第7話 月に誓った決意
夜の帳が下りた。群青色の空に星々が踊り、茂みでは虫の演奏会が幕を開ける。村唯一の教会に運ばれた少年は、白いベッドの上で目を覚ました。赤みがかかった髪は櫛で丁寧に梳かれ、血まみれの鎧も絹衣に変わっている。部屋には自分以外誰もいない。
隣の棚にある花瓶と、窓越しに見える星だけが娯楽である。俄かに扉の開く音が聞こえ、少年は思わず花瓶を手に取った。部屋に入ってきたのは、少年と同年代と思しき少女であった。手に蝋燭を持っているせいか、丸眼鏡が灯火を反射する。
ふわりとした、柔らかそうな姿に少年の表情が自然とほころんだ。
セレス「傷は癒えたみたいですね。見違えるようです」
少女の言葉に少年は胸へと手をやり、山羊に負わされた傷が完治していることに驚いた。
少年「あんたは……」
セレス「初めまして、サンバドル村教会の修道女・セレスと申します。裏庭で採れた薬草が無事効いて本当に良かった」
少年「薬草で治るものなんだ、結構深い傷だったと思うけどな……」
セレス「私には薬の知識がありますし、日頃から教会に来て下さる怪我人の方々を治療しておりますので」
セレス「さて、それはそうと戦士さん。あなたの身の上をお聞かせ願えますか? 素性を知れぬ者を留めておくほど教会は裕福ではございません」
少年「俺の身の上……」
山羊の雷撃を受けて以来、少年の頭から過去というものは吹き飛んでいた。自分の名前がハルシャ、であることは思い出せたが、あの山羊は何だったのか、何故五年間も追い続けていたのか。
そもそも自分がどこに住んでいたのかさえも忘却の彼方へ消え去ってしまった。
ハルシャ「俺の名はハルシャ、職業は戦士……すまない、ここまでだ。雷のショックで記憶がぶっ飛んじまったみたいでな」
セレス「それは本当に記憶喪失ですか? それとも馬鹿を装って衣食住せしめようという魂胆ですか? あぁ、後者か……」
ハルシャ「おい待てよ、流石にそこまで汚くないよ俺は」
セレスは困ったような表情で嘆息した。サンバドル村では名前と職業、その他最低限の情報がない限り村人として認められず、居住地も提供されないのだ。
逆に捉えれば、それらがはっきりしていれば大罪人であれ一文無しであれ住居が無償で手に入る。
セレス「もう少し伺いたかったのですが、仕方ありませんね」
セレス「教会に一つ空き部屋が残っていますので、神父様にかけあってみますね」
思わぬ幸運に喜んだハルシャは、セレスの流れるような紺色の長髪に触れようとした。
ハルシャ「よろしく頼む。俺の進む道をその蝋燭の様に明るく照らし出してくれ。君は俺にとって希望の光だ」
セレスは冷水がかかったかの様に身を震わせ、一歩距離を置き両腕で自分の肩を抱きすくめた。嫌悪感のこもった目つきでハルシャを睨む。修道女と称している割に、まだ俗気が抜け切れていないようだ。
セレス「気色悪ッ、すぐさま叩きだしてあげましょうか?」
ハルシャ「なんだよいきなり。気に障ったのならすまない、弁明させてくれ」
セレス「あなたの弁明は聞きません。詳しい話は明日また致します。ではおやすみなさい」
一方的に話を切ると、棚上の蝋燭を持ち部屋からそそくさと立ち去ってしまった。蒼白い月の光が部屋に差し込む。
ハルシャは天に浮かんだ月を見上げ、手を伸ばした。
自分がどこにいようとも、月光は変わることなく照らしてくれる。
ハルシャ「たとえ記憶が無かろうが、俺は生きるぞ。生きて、あの山羊にまた会うんだ。今度こそ仕損じはしない、必ず奴の首を獲る」
握りしめた拳。
ハルシャの瞳に決意の色が宿っていた。