いいの? 私を連れて行ったら人生変わるよ。」
「人生変わる・・・か、」
子どものくせに大人びたことを言う、と思ったが、
それは正に結花の言う通りで結花を探し回りながら自分自身に本当に見つけ出していいのか?と問いかけていたことだった。
「いいさ、覚悟の上だ。」
二人は東京メトロ丸の内線へと階段を下りて行く。
結花の指が高木の左袖口をつかんだ。
やっとオレと一緒に来る気になったんだなと思い高木は嬉しくなった。
東京駅に着いた。
どう見ても親子の二人、東京駅構内を歩いた。
今度は駅弁とお茶と缶ビールを買い込んだ。
楽しい、結花が隣にいるだけで駅弁を選ぶ作業も特別な時間になる。
東海道・山陽新幹線中央のりかえ口に来た。
窓口でチケットを買う。「新大阪まで大人2枚」
ホームを歩く 今度は結花を連れて。
風の冷たさが耳と手を冷たくしていく。
発車案内版を見上げる洋平。
白く長いのぞみに沿って歩く二人。
「これ、12号車だ。」
冬の陽は短いからか? 空は暗くなり始めて来た。
通路を歩きシート番号を確かめスーツケースを上げ席に就き息をついた高木。
すると結花が手をつないで来た。
高木は振り払うでもなくそのままの状態にした。
高木の胸の鼓動が高鳴った。
無言のままだった。
こんな状態になるのは親子ではない。
友達でもない。
では何なのだ? 恋人?
それをそのままにしていると言うことは肯定しているのか?
何かしゃべらないと気まずい空気になる。
どうしていいのか?わからなかった。
高木は目をつぶった。
結花の小さな手と冷たさが伝わって来た。
しばらくすると車内アナウンスが流れて来た。
結花が小さな声で言った。
「手、やっと温かくなってきた。」
高木は微笑むのがやっとだった。
ゆっくりと窓の外が動き出した。
のぞみが新横浜を出てからどちらからともなく駅弁の紐を解き始めた。
プシッと缶ビールを開ける。
特製幕の内弁当、ひと口サイズでいろいろなおかずが入っている。
笑いながら食事を取るなんていつ以来か?
弁当を食べ終わり高木は少し寝ることにした。まぶたを閉じた。
高木を見てなのか? 結花もまぶたを閉じた。
さっきまで結花の笑い声に包まれたシートが静かになった。
だが美少女を隣に座らせてスンナリ眠れるはずもなく高木は結花を見た。
みずみずしい桃のような肌、長いまつ毛、スッと通った鼻筋、サクランボのような唇、細く艶のあるストレートな黒髪、よくぞこんな美少女が毒牙に捕まらずいたものだ、とつくづく思った。
いや、俺自身が毒牙かも知れない。
どんな事情があるにせよ16才の少女を保護者に断りもなく連れて歩くこと自体犯罪なのだ。
法曹界に生きる者にとってあるまじき行為を今しているのだ。
だが彼女は嫌がっていない、むしろ喜んでいるのだ。喜んでいる?本当に喜んでいるのか?
よく逮捕された被疑者が繰り広げる自分勝手な都合のいい解釈と言うやつがこれじゃないのか?
今、この子が泣きながら別の乗客に助けを求めたら鉄道公安官に逮捕される。
そうなれば新聞、テレビ、週刊誌の格好のゴシップネタにされる。されればどうなるか?
弁護士の仕事は出来なくなる、家族はどうなる?離婚は当たり前、損害賠償請求裁判も起こされるだろう。
結花が一瞬目を開けて高木を見たがすぐにまた目を閉じた。
結花の左手が高木の太ももに置かれた。ジワっと体温が伝わって来る。
この可愛い手。
結花との時間が最優先になってしまう38才妻子持ち弁護士高木洋平だった。
やがてのぞみは新大阪に着いた。
もはやすっかり夜だった。
一月末、ホームに出るとすぐに耳が冷たくなった。
二人は在来線に乗り換えネオンきらめく大都市大阪の中心地 大阪駅近くのホテルにチェックインした。
スーツケースを部屋に置き近くの新梅田食堂街へと紛れ込んで行った。
木のカウンターに並んで座る。
寒さ厳しい外から暖かい店内に入るとそれだけでホッとした。
外の通路からノレンをくぐりサラリーマンが出入りする。
「こ~ゆ~雰囲気のお店好き。」
「良かった。」
運ばれて来たミックスフライ定食と海老フライ定食を前に高木が言った。
「たこ焼きじゃなくてごめん。」
「明日はたこ焼きね♪」
高木は生ビールにしようとしたが寒いので燗酒にした。
結花は烏龍茶のジョッキを傾けた。
燗酒が胃に入り腹がポッと温まった。
傍から見れば親子連れが食事をしている、それだけの風景だった。
「結花、写真撮らせてくれないか?」
「ヌード?」
二人は声を挙げて笑った。
「顔だよ。」
「いいよ、でも撮ってもつまんないでしょ? ブスだし。」
「ダーツの的にする。」
結花が高木の肩をブツ仕草が可愛いかった。
スマホでワンショット撮った。
部屋に戻り風呂上りにホテルの浴衣姿でツインベッドの片側にうつ伏せになる高木。
同じく浴衣姿の結花が高木の足元に座り足の裏を指圧する。
静かな時間が流れた。
「明日、昼間は仕事に行く、留守番しててくれ。」
「わかった。」
結花の指は土踏まずからふくらはぎへと昇って行った。
「何もしないの?」
うつ伏せのまま洋平が応える。
「弁護士だぞ、君に手を出したら一巻の終わりだよ。」
「私が訴えたらでしょ?」
「それはそうだが、いつリークするやも知れん。」
「リーク?」
「この関係が世間にモレるってこと、ホテルに泊まるのだって連泊は出来ん、親子関係とおぼしき中年男と十代半ば女子が泊まるんだ、ホテルだって普通じゃないと思っているはず、もちろんビデオカメラには録っているはずだ、もしかしたら既に当局に通報されているやも知れん、事件が起きていないから警官が来ないだけで。」
結花は黙ったままだった。
また静かな時間が流れた。
「私は捨て犬だったでしょ、池袋の街角であなたに拾われるまで、生きて行くために何でもした盗みをしたり体を売ったりもした、でも、もうあんな生活には戻りたくない、旅に連れて行ってもらい食事をしホテルに泊まる、それだけだといつかあなたに捨てられる、またあの捨て犬生活に逆戻りになる、そう思うとなんだか怖い。」
高木は黙ったまま聞いていた。
「息が詰まる、与えられるだけの生活は苦痛。」
「どうしたい?」
「あなたにとって私が必要だと思える人間になりたい、昨日、あなたが話してくれたシュギョウ、」
「修行?」
「そう、人に必要だと思われる技を持ちたい、生きていくための技を。」
「へ~、そうか、どんな技を身に付けたい?」
「それは思いつかないけど、何となく興味あるのは料理。」
「料理?」
「どんな料理?」
「どんなって? 池袋のホテルで食べた鍋焼きうどん、美味しかった。味はもちろんだけど心まで幸せな気分になれたの。食べ物で人を幸せに出来るんだ、って思った。」
高木はベッドから身を起こした。
結花はベッドに座り直して更に言葉を続けた。
「辛い時、悲しい時、嬉しい時、どんな時でも人はご飯を食べる、その食事を出すことで辛さ悲しさを減らしたり喜びを増やしたり出来ればそんな嬉しいことはない、私もそうだったから、そんな料理人になりたい。」
「立派な志じゃないか、大したモンだよ。」
「なんか生まれて初めて夢を持った気がする。」
結花が微笑んだ。
高木も自然に微笑み返した。
無意識の内に見つめ合ってしまった。
しっかり見詰めて来る結花に対して目を反らすのも違うと思い見詰めたままだった。
会話が途絶えた。
高木の胸がドキドキし始めた。
ベッドに浴衣姿の二人が肩を並べて座っている。
結花の洗いたての髪から抑え込んでいた邪悪な男の本能を揺さぶり起こし建前を打ち砕く女のニオイがして来た。
高木は横目で結花の少しふくらんだ胸元を見た時、理性が打ち砕かれた。
高木の息が荒くなった。
結花が小声で言った。
「どうしたの?」
高木の手が結花の肩を抱き唇を結花の唇に近付けて行った。
キスをした。
結花が高木の胸を押し返し体を離した。
「イヤか?」
「ちょっと待って、明かり消す、」
間接照明、ベッドスタンド、部屋のすべての灯りが消されカーテン超しの外の明かりだけになった。
青白く見える二人の影。
二度目のキスは長くなった。
「とんでもないことをしてしまった、すまない。」
「すまなくなんかない、好きなようにしてもいいよ。」
体を離そうとする高木。
高木の胸に顔を埋める結花。
大阪に宿泊し翌日、東京へ帰った。
帰りの新幹線の中で急遽ネットで検索した小田急線本厚木駅近くの家具付きウィークリーマンションを見に行った。
本厚木駅からの線路沿いに10分ほど歩くと見えて来る新築家具付きアパートで6畳ひと間の1K、シャワートイレ付き。寝るだけなら充分な部屋だった。
契約。
新宿から本厚木まで急行で一時間弱で行く。
入居を始める日、必要最低限の生活道具を買い揃えるため高木も本厚木にいた。
本厚木駅前の中華料理屋で食事をしてからマンスリーマンションへと歩く二人。
二月の夕暮れは寒い。
部屋に入りエアコンが運転を始めダウンジャケットを脱ぐ結花。
買って来た家電量販店の箱を開ける高木。
結花のケータイの初期設定を始めた。
コンロひとつの小さなキッチンでお湯を沸かす結花。
「お茶でいい?」
「え?お茶なんてあるの?」
「さっき、急須と茶碗も買ったから。」
キッチンに佇む結花。
若過ぎる女と粗末なアパート、これが同棲か?
結花の気配を背中で感じながら購入したばかりのケータイの設定をする高木。
俺が? 同棲? 妻子持ちだぞ。
ピーッとやかんが鳴った。
「はい、お茶、どうぞ、」
結花がトレイに茶碗を乗せて持って来た。
高木が茶碗をすする。
「お、うまい、うまいお茶だ。」
「そ?」
結花が微笑んだ。
「うん、うまいよ、薄過ぎず、濃過ぎず、温度もちょうどいい、うまいよ。」
結花は高木の横顔を見つめていた。
じっと見つめていた。
「え? なに?」
「べつに、何でもない、」
「つながったよ、見てみな、」
ケータイを差し出す高木。
「どーやって使えばいいかわからない。」
「大丈夫だ、結花ならすぐに慣れるよ、まず設定を押す、」
ケータイを覗き込む二人、それからしばらく取り扱い説明になった。
「この布団で寒くないか?」
「マットレスと羽布団に敷き毛布と掛け毛布2枚、それでも寒いなら布団乾燥機もある、完璧。」
「困ったことがあったらすぐに言えよ、」
「うん、ありがとう。」
この部屋で結花の一人暮らしがスタートする。
駅までの見送りに二人並んで歩いた。
辺りはすっかり夜になっていた。
一定間隔に設置された街灯が道を照らす。
別れが近いからか? 結花の口数が減る。
駅が見えて来た。
「ねぇ、も一回ギュッとして、」
「ダメだよ、人がいるよ。」
結花は高木の手を握った。
改札口で見つめ合う二人。
「それじゃ、」高木はそう言うと駅構内に消えて行く。
泣き出しそうな結花は無言のまま高木をにらみつけていた。
高木に手を振る結花。
「よ~ちゃん!」
高木は背中のまま片手だけ挙げた。
小田急線の急行に乗る。空いていたので座れた。
車窓に流れる街の景色をぼんやりと眺めていた。
女を囲ってしまった。
しかもよりによって16才とは。
発覚すれば大スキャンダルだ。
誘拐犯は弁護士!
止めるべきだ、こんな関係。
それはわかっている。
だが、どうしょうもなく楽しいのだ。
人には相性と言うものがある。
確実に言えることは結花とは相性がいい。
よく笑う二人。
こんなに笑ったことがあっただろうか?今までの人生の中で?
相手の気持ちがわかる。だから話しも合う。
見ているだけで楽しい気分になる。
そして可愛い。
ここまで揃うともはやどうしようもない。
あとはうまくやるしかないんだ。
妻玲子にバレないようなしないとバレたらたいへんなことになる。
だが妻はオレのことには興味ない様子だから案外鈍感かも知れない。
いや油断禁物だ。
ある日、メールに風邪気味みたい、とメッセージが入った。
高木はクライアントと打ち合わせと称し本厚木のアパートに向かった。
合鍵で部屋に上がると結花は灯りも点けず布団にくるまり丸くなっていた。
「大丈夫か?」
「来てくれたんだ、ごめんなさい、」
力ない声だった。
「いつから?」
「昨日、」
おでこ、顔、首を触ると熱かった。
「熱あるな、」
高木はケータイを取り出した。
「もしもし、いつもお世話になっております、弁護士の高木です、」
短く話すとタクシーを呼んだ。
高木は結花を毛布で包みタクシーの後部座席に押し込んだ。
しばらく走るとクリニックの前に停車した。
待合室で待つ二人。
「高木さん、」
名前を呼ばれ結花ひとりが処置室へ入って行く。
しばらくするとナースから高木も処置室に入るように言われた。
「インフルエンザです、移る可能性がありますよ。」
ドクターはキーボードを叩きながら言った。
「僕はワクチン打ってます。」
「ま、それでも用心して下さい。」
ドクターはモニター画面を見詰めたまま言った。
ナースが声をかけて来た。
「高木さんこの子は?」
「訳あって保護してます。」
「そうなの?」
ナースが結花の顔を覗き込む。
「はい、」
結花が答えた。
ナースとドクターが目配せし頷いた。
「高木さんを信用しますよ、あ、それとね保険証が無いと実費になりますよ?」
「ええ、実費でお願いします。」
白いレジ袋に詰まった薬を持ちタクシーへと乗り込んだ。
タクシーが走り出した。
「知ってるお医者さん?」
「仕事で診断書が必要な場合行く医者だ、僕のことはよく知っている。」
結花は高木に寄りかかり目を閉じた。
妻玲子には仕事で帰れなくなったとだけ言い結花のアパートに残った。
他に言い訳が浮かばなかったがとてもじゃないが結花を残して立ち去れなかった。
アパートに戻った。
パジャマに着替えさせベッドに寝かせる。
高木が袋から薬を出して言う。
「なぁ結花、さっきの病院から体を回復させるのによく効く強い薬が出ているんだ、だがこの薬ひとつ問題がある。」
「問題? なに?」
「座薬なんだ。」
「ザヤク?」
「お尻に入れるんだよ。」
「お尻?」
「ああ、」
「お尻の穴?」
「そう、出来るか?」
「わかんないよ、」
「やってみて、」
高木が薬を手渡すと布団の中でモゾモゾと動き出す結花。
結花に背を向ける高木。
しばらく待って声を掛けてみる高木。
「どう?」
「入ったと思うとなんか入ってなくて出て来ちゃう、無理・・みたい、」
「これは重要な薬なんだ、これを入れれば体のつらさは早く治る、諦めないでもう一度やるか?無理なら俺がやるしかない?」
「お尻見せるの?」
「そう、」
「恥ずかしいよ、」
「だろうが恥ずかしいって言ってる場合じゃない。」
「見ないで出来る?」
「見ないで?」
「灯り暗くして。」
「・・・よし、やろう、」
高木は立ち上がり部屋の照明を消した。
真っ暗になったが目が慣れて来ると青白く見えた。
「パジャマと下着取ってベッドの上に正座して。」
結花が背を向け下を脱ぐとベッドの上に正座した。
「そのまま体を倒して、顔が布団に付くくらい。」
「じゃ触るよ。」
結花がハッと小さな声を挙げた。
手探りでお尻を触る高木。
肛門を探すため指が動く。
指が肛門に触れた。
「イヤ、」
「すぐ終わる、 力抜いて、」
「入れるよ。」
一度、薬を入れたのだがしばらくするとヌルッと出て来てしまう。
指で押し込んでみたが出て来てしまった。
「ダメだ、結花、横向きになって寝て、で、ヒザを抱えて。」
「そう、丸まるんだ。」
高木の指が結花の尻の肉を広げる。
「ヤダ、」
「ガマンして、」
高木の人差し指が肛門に入った。
「うっ、」
と結花の声が漏れた。
しばらく様子を見たが薬は出て来なかった。
「今度は入ったみたいだ、下着付けて。」
結花は下着を付けパジャマのズボンを履いた。
しばらくして結花が小さな声でつぶやいた。
「もうヨウちゃんの顔見れない。」
高木は小さく笑った。
結花は眠りに落ちた。
朝になり結花が目を覚ました。
上半身を起こし辺りを見回した。
「どう?」
高木が声を掛ける。
「ありがと、居てくれたんだ。」
そう言うとベッドに上半身を戻した。
「まだダルいけど熱っぽさはなくなった、喉乾いた。」
「そうか、効いたな。」
ペットボトルの水を飲ませ体を拭かせてから下着とパジャマ着替えさせた。
「次に起きたら玉子粥とドリンク剤だ。」
「アイスも。」
結花と同時に高木も微笑んだ。
木枯らしが吹き荒ぶ冬が居座っていたかと思うとテレビでは梅が開花したとの話題になり梅と桜ではどちらが春のイメージなのか?などと考えているとその桜もピンクからすっかり黄緑色に変わった。
すると今度はそろそろゴールデンウイークだ、今なら未だ間に合う行楽地があるとテレビが騒ぎ始めていた。
高木は月に一度、月末前の金曜日に結花と新宿駅南口で待ち合わせた。
生活費を手渡しレストランで食事をするのがルーティンになっていた。
月に一度と決めていたが6月末に会ったばかりなのに7月初旬に会うことにした。
いつもの大階段下に行くと薄手のクリーム色の花柄ワンピースにストレートの黒髪を後ろで縛りワンピースと同色のクリーム色のリボンでポニーテールにした結花がいた。
彼女のまわりだけまるでオーラでも発している様に光って見えた。
道往く男たちの視線が結花に集まっていた。
隣の女の子に突かれている男もいた。
無理もない結花は目立っていた。
結花は高木を見つけるとビンゴでリゾートペアチケットでも当てたかの様な笑顔で結花が走り寄って来た。
「どうしたの? 月一しか会わないはずじゃなかったの?」
結花はこれ以上ないと言う笑顔だった。
「目立つよ結花、遠くからでもすぐにわかった。」
「5人に声かけられちゃった。」
「ナンパ?」
「ナンパは1人。」
「後は?」
結花は手に持っていた名刺を出した。
「プロダクション? スカウトか?」
「夫が来ますって言った。」
二人は同時に笑った。
やがて二人は靖国通り沿いの焼き肉レストランに入った。
「今日はいい話がある。」
「なに?」
結花は身を乗り出して来た。
「旅行に行かないか?」
「旅行? 行く行く行く行く!」
身を乗り出し今度はドリームジャンボ宝くじの一等5億円でも当てたかの様にはしゃいだが、すぐに頭から冷水でも浴びた様に表情を暗くした。
「なんだ? 行きたくないのか?」
「行きたくない訳ないよ・・・、」
「なら行こう。」
「ダメだよ。」
「なんで?」
「なんでって、アパートに住まわせてもらってるし、おまけに毎月生活費までもらってる、それだけでも申し訳ないのに、その上旅行だなんて申し訳なさ過ぎるよ。」
「そんなこと気にするな、こっちが好きでやってるんだ。」
「気にするよ、最近は足の裏マッサージだってやらせてもらってないのに・・・、」
しばらく高木は黙った。
「なぁ結花、料理を修業したいって言ってたろ?」
結花は無言のまま頷いた。
「でね、料理専門学校とか住み込み修業出来る店とかいろいろ調べてみたんだ。」
高木は足元に置いた黒い鞄から分厚いファイルを取り出しテーブルに置いた。
分厚い書類の束から色分けされた付箋が枝に付いた葉の様に何百と出ていた。
仙台・東京・名古屋・京都・大阪・博多の各料理学校の資料、卒業後の就職実態、住み込みで働けるホテル、料亭、割烹、旅館の資料、暖簾分けの実態、口コミ、そのファイルの厚さはいい味の漬物も充分に作れると思われた。
「でね、一度、キチンとした料理とはどう言う物なのか?勉強のためにも体験しておいた方がいいと思ってね、石川県の金沢にいい料亭旅館を見つけたんだ、さっそく先方にも話してみたら快くどうぞって言うんだ、どう?行ってみないか?」
結花はスクッと立ち上がった。
驚いて見上げる高木。
「どうした?」
結花は高木の隣に座り直した。
真っ直ぐ見詰める結花の目が赤くなり涙が溜まり始めた。
「こんなことしてたの?」
ワッと声を挙げ高木の足におでこを付け泣き出した。
店を出て夜の新宿を歩いた。
結花がカバンからスプレー缶を取り出し高木の手と首の回りに掛けた。
前回、花園神社の境内を歩いた時に蚊に刺されたので今回は虫よけスプレーを用意したのだった。
暗い境内の木の陰でキスをした。
明るい境内の出口に戻って来た二人。
すると高木が視線を足元に落としガニ股になり上げた足を下す先を探し始めた。
結花が振り向いた。
「どうしたの?」
高木は足元に視線を落としたまま言った。
「蟻がね、」
結花は笑い出した。
6月末、梅雨に入った。
一年ぶりのなつかしさで湿気を感じた。
結花と東京駅から今度は北陸新幹線「かがやき」に乗った。
どう見ても親子以外には見えないためイチャイチャなどは絶対に出来ないのだ。
まさか?知り合いなどには会わないとは思うがまわりの視線はやはり気になった。
妻へは出張と言った。
最近、金曜日の夜は午前様になるまで働いて帰る洋平、その上、出張、なぜこんなに働くようになったのか?と妻玲子は思っているのか?それとも豹変を怪しんでいるのか?
「過労死なんてことにならないでよ、」と出掛けに言われた。
まさか? 勘付いている?
それはないだろう、妻は夫のことなど何の興味もないのだから。
法曹業界三者のうち裁判官や検察官になれる人数は限られている。
従って必然的に弁護士になる人が増えるのだ。
増えれば仕事の奪い合いになる。
割りのいい仕事は回って来ない、だから益々モチベーションは下がり比例して勝率も下がる。
勝率が下がれば益々割のいい仕事は回してもらえなくなる。
つくづくストレスが溜まる職業だと言っていい。
だからこそ結花との時間は癒される。
腹ペコの部活帰りの高校生の前に焼きそばを置くように、砂漠を行く旅人の鼻先に冷たい水の入った水筒をぶら下げるように、「ダメだ」と分かっていても本能のまま手を出してしまう、それが高木にとっての結花だった。
ボタン2つ開けた白いシャツに膝上5cm丈のベージュのミニスカート、左の肩にベージュのリボンで束ねた髪、揺れるイヤリング、陶芸品のような美しいうなじ、スマホを操作する細くて長い指、爪には上品な透明マニュキュアが光る。
首辺りなのか? 髪からなのか? 男の理性を狂わす微香がする。
そんな結花を見ていると彼女の話す和食の話しはまったく洋平の耳には入って来ないのである。
高木は急いで膝の上にバッグを置いた。
北陸新幹線は夕陽を受けながら山間部のトンネルを走り抜けて行った。
金沢駅に着くとすでに暗くなり始めた窓に雨粒が当たって来た。
ホームに降り立つと湿気がモワッと絡まって来る。
金沢に来るたびにまた雨か、と思う。
ホームを歩いた時、愛人に懐石料理を食べさせるために金沢まで来たのか?と自問したがそれも結花が手をつないできた瞬間に消滅した。
金沢駅からタクシーに乗り込んだ。
車は10分ほどで瓦屋根に松ノ木の門をくぐる。
結花は車のガラス越しに門を見上げてから高木の顔を見た。
スゴ過ぎと目で言った。
車寄せでタクシーを降りる二人。
大松の看板。
格式高い料亭旅館にチェックインする。
終始無言のまま高木に付いて行く結花。
結花は黒のリクルートスーツに着替えた。結花の口数が減った。
「緊張してるの?」
結花は無言のままうなづた。
店に入ると和服の仲居さんが立っていてお辞儀をしてきた。
名前を言うとテーブルにイスの個室に通された。
美味しかったか? と尋ねてみたが「凄く」とだけ返って来た。
素っ気ない。
高木の胸の中は前評判の高い本を読んでみたがまったく面白くなかった時の気持ちに似ていた。
まさに宛が外れた気分。気に入らなかったのか? ま、好みの問題か?と思うようにした。
金沢一泊から東京に戻った。
日常の職場である法律事務所で代表らと数人と打ち合わせをしていた。
司法試験勉強中の事務員の青年がある企業の海外進出に伴う企業内語学教育制度案件について説明していた。
「私が今の時代、英語教育は海外と取引があろうとなかろうと絶対に必要だと社長に説明していたんです、その時は大した反応は無くむしろ興味無さそうな顔をして黙ってたんですよ、それが一転、社外英語教育制度導入とか、交換留学生とか、スマホによる教育の費用一部負担とか、語学力によるポイント交付制度とか言い出しちゃってあの社長、いったい何を考えているのやらって感じですよ、まったく。」
それまで、まるで居眠りでもしているか?と思われるようにアゴを上げ目を閉じていた67才義父であり事務所所長である矢部高雄がニヤリとし話し始めた。
「みんながみんなじゃないがね、割りと人間なんてそ~ゆ~もんだと思いますよ。」
「そ~ゆ~もん?」
「ああ、これは長年弁護士商売をやって来た僕の考えですがね、人は真剣に話に聞き入った時には反応する余裕が無くなるもんですよ。」
会議室の空気が代表の話に集中した。
「面白おかしく会話してやろうと思う時はジョークで返すし笑いもする、だが本気で聞き入った時は反応する余裕がない、まさに聞き入ってしまう、話のことで頭の中はいっぱいになってしまう、反応が薄い時ほど話は相手に染みているって証、つまり君のプレゼンがクライアントを動かしたって証拠だよ。」
高木は二度うなずいた。
8月初旬、金曜日の午後6時。
街中がバスルームのような湿気。
空は黒に近いグレー。
時より遠い彼方で空が光る。
いつものJR新宿駅南口大階段下。掲示板の気温はまだ35℃ある。
ノーネクタイのシャツにチノパン姿の高木が扇子で扇ぎながら歩いて来た。
先に来て待っていた結花は麻のジャンパースカートに白いシャツ、白いイヤリングが若々しさを引き立てている。
よくスカウトされると言っていたがその立ち姿はまさに女優。
彼女ならスカウトがしつこいのも無理はないと高木は思った。
高木が軽く片手を上げると結花も笑顔で片手を挙げた。
「会うたびにキレイになるな、鮨でも食べに行くか?」
高木はにこやかに言った。
「洋ちゃん、今日は話したいことがあるの。」
結花の目が笑っていない。
高木は え?と思ったが何も訊けなかった。
サーッと冷たい風が吹いた。
高木はまさか? 街中を冷やす巨大エアコンでも出来たのか?と風の流れて来た方向をキョロキョロした。
次の瞬間、フラッシュを100万個同時に炊いたかのような閃光が光り真っ白になった。100人の悲鳴が一斉に挙がった。
そしてアスファルトに黒い点がボツボツと広がり 5秒後にシャワーのような雨が水しぶきを上げ始めた。
二人はまわりの人たちと共に甲州街道の陸橋下に雨宿りした。
夕立の水しぶきが道路、広場、階段、街中に広がり人影は街から消えた。
また光った。雷鳴が続く。
陸橋の下、肩を並べアスファルトに叩きつける雨を見つめる高木と結花。
結花が高木に向き直り話し始めた。
「あれからね、一人で金沢行ったの、」
「え? 金沢へ・・・、そうか、」
高木は固まった。
結花にそんな実行力があったのか。
しばらく強く降る雨音だけになった。
いや、あるかも知れない、一人で路上生活して来たんだ、案外しっかりしている部分があるのかも知れない。
板前修行の件だと思った。
「なかなか出来る事じゃない、その行動力、大したもんだよ、自分で話、付けたの?」
「うん、親の承諾書がいるって言われてど~しようと思ったんだけどこれをクリアしなきゃ修行出来ないと思って母親のとこへ行ったんだ、そしたら、」
「そしたら?」
「金、渡せって、承諾書、代だって。」
「いくら?」
「100万、」
「100万?ひどいな、そんな金無いだろ?」
「ないよ・・・働いて返すからって、」
「書いてもらったのか? 承諾書?」
「うん、」
「そ~か、」
また光った!
今度のは辺り一面真っ白になった。
すぐに地面さえも揺らすほどの雷鳴が来た。
結花は高木の胸の中へと飛び込んだ。
高木は結花の顔を覗き込んだ。
「怖い?」
結花の腕は高木の腰に回された。
「怖いよ・・・、、会えなくなるのが、」
結花は泣きそうだった。
気付くと雷雨でまわりに人影が見えなくなっていた。
高木は結花の手を引き柱の影に連れ込んだ。
結花の息が荒い。それは真剣に話している証拠だと高木は思った。
「私ね、木曜日が大好きなの、次の日の金曜日、洋ちゃんに会えるから、そして金曜日の夜が大嫌い、」
高木は黙ったまま結花を抱きしめた。
結花の体温を感じた。
「板前修行、ツラいってネットに書いてあったし料亭旅館の採用の人も生半可な気持ちじゃ出来ないって言ってた、でも私はやっていける自信ある、どんなことだって堪えられる、だって生きてく技を身に付けたいから、、投げ出したりしない、でも会えないのは無理、」
シャワーのような雨の音だけになった。
考えてみればたまたま野に咲く一輪の花を見つけた。
シオれて今にも枯れそうだった。
だが良く見るとどことなく可憐だった。
水をやり養分を与え暴風から守ってやるとみるみるうちに色艶を取り戻し美しい姿に変化した。
すると一気に花に心奪われたのだ。
しかも厄介なことにその気持ちは日を追う毎に増長していった。
最初のうちは会っている瞬間の気持ちが高まっていたのだが、今は会っていない時の方が気持ちが高まってしまっている。
スマホをいつも傍らに置き事務所の女子職員に「女子校生みたい」などとカラかわれたこともあるし既読と通知音に敏感になっている自分に呆れたこともある。
38のおじさんだろ?相手は16の子供だ、付き合う?まさに犯罪だぞ、第一、妻子があるだろ?選択の余地などないはずだ、彼女には将来がある、ホームレスだった彼女が今、自立しようとしているんだ、好きも嫌いもあるか、ここは身を引き彼女の門出を支援してやるしかないはずだと高木は自分自身に言い渡した。
「結花、ここがフォークドロードだ。」
「フォークドロード?」
「そう、フォークの形、思い浮かべてごらん。」
「フォーク? 食べる時のフォーク?」
「ああ、」
「ええ、わかんないよ、」
「フォークって持つとこがあってその先がいくつもに分かれているだろ?」
「うん、」
「今、結花の人生が正にそれだ、どの道を選ぶか?その分かれ道に立たされているんだ。」
「あ、持つところからフォークの先の手前に来ているのね?」
「そう、どの道を選ぶか? それによっていい方へ進むか? 悪い方へ進むれるか? 決まって来る、せっかく生きて行くための技を身に付けようとしている結花がこんなおっさんのためにそのチャンスを棒に振るなんて絶対にあってはならないよ、ここは迷わず修行の旅に出るんだ。」
「そ~ゆ~と思った、でも、会えなくなるのは嫌、たまには会って、お願い。」
「いや、せっかく決心したんだからここは修行に集中した方がいい。」
「別れたいの?」
「そうじゃない、今は修行するべきなんだよ。」
「洋ちゃん、とうとう一度も抱いてくれなかった、嫌いだからでしょ?」
「キス以上のことしたら俺は罪人になる、キスだって悪かったと思ってる。」
「悪いなんて・・・、私がどれだけ洋ちゃんに感謝してるかわかる?」
「感謝と愛は違うよ、」
「今は感謝じゃない・・・、」
「・・・、」
二人は黙った。
暗くなった空に稲妻が走ると一瞬、積乱雲が映し出され紫に見えた。
「月一とは言わない、半年に一度でいい、じゃなきゃ、張り合いが無くなってしまう、」
「張り合いって・・・、こんなおっさんだぞ、」
「そんなおっさんが好きなの、洋ちゃんじゃなきゃダメなの!・・・、」
結花は高木のシャツを鷲掴みにして声を挙げて泣いた。
「わかった・・・、」
滝のような雨が弱まったからか?
抱き合っている二人にまったく興味がないとでも言うように陸橋下から飛び出す人たちが一人、二人と現れ始めた。
泣き止んだ結花が顔を上げて高木の目を真っ直ぐに見つめてきた。
別れるしかないの?
あんまり妻子あるこの大人の男性を困らせてはいけない。
そんな状況が結花のまわりを取り囲み結花自身を納得させに掛かっていた。
陸橋下から飛び出す人たちはますます増えて行った。
「洋ちゃん、私、ようちゃんのことずっとずっと好きだからね、それはわかって。」
高木は無言のままうなずいた。
「ねぇ、ようちゃん、最後のワガママ聞いて?」
覚悟はしていたが結花の口から出た最後と言う言葉が高木の腕に鳥肌を作った。
「腕時計ちょうだい、」
「これ?」
結花は無言のままうなずいた。
「洋ちゃんが身に付けてたもの欲しい。」
「こんなんでいいの?」
結花はうなずいた。
高木は手首からG-shockを外し手渡した。
結花がいなくなって8年半、また冬が来た。
最初のうちLINEが来たが結花のスマホと自分のスマホ 合わせて2台とも解約した。
なるべく池袋には行かないようにしていた。
最初の半年は寝ても覚めても結花のことばかり考えていた。
仕事が手に付かなかった。
一度、どうしようもなくなり新幹線に飛び乗り金沢へ向かってしまった。
遠巻きに料亭旅館の様子を伺ったがとうとう結花の姿を見ることは出来なかった。
辞めてしまったのか?体調を崩したのか?
いろいろ思いを巡らせたが突然、自分の愚かさに身震いし帰りの新幹線に飛び乗った。
帰りの新幹線で38の男が泣いた。
苦しかった。
失恋がこんなにも苦しいものだと初めて知った。
その後、体重も落ち込んだ。
妻の玲子には精密検査を進められたほどだった。
しかし人の脳とはうまく出来ているものであれだけ頭の中にコビリ付いていた結花の記憶も面影もだんだんと薄れて行き思い出す回数も少しずつ減って行った。
ただスマホのマイクロSDカードの中にバックアップしてある大阪へ行った時の写真だけは削除出来なかった。
あれから8年半、日々の生活に追われて結花のことは忘れていた。
だが、一週間前、高木は入った床屋で震度10の東京直下型巨大地震と同等の衝撃に見舞われた。
週刊誌で結花を見たのだ。
「美人過ぎる~」のコーナーで美人過ぎる板前として取り上げられていたのだ。
「結花だ、」
体から血の気が引き鳥肌が立った。
思った以上に美人になっていた結花だった。
発売日付を見ると1ヶ月前だったのでもはや書店では取り扱ってないと判断し店主に頼んで3000円で譲ってもらったのだ。
それがあって大阪出張の帰りに寄り道してしまったのだ。
もうここを訪れても息苦しくならないだろうと思い訪れてみた。
池袋西口駅前広場、植え込み、雑踏の流れの中に立つ高木。
いたな、昔、ここに。
この植え込みに座っていた。
指先の感覚が無くなる寒い夜、汚いダウンジャケットのフードをかぶり耳に包帯を巻き、うつむいてイミテーションのスマホを見つめていた。
声をかけると泣き出しそうな目でこちらを見たのがまるで昨日の事のようだ。
目頭が熱くなりやはり息苦しくなって来た。
結花ももう24、5になってるはずだ。
高木はしばらく植え込みを見つめていたが寒くなりコートの衿元のスカーフを直して駅へ戻るため体をひる返した。
う?
なんだ?
誰かが見ていた! 誰だ?
しかも見たことのある目だ!
まさか?
振り返っていいものか? 悪いものか?
1秒と言う短い時間の中でいろいろと考えてはみたが結局、蜘蛛の巣を振り払う様に振り返った。
結花だ!
見間違う訳がない!
7、8m先の雑踏の中に立って真っ直ぐこちらを見ていた。
あのグラビアと同じ眼差しだった。
元々モデル級の美人だし24の女盛りだ。
その美しさは確実に一般人とは違うレベルだった。
どんな表情をすればいいのか?
結花のためとは言え一方的に連絡を断ってしまったのはこちらだし
あれだけの美人だ、恋人くらいいるだろう、
その恋人と待ち合わせかも知れない、
だが結花の眼差しはまっすぐ高木を見据えたままだった。
グレーのマフラーに紺のコート、パンツスーツ姿、胸まである黒髪は後ろに束ねていた。
するとその結花が歩き出したのだ。
高木は動けなかった。
結花は高木の目の前に立った。
「お久しぶりです。」
間があった。
「久しぶり。」
「忘れたかと思った。」
結花の緊張の表情が笑顔に変わった。
「忘れるはずないさ、思い出さないようにしてただけだ。」
「思い出さないように?」
「思い出せば会いに行ってしまうからな。」
結花の大きな瞳が見る見るうちに赤くなり涙が溜まっていく。
そしてついには大粒の涙がひとつ、ふたつ、三つ、四つ五つと落ち出した。
「なら、会いに来ればいいのに、どんだけ会いたかったと思ってるの。」声が震えていた。
「こっちもだ。」
高木はハンカチを取り出し結花に手渡しながら物陰へと移動した。
無言のまま、ただ向かい合う二人。
やがて二人は初めて出会った晩に行った池袋の鉄道系ホテルに脚を向けた。
ロビーのソファーに肩を並べて腰かけた。
「でも偶然だ、また会えるなんて。」
「ほんと偶然、新幹線で見かけた時は息が止まりそうになった。」
「新幹線?いたの?」
結花は微笑みながらうなずいた。
「声、掛ければ良かったのに。」
「掛けられませんよ、振られてますから。」
話し方が確実に大人になっていると高木は思った。
話は板前修行の話になった。
追い回しから野菜の扱い、焼き方、煮方、造り、目利き、仕入れ、値段設定、季節感の演出、料理長にセンスがいいと言われたがモノになるまで 6年かかった。
それからは専務料理長や社長にも認められ大阪支店を任されるようになり春には東京進出の基幹店である渋谷の複合商業施設店の花板として手腕を奮うことになったと話した。
「見たよ、週刊誌で。」
「あれは料理に関係ないので断ったんですけど店の宣伝になるって言うから、」
話し始めて一時間が経とうとしていた。
高木は視線を腕時計に落としてから言った。
「今夜はどうするの?」
「ホテルを取ってあります。」
「そうか、」
「洋ちゃんは?」
「帰るよ。」
結花は小さくうなずいた。
二人は立ち上がり並んでホテルの外へと歩き出した。
「私、プロポーズされました。」
高木の顔が歩く結花に向けられた。
「料亭の人?」
「ええ、跡取りの板前さんです、」
「そ~か、」
「返事はしてません、」
「なんで?」
「なんで?」
結花が立ち止まった。
「私が洋ちゃんのこと以外に悩むことなんてあると思う?」
22:00 街角のデジタルが変わった。
静かな池袋の街
「迷惑だよ。」
高木は小さな声で言った。
「迷惑?」
「ああ、年は親子ほど違うし、しかも妻子持ちだ、仕事も抱えてる、君に関わってる場合じゃない、今日は懐かしさから池袋に来てしまったがもう来ない、もう君にも会うことはないだろう。」
横断歩道の信号が青から赤に変わった。
そしてまた青になった。
結花は微笑みながら、が、目はマジで言い返して来た。
「ウソ、」
「え?」
「もうちょっと上手く芝居して、」
「ウソじゃない、」
「洋ちゃん、わかりやすい、ウソつく時、目が泳いでるんだもん、バレバレよ。」
高木は大声を出した。
「迷惑なんだよ!その図々しいとこもうんざりだ!」
結花の目がみるみるうちに充血し涙が溜まり始めた。
そして5秒も経たないうちにボロボロと涙が溢れ始めた。
「そうですか、わかりました。」
声が震えていた。
「これで気持ちにケリが着きました、今夜、池袋まで追い掛けて来て良かった、新大阪から新幹線に乗り込んで偶然、車内であなたを見かけてから私の心臓は鼓動がまわりの人に聞こえるんじゃないか?と思うくらいドキドキしちゃって、ずっと息苦しくてあなただけを見てました、品川で降りない、どこへ行くの?東京駅で新幹線を降りるあなたの後を附けました、もしあなたが五反田へ行くならこのままあきらめよう、でももしあなたがあの場所へ行くならあなたと暮らしたい何もかも捨ててあなたと暮らしたいと思いました、山手線、あなたの足は迷うことなく上野、池袋方面に向かいました、あなたの後ろ姿が涙でボヤけました、声を挙げて泣き出さないように必死に口を押さえました、そしてあなたは池袋西口駅前の植え込みの前へ、嬉しかった、すぐに駆け寄り抱き付きたかった・・・、でも、あなたは迷惑だと言う、妻子があるし、仕事を抱えていると、年も離れているし迷惑だと言う、それはそう、もっともです。」
それっきり二人の間の言葉は枯れた。
二人は肩を並べてまっすぐ駅へと歩いた。
JR池袋駅 山手線、線路を挟んで向かい合わせのホームに二人が立った。
まさにデジャブウ。
依然にもホームを挟んで結花と向かい合ったことがある。
あれだけ会いたくて会いたくて夢にも見た結花なのにこれでいいのか?
ホームに立つ結花の姿に美しかった。
向かい側のホームに立つ結花は目を伏せていた。
高木が知っている結花ならチラチラこちらを見たり笑顔で手を振ったりしただろうが8年半経てば結花も変わる、また変わって当然だと高木は思った。
ホームに入線してくる電車のアナウンスが流れる。
別の階段も使えたはずだが目の前に立ってくれている。
それが結花の優しさなのか? 昔、世話になったせめてもの礼なのか?
高木は結花の立ち姿を眺めていた。
これで完全に未練も絶ち切れる、だろうか?また苦しむか?
やがてほとんど同時に山手線が入って来た。
「洋ちゃん・・・!」
結花が何か叫んだ。
だが入って来た電車に声も姿もかき消された。
停車した電車のドアが開き高木は乗り込んだ。
すると向かいの電車にも乗り込んで来た結花がいた。
何か言っているがわからない。
高木はガラス窓に書けとジェスチャーで伝えた。
すぐに結花はガラス窓に書き始めたが内容は伝わらなかった。
高木は作り笑顔を浮かべ「もういい」とジェスチャーした。
やがて結花の電車が動き出した。
結花は体を横にズラした。だがすぐに見えなくなった。
泣いていた。
まるで幼児のように泣いていた。
そんなに泣くのか?
高木は拳を握り締めて深いため息をついた。そんなに泣くのか? 結花。
高木は体を震わせた。
そんなに俺のことを好きでいてくれたのか?
マジだったのか・・・、結花。
思わず喘ぎ声を挙げた。
するとそばにいた若い男に声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
日々の生活に身を委ねて四季が過ぎて行った。
師走のある日、夕飯が終わってリビングでテレビを観ていると妻玲子がテレビの前に立った。
「ちょっと話しがあるんだけど、」
高木はリモコンでテレビを消した。
「なに?」
「ねぇ、私たち別れない?」
次の休み、デパートに買い物行くんだけど付き合って欲しいくらいの軽い話しぶりだった。
テレビを消すと静かな家になった。
突然の別れ話を切り出された高木だがさほど動揺しなかった。
「理由は?」
「性格の不一致でどう?」
「まだあのITの社長と付き合っているのか?妻の不貞が原因だろ?それにより婚姻生活が破綻をきたしたんだ、損害賠償請求裁判を起こせばこっちは勝てる。」
「やっぱり興信所動かしたのはあなたなのね?どうぞやってみて裁判になれば昔のあなたの女関係も明るみに出るわよ、特に未成年者相手のね。」
高木は突然幽霊を目撃した表情になった。
「そんなに私を鈍感と思った?」
静かになった。
そりゃあれだけ家を空けたりしれば怪しまないはずはないか? それにしても玲子が僕の浮気を疑っていたとは。
25で結婚して23年か、もうそんなに経つのか?高木の頭の中で妻玲子との生活が思い起こされた。
「壱八は?」
「私たちの好きにしてって、もう21だし、もう一人暮らししてるから今まで通りよ。」
「そうか、」
「ここも賃貸だし、引き払うだけ、預貯金は折半でいいでしょ?」
「事務所も辞めなきゃな、」
「そうね、別れて義父の事務所って訳にはいかないものね、どこか探してもらおうか?」
「いや、いいよ、」
妻、玲子はキッチンに立った。
「なんか、スッキリしちゃった、飲む? 」
ワイングラスを2つ持ちながら微笑む玲子の表情は久しぶりに見た自然な笑顔だった。
「そもそも性格が合わなかったのよ、口を開けば・・・、ごめん、、もうやめよう、」
高木も自然に微笑んでいた。
数日後、元妻、玲子が一人暮らしを始めたマンションに帰宅すると恋人の男がエントランス脇で待ち構えていた。
「なんで返事くれない?」
玲子の顔色が変わった。
「ごめんなさい、いろいろ忙しくて、」
「やっと自由になれたんだ、楽しくやろうぜ、」
男は彼女の腕をつかみ肩を抱き寄せキスしようとした。
「放して!」
金沢の老舗高級料亭旅館「大松」の東京進出第一号店渋谷店が盛大にオープンした。
マスコミでも取り上げられた美人過ぎる板前「まつゆい」(松本結花)の名はすでに東京でも有名でむしろ「まつゆいと会える東京の店」として料亭業界はもちろん、マスコミ各社からも花輪が店先に並びきれないくらい届いていた。
社長の思惑も「まつゆい」人気を利用し利益に結び付けたいと考え裏方に徹する板前ではなく料理を監修し店全体を運営する店長として結花に加賀友禅をまとわせ最前線に立たせ客の接待役をもやらせようとしていた。
しかし、結花はあくまでも板場を預かる者として店の発展に貢献したいとし加賀友禅を着て表舞台に立つなどは無理だと社長の要請を固辞していた。
オープンパーティー会場には社長、そして息子の次期社長である専務の松永大作ともちろん結花も板前姿でオープンを盛り上げようと招待客に必死で慣れない挨拶回りをしていた。
開店から一週間が過ぎて嵐のような騒ぎは一段落着いた。
午前二時には全従業員が引けた。
板前の白衣を脱ぎ私服のクリーム色のひざ上5cm丈のワンピースに着替え後頭部に団子を作りまとめていた髪を解くとまっすぐな黒髪は胸まで達していた。
板前姿とはまったく違う花の香りまでするようなファッションになり24にしては26、7のような貫禄までも漂わせるいい女ぶりを発していた。
帰り支度をしていた結花が背中に気配を感じて振り向いた。
結花は泥棒でも見たように小さな悲鳴を挙げてしまった。
「脅かしちゃったか? お疲れ様、」
「あ、専務、先に帰られたんじゃ?」
「いや、ちょっとね、」
専務兼本店板長の松永大作の笑顔が顔面蒼白で引きつっていた。
まるで殺人でも犯して来たのだろうか?と結花は思った。
8年前、結花が16で「大松」に板場修業に入った時、松永大作は28。
社長兼花板である父・一雄の右腕としてすでに板場を取り仕切っていた。
大作は物心ついた時から大の父親っ子でいつも父親の跡をついて回りその父親の仕事である板前と言う世界にもいつしか強いあこがれを抱いていた。
高校卒業と同時に本格的に板場へ入る。
独立した兄弟子と二人三脚で料理の研鑽を積み下ごしらえから野菜の取り扱い、煮方、焼き方、御造りと何でもこなし結花が入って来た頃には仕入れから価格設定まで任されるようになっていた。
当然、結花にすれば話しかけることなど出来ない「イタチョウ」の存在であった。
しかし、その結花も3年ほど経つ頃から板場の主要な役割を任されるようになると本店板長である大作とも会話を交わすようになって行った。
とは言っても話す内容はその日の段取りや予定の確認だけで結花がおかしいと思っても板長の意見には逆らえず「はい」としか言葉を発することの出来ない関係に変わりはなかった。
専務板長松永大作からすれば結花は16の時にフラリと入って来た不良少女でいくつになろうが偉くなろうが出世しようが「マツ」と呼び捨てる子ども扱いでちょうど良い存在のままでそれ以外の接し方は必要ないし思いもつかないと思っていた。
そんな専務板長松永大作はけっこう「マツ」のことを気にしていた。
しっかり仕事をしているか? 壁にぶち当たっていないか? 悩んでないか?
直接「マツ」に声を掛けることは年に一度くらいしかなかったが可愛い新入りとして気には掛けていた。
板場で話す専務松永大作と結花はそのまま親方と若い者として自然に話せるのだが板場を一歩出るとトタンに松永大作は結花を一人の女として意識してしまうのである。
子どもの頃から料理ひと筋で来た大作にとっておよそ女性と話すのは仲居くらいなもので話しの内容は料理のことだけ。
一般の女性とは話したことが無い料理の英才教育しか受けて来なかったマジメくんならではのハンデだったのだ。
そんな大作が板場以外で結花に話しかけると意識し過ぎてしまい表情も強張って、まるでナンパに挑戦している童貞のような話し方になってしまうのだった。
本人は自然に話そうと努力しているのが結花にも伝わり返って結花自身も身構えてしまうのが常になっていた。
「二人の時はダイさんでいいんだよ。」
いつになく大作の表情は固かった。
結花はあの話しの為に残っていたのか?と思った。
「この後、予定ある?」
大作の声が震えているのが結花にもわかった。
結花は正直に答えた。
「疲れているので早く寝たいと、」
「そうだよな、悪い、」
二人は店の戸締りをしエレベーターに向かった。
肩を並べて靴音しかない通路を歩く。
「あのさ、若いヤツらもっと強く言ったっていいんだよ、年が近いからって遠慮しなくていいと思う。」
「はい、強く言ってます。」
「あ、ならいい、、」
その後、専務のため息がハッキリと聞こえた。
しばらく無言の時間が過ぎた。
「あ、それとさ、プライベートな話題で悪いんだけど、この前の話しどうかな?」
結花は来たと思った。
「結婚の話しですか?」
「あ、まあ、」
「今は修行途中ですし、渋谷店を成功させなきゃって思いで頭の中いっぱいで、」
「そうだね、だけどさ、結婚して二人で支えて行くって言うのはどう?」
専務松永大作は笑顔だったが目は血走っていた。
結花は微笑したが答えなかった。
二人は肩を並べてエレベーターのランプを見上げていた。
「ポン」と電子音が鳴りエレベーターが来た。
扉が開いた。
誰も乗っていなかった。
乗り込もうとする結花。
次の瞬間、ラグビーのタックルのように結花は通路に押し倒され尻もちをつき頭も打った。
「イタッ、」
専務板長松永大作が結花の上に馬乗りになっていた。
「何ですか!」
無言のまま松永大作は結花の腕を押さえ付け血走った目で睨み付けていた。
殺される?
大作の顔が結花の顔に近付いて来た。
「ちょっと、や、止めて下さい、止めてって、いや!」
松永大作がキスをして来た。
キスと言うよりは口を押し付けて来たのだ。
ガチガチと歯がぶつかる音がした。
松永大作は震えていたのだ。
その瞬間、結花は冷静になれた。
不思議な体験だが白い空間になり倒れた結花に馬乗りになっている専務板長松永大作の姿が客観的に見られたのだ。
状況がすべて分かると妙に落ち着けた。
「もう大きな声を出したりしない、だからお願い、手を放して、」
その声はひどく静かで穏やかだった。
松永大作は腕を放し結花から下りた。
白い腕に赤い手形が付いた。
結花は白い太ももが露になったスカートの裾の乱れを直した。
そして専務松永大作の手を取り引き寄せて言った。
「ごめんなさい、不安にさせて、」
専務松永大作は「え?」と言う顔をした。
結花は小さな声で言った。
「せっかく勇気を振り絞って告白してくれたのに騒いだりしてごめんなさい、いきなりだったから驚いただけです。」
「すまない、俺、たいへんなことをしてしまった。」
専務松永大作38は結花のあまりにも意外で女神のような対応に堪らず声を挙げて泣き出した。
結花は専務松永大作の背中に手をまわし背中をさすった。
「何も無い、何も無かったんですよ。」
「すまない、君にこんなことをしてしまうなんて、すまない、」
「大袈裟な、大したことじゃありませんから、私ね、専務のこと好きだったんですよ、」
「え?」
松永大作は顔を上げた。
「駆け出しだった私を見て若い衆たちにマツを助けてやれって言ってくれていたの知ってました、それと一度、出汁の大鍋倒した時も誰にでもあることだ、みんなで手分けして初めからやろう、って言ってくれて、私、なんていい板場へ来たんだろうって、それなのに専務の気持ち知っててこんなに緊張させてしまってごめんなさい。」
まるで母親と幼子のようになっていた。
「私だってドキドキなんです、」
結花は大作の手を取りおっぱいに当てた。
大作は反射的に手を引っ込めようとしたが結花が強くおっぱいに手を当てた。
「ね?」
結花は微笑んで見せた。
専務板長松永大作は長年探し求めていた母親にやっと会えた少年のような目をしていた。
「このままじゃ男として情けなく終わってしまう、そんなことはさせられない、店に戻りましょう、事務所のソファーなら誰も来ない、」
松永大作の頬にまた熱い熱い涙が流れた。
そして結花に言われるまま立ち上がった。
金沢の格式ある料亭大松が東京渋谷に進出し1年が経過した。
当初、レストラン形式を採っていたが他店との区別化が無くたとえ大松と言えども客足が途絶え始めていた。
そこで大松東京店店長松本結花の提案でコの字型カウンターを二つ構えた店に改装した。
下町の定食屋だとの批判もあったが専務松永大作のバックアップを得て一流料亭の雰囲気はそのままに保つこと品質を下げないことを条件に取締役たちを説得した。
社内方針をまとめたところで松本結花の提案で銀行の融資担当者を招き新規事業展開の説明と資金調達のための食事会が催されることとなった。マーケットリサーチ、ターゲット、新規メニューの披露、味、料理デザイン、コストパフォーマンス、店内のインテリア、照明、従業員のユニホーム、あらゆる角度から大松の力量が評価される。
その上で担保として大松株式会社の株式を持ってもらうことで融資額増加を図った。
カウンターから料理を出すと言うことは客と料理人と距離が近くなる。
接待術も必要になる。
見せる料理も心掛けなければならない。
そして何よりも味で勝負しなければならない。
大松の料理のレベルがどれだけなのか?
味には絶対的な自信があるがまずは一度それを食べてもらわなければならない。
結花はそこを強調した。
資金調達のための食事会は成功した。
常連客には説明に廻り新規の客にはネットで店のコンセプトへの理解を量った。
その甲斐あって「大松」の雰囲気そのままリーズナブルなリニューアル戦略はまんまと功を奏した上に格式ばった敷居の高い店から親しみやすいイメージアップにも繋がった。
メニューは季節ごとの前菜・焼き物・お楽しみ・締めの四種類に絞り仕入れ価格を抑え調理手間を抑えネット予約制を導入することで無駄な仕入れを抑えカウンターから提供することでホール内の人件費を抑え若い層でも利用しやすい価格設定したのが当たり連日大盛況で一時間制を導入した席もあるほどだった。
それでも捌き切れない客のために江東区有明に渋谷東京本店よりも大規模な2号店「AriaKE・DaIMAz」をオープンさせた。
結花の提案で2号店から店のテーマカラーも導入させ空色に決まった。
大作の料理やインテリアが評判となり雑誌に取り上げられネットで取り上げられテレビで取り上げられオシャレな打ち合わせは「渋谷・DaIMAz」デートは「AriaKE・DaIMAz」がオシャレだと評判になり社会現象とまで言われるようになった。
店に入ればカウンター内に有名デザイナーが監修したAriaKE・DaIMAzのユニホームを着た美人の板前が立ち客と談笑しながら料理を作る。
当初は客の相手をしろお酌をしろなどと言う客も居たにはいたが烏と言われる黒服の男たちの存在が場違いな客を絶滅させていった。
ある日、行われた会議の場で東京渋谷店店長兼エディケーション担当GM松本結花が発言するために席を立った。
「専務の意見に賛成です、そのためには今よりリクルートに力を入れなければなりません、男女は問いません、年齢も問いません、国籍や人種も問わないつもりです。」
「黒人の板前がカウンターで料理を作るのですか?」
「板前に適正があればそうさせます、最初はお客様も驚かれるでしょう、でも仕事さえテキパキしていれば好意的に見てくれるはずです。」
「そりゃわかるわ、不愛想な板前より明るく元気でテキパキ仕事する黒人の方を応援したなるわ。」
「肝心の仕事テキパキ出来るようになりますか?」
「複雑な工程をすべて教えるつもりはありません、パートに分け専門的に教えます、」
「なるほどそれなら即戦力や。」
「日本語しっかり教えんとな。」
「日本語だけではありませんよ、評判を呼べば海外のお客様も大勢お見えになるはずです。」
「となると英語も話せるようにならんといかんなぁ。」
「お前の知ってる英語はディスカウントプリーズだけやろ?」
笑いが起きた。
そろそろ梅の話題が取り上げられる頃の夕暮れ。
竹橋の会議室スペースで行われていた女性パートの研修の講師をしていた松本結花が出口から出て来た。
雨が降っていた。
空を見上げながら傘を開こうとすると結花の前に白のメルセデスGLE450がハザードを点滅させながら横付けされた。
結花は助手席のドアを開き中へと入った。
ドアの閉まる低い音がして密閉された車内になった。
「よくわかりましたね? 今日、私がここだって、」
「LINEの返事が来ないからマネージャーに聞いた。」
「そういう事するから噂になるんです。」
「いいじゃないか、もう、プロポーズしてから1年待ったんだ。」
運転席の専務松永大作がキスしてきた。
5、6秒のキス。
大作が上半身を運転席に戻す。
「待って、」
結花はバッグからハンカチを取り出し大作の唇に付いた紅を取った。
車が静かに動き出した。
二人を乗せた車は松永家東京宅のマンションがある東急田園都市線の池尻大橋に向かった。
結花が運転席に顔を向けて言った。
「池尻大橋はダメです。」
「なんで?」
「ダメ、」
「誰もいないよ。」
「あそこは松永家所有のマンション、私は入れません。」
「何言ってるんだ、親たちはもう君を嫁として見ている。」
「お母様は?」
「大丈夫さ、この前、僕が育ちとか家柄とか言うなって強く言ったし、」
「あなたの意見に左右されるような方じゃない。」
「君が店のために一生懸命やってくれていることは理解しているさ、まじめなところも知ってる、問題はない。」
「やめておきましょう、せっかくここまで来たのに台無しにしたくない。」
結花は首を横に振った。
気の強い結花の性格を知っている松永大作は彼女の意思に反することを無理矢理押し通す事は得策ではないと悟りウィンカーを出し左折した。
会社が借り上げている社員寮である調布のワンルームマンションへと送って行く。
社員寮には専務松永大作は立ち入れないので時間貸しの駐車場に車を入れる松永大作。
松永は助手席に覆いかぶさった。
キスをしながらジャケットのボタンを外しシャツの上から胸をさぐる。
大作がシャツのボタンを3つ外したところで結花の手が胸を押さえた。
「人が来たら困る。」
「じゃホテルへ行こう。」
「明日も早いです。」
「それじゃ蛇の生殺しじゃないか、」
「ごめんなさい。」
沈黙になった。
「愛されていることを実感したいんだ。」
結花は松永大作の手を握った。
「僕とひと晩過ごすのを避けるのはどうしてだ?」
「仕事があるからです。」
「それだけか?」
「それだけとは?」
「心の中に誰か住んでいるんじゃないのか?」
結花の表情が変わった。
「まだあの男を思っているのか? 初めて大松に君を連れて来た男だよ、高木。」
「もう10年以上前のことです。」
「まさか?未だに連絡を取り合っているのか?そうだろ?」
「いいえ、」
「この前、店を早く出た日、会ってたのか?」
「有り得ません、店のことでいっぱいいっぱいでそんな時間無いことくらい知ってるじゃないですか。」
松永大作は結花を抱きしめた。
何度も何度も抱きしめ直した。
「完全にお前を僕の物にするまで安心出来ない。」
結花は松永大作の頭を抱いた。
「ダイさん、聞いて、私の好きな人はあなただけです、安心して下さい。」
松永大作は顔を上げた。
「本当か?」
「ええ、ただ今は仕事が大事です、せっかく軌道に乗り始めた大松です、ここが瀬戸際、新幹部スタッフ育成とバンクを納得させる売り上げが不可欠です、個人的なことはそれからにしましょう。」
「絶対だぞ。」
松永大作は何度も何度も結花を抱きしめた。
社員寮の近くで結花を降ろすと車は走り去った。
松本結花はしばらくその場に立ったまま車の消えた通りを眺めていた。
私ってこんなキャラだった?
何してるの? 私?
結花は夜道をゆっくりと歩き出した。
胃潰瘍なのか?
胃炎か?
ムカつきもある。
立ち眩みや動悸もあるし指先に力が入らない時もある。
もしや?と思いクリニックを受診した。
一週間後、検査があった。
検査着からスーツに着替え長椅子に座っていた。
「高木さん、2番へお入り下さい。」
処置室に通された。
結果は十二指腸潰瘍。
仕事の量を減らした方がいいと言われた。
癌じゃないならそれでいい。
離婚、転居、一人暮らし、次々と起きた変化にストレスが溜まったのかも知れない。
大学時代の知り合いのツテで1年每の契約更新で働く損保会社の法務部に潜り込んだ。
新社会人以来、久しぶりに管理される側のサラリーマン生活が始まりデスクの周りの人間関係に気を遣いながら仕事に追われる日々が始まった。
勤務先の新宿までは急行と各停を乗り継いで1時間弱の京王多摩センター駅からバスで15分の場所に賃貸マンションを借りた。
以前の五反田からはどうしても都落ちの感が否めないがそれを考えたところでどうしようもないと自分自身を説得していた。
自業自得、理不尽は世の常、どの言葉も当てはまらないような気がした。
飲んで帰ろうが遅く帰ろうが誰に文句を言われる訳でもない自由さと時より大声を出してしまいそうな寂しさは夜道で気付く靴音と長く伸びた影の様に高木から離れないモノになりつつあった。
満員電車を降り駅前の居酒屋でビール1本とレモンハイ2杯を飲み寒くなってからはレモンハイが熱燗に変わる平日と週末は深夜の映画館と溜まった洗濯物をコインランドリーに持ち込み本を読む単調な日々はあっという間に一年を流して行った。
2月、上司に会議室に呼び出された。
「高木さん、単刀直入に言います、上からあなたに転勤の要請が来ました、米国ペンシルベニア州フィラデルフィアです。」
「フィラデル・・・、」
「現地の担当者が帰国する時期になりました、後任はいたのですが諸事情で行けないことになりまして・・・、」と事情説明が10分ほど続いた。
帰り道、京王線に揺られながら窓の外をぼんやり眺めていた。
フィラデルフィアか。もちろん行きたくはない。だがこれも分水嶺かも知れない。
高木はスマホを取り出して見詰めた。
16才の結花。
わずかしかない思い出をリピートした。
いつまでも仕事をしてもキリがないと夕暮れ前に新宿のオフィスを出た。
電車から降りるとブルッと背中が震えた。
暗く冷たい部屋に帰る気にならず駅前の居酒屋に足が向いた。
いつものカウンターの端に座ると生中を一気飲みした。
煮込みと鯵フライを頼んだ後、熱燗を追加した。
背後に人の気配がした。
ふと見るとキャメルコートを壁のハンガーに掛けてから背の高い男が高木の隣に座った。
高木はカウンター越に出された熱燗を無言のまま飲んだ。
たまに隣の男が横目で見て来たのを高木は無視した。
やがて隣の客に中トロが出された。
「よかったら一緒に食べてくれませんか? 一人じゃちょっと量が多くて、」
「君、もう一枚皿もらえる?」
皿が届き中トロが取り分けられた。
ぐい吞みがカチンと音を立てた。
最初は天気の話し、その後、その男が料理人だと言う話しになりたまに他店を勉強のため飲み歩いていると言う話しになった。
プライベートでは話し相手がいない高木は杯が重なるに従って自分のことも少し話し始めていた。
2時間ほど談笑し二人は店を出た。
そして左右に分かれた。
来週には桜の開花宣言が聞かれるとテレビで言い始めた頃の17:00、大松東京渋谷店で従業員一同立ち並び開店前ミィーティングが行われていた。
チーフの女性が中央に立ち今日の予定を確認し客の誘導の申し送りをしていた。
ひと通り段取りが進んだところで中央の女性が声を張った。
「それでは本日もよろしくお願いします。」
「ちょっと、待ってくれ。」
そばに立っていた専務松永大作が皆を遮った。
一同の視線が集まった。
「個人的なことで恐縮だが皆に発表したいことがある。」
ざわついた。
「店長、前へ出てくれ。」
まだ板前姿に着替えていない紺のパンツスーツ姿の結花が一歩前に出た。
髪はCAスタイルに後ろに纏めていた。
「私、松永大作はここにいる松本結花さんと婚約する運びとなりました。」
「ほんと?」「ほんとですか?」「へぇ~!」「だろうと思ってました!」
「おめでとうございます!」祝福の声が飛び交い拍手が沸き起こった。
結花は何度もお辞儀した。
専務松永大作は話しを続けた。
「そしてこの婚約を期に料亭大松を傘下に収める大松産業株式会社の株3%を松本結花さんに譲与し臨時取締役会の承認を得て地位も来月一日付けをもって正式に大松産業株式会社執行役員常務取締役に抜擢されるものとします。」
あの若さで常務か? どよめきが起こった。
どよめきの後再び拍手が起きた。
結花は店長室に入った。
しばらくして店長室のドアが開き松永大作が入って来た。
「どうだ、気分は?」
「どう?と言われても私自身がピンと来なくて、」
結花は店長室に来た従業員にコーヒーを持って来るように言った。
「あ、コーヒーはいい、声をかけるまで誰も入って来ないように。」
そう言うと専務松永大作はドアを閉めた。
「松永家の人間にしか譲与されない株だ、これで君も正式に一族と認められたことになる。」
「それを払って行くだけの稼ぎを得られるか?その方が心配です。」
「大丈夫さ、順調に行ってるじゃないか!」
大作は結花の体を抱きしめて来た。
「会社ではやめて下さい、」
「大丈夫だよ、さっき誰も入って来るなって言った。」
キスをしてくる大作。
「結婚式は日程的に来年になると思っていたがおふくろが年内にすると言い出してさ、表面的には親父が社長だが実権は副社長のおふくろが握っている、かかあ天下はつくづく家柄だよ。」
専務松永大作が笑った。
「ああ、 だからさ、」
大作の腕が結花の腰に回された。
「すぐにお礼に伺わなきゃ、副社長のご都合を聞いて、」
「大丈夫だよいつでも、」
「ダメ、一刻を争うわ、ここが肝心なの、」
大作は小さくうなづいてスマホをポケットから取り出した。
今日も一日が終わった。
東京渋谷店常務室
28の若さで大松産業株式会社執行役員常務取締役にまで昇り詰めた松本結花がデスクのPCを見てタイピングしている。
最近は貫禄まで出て来た。
各店舗の売り上げはコンピュータに連動していてその結果と問題点と傾向と対策がノートPCに映し出される。
東京渋谷店、お台場有明店、共に売り上げは毎月更新している。
その結果として業績は右肩上がりとなりその立役者である松本結花の発言権、存在そのものが押しも押されもしない常務と言う地位に磨きをかけて行った。
最初は若いと甘く見られていた仕入れ先や同業他社や業界メディアとも業績に連動し信頼関係が固まっていった。
おまけに難敵であった副社長の信頼も得て今や松本結花にとって自由にならないモノはない欲しい物は何でも手に入る状況になった。
でも足りない、何か足りない。
結花の心の中は晴れなかった。
月が変わったある日の午後、新居の下見に出かけた。
50万の賃貸マンションに決まった。
その帰りに家具店を見てまわった。
一枚モノのダイニングテーブルに決めた。
笑いながらじゃれ合いながら家具購入を決める二人。
購入手続きのため店員がフロントデスクへと二人をいざない消える。
「ああ、そう言えば高木、もう日本にはいないよ。」
「え?」
松永大作はフッと短く笑った。
「あの高木、」
「転勤でねアメリカに行ったんだ。」
「アメリカ?」
「ああ、」
「なんで?それを?」
「一度、本人に会ったんだよ、どんなやつかと思ってね。」
「え?」
「居酒屋でさ、声かけてみた、3月からフィラデルフィアへ行くって言ってた。」
会話が途切れた。
駐車場の車に乗り込む二人。
ドアを閉めると静寂に包まれる。
「これで断ち切れるだろ、」
結花は応えなかった。
エンジンが掛かってインパネに灯りが点く。
「金髪の彼女でもつくってよろしくやるんだろうよ。」
「だって奥様が、」
「離婚したって、」
「え?」
そのまま結花は無言になった。
米国で6番目の都市、ペンシルベニア州フィラデルフィア、人口158万人。
ニューヨークからおよそ150kmの位置。
フィラデルフィア国際空港と市街地までは約13kmとかなり近い。公共交通システムSEPTAは 近郊電車で町まで約20 分、タクシーでは25 分ほどだ。
センターシティ街の中心部からバスで20分離れると緑豊かな住宅地が広がっている。
お昼前のオフィスでスマホのコール音が鳴った。
「This is takagi speaking. visitors? me ? Who is it? 」
下の受付からだった。
面会者が来ていると言う、誰だと訊ねたがわからないので階下に降りることにした。
3基あるエレベーターホールに立ち待つ。
客ならアポがあるはず、しかもまだAMだ、客のはずがない。
客以外に誰がこの俺に用があると言うのだ?
真ん中のエレベーターが来た。
コンドミニアムでボヤ騒ぎでもあったか?
いやそれなら自動消火されるはずだしポリスコールがあるはず。
じゃ誰だ?
新手のセールスだろう、いい女以外なら間に合ってるって言ってやろう。
エレベーターがロビーフロアー階に着いた。
見回したが誰もいない。
高木はレセプションデスクに片手を上げて挨拶をした。
受付の女性がアゴで指した方を見ると東洋人ぽい女性が立っていた。
「May I ask ・・・あ!」
笑顔と泣き顔が同居した東洋人女性を見たまま高木は凍り付いた。
「洋ちゃん、」
高木は頷くのが精一杯で声も出なかった。
「どうして?」
初めて高木洋平と出会った日、彼に買ってもらった銀色のスーツケースを横に置きジーンズにジャケット姿の松本結花が立っていた。
「来ちゃった、」
高木は結花のそばに立った。
「よく来たね、」
二人は揃ってオフィスビルの扉を出た。
「いいの?仕事中だったんでしょ?」
「いいも悪いもない、日本からわざわざ客が来てくれたんだ、ましてやもう会えないだろうと思っていた結花だし、仕事どころじゃないよ。」
「もう会えないだろうと思っていた?」
「ああ、池袋のホームで結花が何か言いかけていたのは何を言いたかったんだろう?と気にはなっていたんだが、」
「もうあれから3年、洋ちゃんと出会ってから12年、」
「何才?」
「28になりました、」
「そうか、」
洋平は道路に出て車を拾おうと通りを見渡した。
「何か食べに行こう、」
「洋ちゃん、お願いがあるの、」
「私に料理を造らせて。」
「料理?」
「なら家に来るか?」
「うん!」
結花はこれ以上はない微笑みをしてみせながらうなずいた。
高木は笑顔になる。
結花も笑顔になる。
やはり気の合う二人だった。
タクシーは近所のスーパーマーケットに着いた。
二人並んで店内をカートを押して歩く。
高木洋平の一軒家コンドミニアムにタクシーが着いた。
緑に囲まれた石造りの壁、大きな木製のドア、高木に続いて結花が入って行く。
「すごい大きな家、」
「会社が借りてくれているんだ、一人暮らしだから掃除もしていない。」
「わぁ、大きなキッチン!」
「好きに使って。」
「ありがとうございます。」
結花はスーツケースからエプロンを取り出し身に付け腕まくりをした。
高木はキッチンのそばに立った。
「何か手伝おうか?」
「じゃ野菜洗ってもらっていいですか?」
「まかしとけ。」
高木の声も弾んでいた。
「洋ちゃん覚えてるかな?」
「なに?」
「本厚木のアパート、」
「忘れるはずない、ひと部屋の小さなアパートだった。」
「私には初めて得られたやすらぎの部屋だった・・・、お茶煎れたの覚えてる?」
「お茶?」
「そう日本茶、私、煎れたんです、洋ちゃんに。」
「そしたら洋ちゃん、おいしい、こんなにおいしいお茶飲んだことない、濃さも温度もちょうどいい、うまい、うまい、って。」
「私、嬉しくって、嬉しくって、嬉しくって、涙出て来ちゃって、それを我慢して、でも涙が溢れて来ちゃって、好きな人にうまいって言われるのがこんなに嬉しいのか?って思っちゃって、よし、頑張ろう、頑張って料理勉強してもっと洋ちゃんにおいしいって言ってもらおうってそれだけの気持ちで板前修業したんです。」
結花は溢れ出す涙をエプロンでぬぐった。
「洋ちゃんのことが大好きで大好きでそれだけなの、いつか一人前の料理人になって洋ちゃんの足手まといにならなくなったらでも洋ちゃんには奥さんがいるから一緒には暮らせない、せめて月に一度か二度は私の料理を食べてもらいたい、食べてもらいたい、」
結花はキッチンに座り込み泣いた。
高木は一緒にしゃがみ込み結花の背中をさすった。
しばらくして結花は再びキッチンに立つ。
「で? いい人なのか? 婚約者。」
「蟻、踏むんです。」
「アリ?」
「今度そんなことしたら蹴っ飛ばしてやろうかって。」
同時に笑う二人。
「いい人なんだな。」
静かになった。
「板前修業だけのはずだったけど10年以上経つと人間関係も築かれちゃって、」
「当然だよ、」
「日本を発つ時、行くなって私を止めるから、ここがフォーク、運命の分かれ道って言ったんです、そしたら彼、そうかって、お金渡してくれたんです、いろいろ要り用だろって。」
「もし強引に止められたらこっちに住むつもりだったけど、やさしくされたから私、帰らなきゃ。」
「ああ、それでいい。」
高木が微笑んだ。
料理が出来上がった。
テーブルに就いた高木。
結花の造った肉じゃがの器が出された。
「食べなくってもうまいってわかる。」
高木が箸を取り食べた。
目を閉じる高木。
「うまい・・・、 本当にうまい、、」
結花の目が赤くなり始めて一気に涙が溢れて来た。
結花は腕のG-shockを外すとテーブルに置いた。
ふたりはドアの外へ出た。
「ここえ泊まって行けとは言えないな。」
結花は微笑みながら頷いた。
「あ、洋ちゃん、もし離婚したら池袋で座ってるから。」
同時に笑った。
呼んだタクシーのドアの前に立った結花。
「洋ちゃん、いろいろありがとうございました、洋ちゃんと出会わなかったら私どうなっていたか?
本当にありがとうございました。どんなにお礼を言っても足りません。」
結花が頭を下げるとそれまで持ち堪えていた涙がこぼれた。
高木は結花の前に立ち言った。
「結花が婚約者を振り切って単身アメリカまで渡って来てくれたこと、どんなに心細い旅だったか、鈍感な僕にも想像出来るよ、その気持ちだけで充分だ、ありがとう。」
結花は涙目で首を振っていた。
高木が言葉を続けた。
「人との出会いって、結局長く一緒にいた時間が記憶に残る、でもねそれがいい出会いか?って言われるとそうとは限らない、お互いを思ったまま別の道を行くそんな出会いは忘れられない。」
「うん、」
結花の乗ったタクシーが去って行く。
フィラデルフィアの空が暗くなり始めて来た。
高木はスマホの結花の画像を削除した。
< 完 >
本当は結ばれれば良かったのか?別々の道を行っても強くお互いを思いやった相手がいたのだと言うことを胸の奥にしまい生きていけばいいのか?わからない。男には相手の女性を無理にでも抱いて征服したいと言う衝動があります。専務松永大作にはあった。高木洋平にはなかったのでしょうか?少なくても大人になった松本結花が池袋へ米国へ自分に会いに来た時は強引に抱き付いても良かったのではありませんか?高木はいい印象を破壊したくはなかったのでしょうか?この時の女の気持ちが分かるアプリを発明したらノーベル賞をあげたいと思う男は数十億に上ると思います。