集団ストーカーと私の歴史5
・咳払いによる注意喚起
電撃と電磁波による攻撃は続行され、今回のように数日間不眠不休にされたこともありました。集団ストーカーはサーモグラフィー装置か何かで、室内での私の位置を把握しています。でなければ正確には撃てません。今現在行われている電磁波攻撃――離れにある風呂場でまだ、明確に撃たれて体が痛めつけられる――の照準の誤差のなさは精髄でしょう。
睡眠不足で働かぬまま、私は拙い小説を書いては公募に参加し、落選しては涙を飲みました。4万円もしたノートパソコンが、ハードディスクを認識しないという形でおじゃんになると、私は秋葉原に行き1万7000円の中古ノートパソコンを購入します。月に一度の精神科受診で何の進展もないまま(もともと精神はまともなのだから当たり前です)、私にとっては不要な薬を嫌々飲み、執筆を続けました。薬は飲みたくなかったのですが、それでけしからんと再入院させられるのは勘弁だったのです。
そうした生活は、何と10年にも及びました。集団ストーカーは決していなくなりませんでした。それは前述の通り、毎朝毎朝男女の咳払いが連発されるのが聞こえることでいちいち思い知らされました。午前10時で一区切りされるパターンの理由はよく分かりませんでしたが、1日も休むことなく咳払いは続けられました。痰を絡めてペッと吐き捨てる音もしつこいぐらいに行われましたっけ。これらの音はICレコーダーで録音できたので幻聴ではありません。
咳払いは8年もの長きに渡って続けられました。集団ストーカーが団地のこの棟に住み着いていることは明瞭でした。ある日突然ピッタリ止んだ理由は不明です。「私を自殺に追い込む」という究極の目的には役に立たないと見切りをつけたのでしょう。
その後、前述したような迷惑メールの絨毯爆撃とその防御などがあり、やがて母が年齢や将来を考慮して「愛媛の田舎に引っ越しする」と決定しました。
・愛媛の田舎への引っ越し
バタバタしましたが、今現在から1年3ヶ月前に田舎に舞い戻りました。老いた父、母、私の3人暮らしが始まります。そして私の予想通り、やっぱり集団ストーカーはついてきました。田舎の一軒家である我が家では、左右それぞれに他人の家屋があるのですが、そこに先回りして浸透したのでしょう。私が庭の畑の水撒きをする度、隣の家から「かーっ、ペッ」という、船橋市の団地でも散々聞かされた音が聞こえてくるのです。私は集団ストーカーが、家の主人に、どんな手段で住み着きを許してもらったのかさっぱり見当がつきませんでした。浸透力は相変わらずの切れ味です。
私はまた安眠妨害され、バイトができず日を送ることとなりました。そのうち、精神障害者福祉施設で短時間の作業を継続して行うことで、就職等を目指そうと母から告げられました。私はまた精神障害者扱いか、と辟易しましたが、両親は高齢でいつ何が起こるかは分かりません。私はこんな状況でも働いて金を稼ぎ、生きていかねばならないのです。もちろん上手くいくことはなく、どんな職でもすぐ安眠妨害を食らって辞めさせられるに違いないと分かっています。しかしやらなければなりません。私は作業所での短時間の作業を始めました。
・現在、そして……
私は2018年7月5日より、激しい苦痛をもたらす電磁波攻撃を浴びせられることとなりました。4時間しか眠れず、今日は1週間目の7月12日です。地獄は続いています。
歴史の項、以上です。長々とお読みいただき、ありがとうございました。