集団ストーカーと私の歴史2
・母の涙
しばらく私はショックで引きこもってしまいました。一人暮らしでこれはいけません。携帯電話の支払いが高額だった私は、徐々に貯金を崩していきます。
やがてさすがにやばいと思い人材派遣業に登録、派遣の日雇いで働き出しました。しかしやる気が出なかった私は更に貯蓄を減らしていきました。
それはとうとう、家賃の支払い遅れにまで発展してしまいました。気づいた時には遅く、私は残高が0になった銀行通帳を前に途方に暮れます。
そんな時でした。母からの久々の電話があったのは。私が自分の窮状を正直に話すと、「会って相談したい」となり、私は数年ぶりに母を自宅に招き入れます。私の話を詳しく聞いた後、母は金銭面での助力を申し出てくれました。家賃は再び払われ、私は一人暮らしの再建を志します。
話が一段落した時でした。母はふと落涙し、こう絞り出します。「あんただけはまともに育つと思ったのに……」(私は3人兄弟です)。母は号泣し、私は深くうなだれました。
その後持ち直した母は、私と外食ののち別れ、親子の久しぶりの対面は幕を閉じました。私は新しい倉庫業のバイトを得て、今度は懸命に働き出します。
・運輸会社のバイト
しばらくして私はバイト先を変えました。運輸会社の荷物の仕分け作業です。ここは1日4時間を週6日で、実入りは大したことありませんが、余暇を多く持てました。私は気に入って、長く勤めます。やがて外国系スーパーマーケットへ行き梱包作業を手伝ってほしいと頼まれ、1日7時間週2日でそちらへ向かいました。
そこでは集団ストーカーの従業員から「死ね」と罵倒される日々が待っていました……
それでも私はよく働きました。外国人の従業員の方から仕事を褒められたりもしました。長い帰路を散歩して帰る時の、ビル群の中に輝く月が忘れられません。
・集団ストーキングの表れ
やや駆け足でここまで振り返ってきましたが、それはまだこの段階まではネットでのつきまといがメインだったからでした。彼らは携帯電話を改造して予測変換でほのめかしたり、掲示板でメルマガの広告で揶揄したり、私のネット環境を捉えて仕掛けてきました。その目的は私に負荷を与え続けて自殺に追い込むことであり、この辺りまではまだその範囲での活動にとどまっていました。しかし私は自殺しませんでした。彼らは業を煮やし、その活動を表立って行うようになります。
まずは街中における、「死ね」や咳払いの罵倒です。梱包の作業を終えていつものように歩き、駅から幕張まではバスに乗ろうと、私はいつものバス停に足を運びます。その時でした。後から来た女が、「死ね、ああ!」と紛らわし気味の「死ね」を発して来たのです。私は「何だ?」と顔を見ましたが、何事もなかったようにしています。私も仕方なく知らんぷりをしました。外国系スーパーマーケットでの従業員による「死ね」を、何故か街中で見知らぬ人に言われた一件でした。
また、その後日から、幕張でバスを降りる際、ドア側最前列に座っている女客から、「死ね!」と浴びせかけられることが増えました。
このように、梱包の作業先でのみだった「死ね」が、街の風景でも聞かれるようになります。横断歩道のすれ違いざま、スーツの男に呟かれるなど、人も場所も多様となりました。私は「何だよ」と思いましたが、いちいち気にしても仕方ないと無視していきました。
集団ストーキングが姿を見せ始めたのです。
・真上の男の罵倒
そして、ある変化が起きました。前述済みですが、私の部屋の真上から、男の声で「死ね」「チッ」「馬鹿野郎」などの罵詈雑言が降ってくるようになったのです。部屋の中での私の行動を逐一把握しているかのような罵声のタイミングに、私は「見られている……?」と不安になりました。実際盗撮されていたわけですが。
この幕張のアパートは、既に不動産屋に浸透した集団ストーカーの一員が思うがままに振舞っていました。例えば私の隣の部屋は1年半以上に渡って空室表示でした。何で誰も入らないのか、私は不思議に思っていたほどです。これが私の引っ越し先に毎度のごとく登場する「隣接する空室」の最初でした。
さて、私は口撃に頭にきて警察署地域安全福祉課に相談に行きます。すると何故か、その行動を見ていたかのように、帰ってくると罵倒がピタリと止みました。私は気味が悪いと思いながらも、結果に満足します。しかし、日が経つとまた罵詈雑言が戻ってきました。
私は引っ越しを決意します。もっと家賃の低い風呂付アパートを探した私は、船橋市の1階吹き抜け3階建ての家賃30000円のアパート201号室に移ることとなりました(第2の引っ越し先)。
そして引っ越し当夜、他のいくつかの部屋から男女の声で「死ね!」と罵倒され、私は「多数の人間がつきまとってきている」ことを思い知らされました。集団ストーカーの決意表明、態度の公然化です。私は彼らが引っ越しを先回りしていたこと、複数の部屋を借りていたことなどから、「莫大な軍資金があるに違いない」とおののきました。「何だこの状況」と頭を抱える思いでした。
・薬物ガスとの戦いの始まり
真上の空室に深夜に響く物音から、私は薬物ガスをエアダクトを通じて換気扇より送り込んでいるに違いないと睨みました。ダンボールで換気扇を塞いだところ、真上と真横から立て続けに「死ね!」と怒声が響き、正解と分かりました。その翌日、私は若干太って明らかに臭くなくなりました。薬物ガスの存在に確信を得た瞬間でした。前述の通りです。
しかし2日後、集団ストーカーは何らかの対策を講じたらしく、また私は痩せて臭くなります。私はこの時から室内でマスクを付けるようになりました。効果はなさそうでしたが、決意表明のようなものだと考えて付け続けました。
この日から、私は薬物ガスを吸わそうとする集団ストーカーとの戦いを始めたのです。