第31話 熱砂の行進
くねくね蛇のようにまとわりつくソルティドッグを振り払い、レムラスは人混みの中を走り出した。剣の研磨を頼んで、その見返りとして妙な宗教団体に勧誘されるかもしれない。その日は井戸が復活したので、多くの村人が表へ繰り出し騒ぎ立てていた。喧騒に紛れるのは造作もないことである。
しばらく歩いて村の終わりに近づいた頃。見えない壁にぶつかったかのように、レムラスはいきなり足を止めた。いそいそと家の陰に身を隠す。半分、顔を覗かせる。
レムラス「アグサ、何をやっているんだ?」
集落から少し離れた砂丘、その頂上に1人の娘が立っている。アグサ・シュテルツェだ。アグサは両手に、黒い指貫グローブをはめている最中だった。息を大きく吸い込み、吐く。一陣の風、巻き上がる砂塵。彼女の身体がふわりと羽毛の如く軽やかに浮き上がった。勢いよく羽ばたく背中の翼。
同時に凍てつくような冷気が四方へ解き放たれる。彼女の周囲に広がる砂地は、一瞬で真っ白い氷の絨毯と化した。螺旋を描いて空中へ急上昇したアグサは、再び翼を激しく動かした。羽根が舞い散る。アグサが指を地上へ向け、発射の合図を下す。
宙を舞う羽根は鋼のように硬く鋭さを増し、地上へと降り注いだ。まるで、何千本もの矢が織りなす集中豪雨だ。たちまち砂丘は、吹き飛んだ柔らかい砂の嵐で包まれた。
レムラス「本気だ、本気で怒ってるよ! 近寄ったら間違いなく殺られる……!」
ウンディーネ「逆じゃ」
レムラス「逆?」
ウンディーネ「殺気が感じられぬ。焦りと苛つきじゃな。お主を助けに行かねばと焦っておるのじゃ」
レムラス「焦り……アグサが?」
ウンディーネ「うむ、まさかお主が殺されるとは思いもしなかったのじゃろう。それゆえ、あんな風に付け焼き刃の訓練をしとるわけじゃ」
レムラス「僕が殺された!? そんな訳ないだろう、変なこと言うなよ」
ウンディーネ「ほれ、とっとと行かんか」
レムラス「待って。その前に……」
両手を口元に当て、聞こえるように叫んだ。
レムラス「アグサ!」
少女の動きがピタリと、錆び付いた機械のように止まった。右に左に首を振り、声の飛んできた方向を躍起になって探している。しかし結局、分からずじまいで肩を落とす。レムラスはその姿がおかしくて、クスクス笑わずにいられなかった。強気な女が見せる弱々しい表情ほど、可愛らしいものはない。鞘を通して少女の呆れを含んだ声が聞こえる。
ウンディーネ「性格の悪い男は好かれぬぞ」
レムラス「分かってるよ。ちょっと遊んでみたかっただけだよ」
レムラスは地上に舞い降りたアグサの背後へこっそり近寄ると、その両肩を思い切り叩いた。短い悲鳴を挙げて飛び退くアグサ。敵ではないことを示すため、レムラスは笑顔を作って挨拶した。
レムラス「ただいま!」
アグサ「レムラス!?」
レムラス「遅くなってごめんな。強い魔族と闘っていてさ。もう一人で出歩いたりしないよ」
アグサ「魔族と……!?」
アグサの目は一瞬だけ大きく見開かれたが、すぐに吊り上がってきつい光を帯びた。固く握り締めた拳がレムラスの頭に飛んでくる。軽い衝撃と共に、鈍い痛みが脳天から顎まで突き抜けた。そこへアグサが一喝。
アグサ「このバカ! あたしがどれだけ心配したと思ってんのよ!」
アグサ「でも……」
ふと、アグサの表情が緩む。眩しそうに目を細め、口元には微笑すら湛え、普段の乱暴な彼女からは想像もつかないほど柔らかい、麗らかな春の日差しのような顔つき。さっきまで烈火の如き怒りを見せていた少女がいきなり菩薩となったので、鈍感なレムラスも流石に不審がり、その意を聞いてみる。
レムラス「でも? どうしたの?」
アグサ「ううん、何でもない。あのハゲ皇子には顔見せた? ちゃんと謝りなよ。迷惑かけて、すみませんでしたって」
レムラス「もう会ってきたよ。皇子様は今、タイガーと会談中だけどさ」
アグサ「タイガー? あの虎男も連れてきたの? アンタ、意外とやるじゃない。ほら、ハゲのとこ行くよ。早く来ないと置いてくからね!」
アグサは背中の翼を消すと、穴だらけの砂丘を駆け下っていった。1人取り残されたレムラス。腰に吊るした剣が不満げにぼやく。
ウンディーネ「なんじゃ、つまらんのう」
レムラス「つまらん? 何がだよ」
ウンディーネ「わしとしては、お主とあの女が喧嘩して殺し合うのが面白かったのじゃが」
ウンディーネ「あの女、よほどお主の生還が嬉しかったみたいじゃ。それが青臭い。質の低い恋愛小説を読まされているみたいでの」
レムラス「やっぱり1000年も生きてると他人の人生にケチつけたくなるんだね。大精霊さまってのは」
ウンディーネ「長いこと同じ場所で生きるとな、退屈で死にそうになるんじゃよ。みんな見たことがあるものばっかり。ハラハラドキドキする、スリリングな大戦争でも体験してみたいもんじゃ」
一方、クナラズとタイガーは漆喰の壁に寄りかかり話を進めていた。タイガーは別に臣従を誓ったわけでなく、ダムドラの討伐協力という条件つきで行動を共にしているのだという。てっきり将軍の座を受けてくれるのかと期待したが、ぬか喜びに終わってしまったようだ。ふと、目を細めて踊り騒ぐ村人らを眺めていたタイガーが指をさしてきた。
タイガー「誰かいるぞ」
小悪党のような雰囲気の青年が、揉み手をしながらクナラズの傍に佇んでいる。目元を縁取る黒い隈、不健康そうな青白い顔、冬でもないのに粉雪の積もった黒髪。吐く息は腐った牛乳の香りがする。腹の中に魔族やら何やら狩っているのであろうか。普通の乞食にしては、あまりに怪しい。垂れた前髪の隙間から見える鋭い眼光も侮れぬ。怪訝な表情でクナラズは口を開いた。
クナラズ「なんだお前は?」
ソルティドッグ「あなたのお友達、といったらどうします? クナラズ殿下」
クナラズ「お前みたいな友人なぞ知らんが」
ソルティドッグ「まぁ、待ちたまえ。このソルティドッグ、必ずや殿下の役に立ってみせましょう」
クナラズ「何ができる」
ソルティドッグ「殿下もご存知でしょうが、私は『狂気に満ちた暗黒錬金術師』という異名を持っています」
ソルティドッグ「つまりですね、冥界の竜王より授かりし漆黒の業魔力で刀をにらぐのです。いや刀だけではありません。何でも作れますよ。ケヒッ」
ソルティドッグ「たとえば、そうですなぁ。殿下、お仲間がたったの3人だけでは心許ないでしょう。私が来たからにはご安心を。ざっと戦士を工面して参ります」
丸まった背を向けて、汚らしい風体の青年は往来へと消えていった。そして数分後、クナラズとタイガーの前に屈強な男達を山ほど連れて悠々と凱旋してきたのである。
ソルティドッグ「こいつら、腕っぷしは強いですが戦い方を知りません。どうです、私にごろつき共の調練を任せてはくださいませんかね」
人手不足に悩んでいた皇子は、頷かざるを得なかった。
焼けつくような砂の大海、渡るは背に利口な猿を乗せたラクダ数十頭。前をゆく者がつけた足跡をひたすら辿り、絶滅寸前のモール族を求めて練り歩く。湿気がないので汗はかかない。ただ、吸い込む空気が嫌というほど熱い。砂も若干混じっており、おちおち深呼吸などできやしない。
レムラス「殿下、僕はあなたの判断を否定しているわけじゃない。けれど、もう少し他に選択肢はなかったのですか?」
クナラズ「ないぞ」
レムラス「はぁ……」
村を出発してから数時間、早くもレムラスは音を上げていた。彼が不平不満を漏らしているのはもちろん、ソルティドッグについてである。意味不明な言葉を吐きながらまとわりついてきた変質者を隊列に加えるとは何事か。彼1人だけならまだしも、兵法の何たるやも知らぬ愉快なごろつき達まで雇うなど言語道断。しかしクナラズ皇子の決断なので、渋々レムラスもソルティドッグを仲間として迎え入れるしかなかった。レムラスはラクダの歩みを緩め、飄々と鼻をほじる浮浪者に並んだ。
レムラス「おい、君!」
ソルティドッグ「吹きすさぶ熱風にまぎれ、シルフの囁きが聞こえる。はて、どうしたものか。私もついに神聴者としての資格を……」
レムラス「こっちだよ! おい、どこを見ているんだ!」
ソルティドッグ「フッ、レムラス氏……。そこにいたのですね」
レムラス「君は実に珍妙な男だねぇ! 皇子が君を騎士団長として雇った理由が分からんよ!」
ソルティドッグ「語るまでもありません、私が有能だからです。皇子は人の能力を見抜く目がある。能ある鷹の爪を引っぺがす力がある」
ウンディーネ「お主が有能とはとても思えんがのう。現に連れてきた者はごろつきばかりではないか」
レムラスの帯剣から少女が亀のように首を突き出してきた。青い髪の先から水がとめどなく滴り落ちている。魔力を吸われたとて、元は水の大精霊。完全に力を失ったわけではないのだ。
ソルティドッグ「私は有能であるがゆえ、モール族の集落へ着くまでに彼らを超一流の『血に飢えし地獄の番犬』に育て上げてみせますよ」
アグサ「意味わからんし……病院で診てもらったら?」
アグサの言葉を受けてなお、ソルティドッグは口元に歪んだ笑みを浮かべていた。どんなに見苦しかろうが構わない。ここでのし上がらなくては、一生あの粗末な粘土小屋でみすぼらしい生活をせねばならぬ。
ソルティドッグ「せっかく、神が私に与し給うたのだ。無駄にしては、あまりに無礼極まる」
独りごちるソルティドッグのそばに、アグサが氷剣を携えラクダを寄せてきた。
アグサ「そうね、なら天に恵まれた魔力の腕前、とくと拝見させてもらおうかしら」
ソルティドッグ「おっと? ひょっとして『闘る(やる)』おつもり? 暗黒錬金術師として各国で名を馳せた、この私と?」
タイガー「待て」
ラクダの足が一斉に止まった。最前列にいるタイガーが耳をヒクヒクと動かし、微妙な空気の揺れを感知する。
タイガー「空気が小刻みに震えている。おそらく、小隊が簡易的な拠点を築いているのだろう。煙の匂いも若干するな」
クナラズ「ならば早く焚火の場所まで行って、物資の補給なり共有なり……」
だからこそだ、とタイガーは逸るクナラズをじろりと睨みつけた。休憩中の勢力が必ずしも味方であるとは限らない。真正面から突っ込んでいくなど、下の下策。最悪、全滅もあり得る。
タイガー「みな、ラクダを降りろ。なるべく音を立てるな。先に俺が様子を見に行く。それからアグサ、貴様は俺と共に来い。もしもの場合だが、やってもらいたいことがある」
アグサ「え? どうしてウチまで」
タイガー「貴様にしかできないことだ。いいからついてこい。クナラズ皇子、他の兵を頼む」
アグサ「これって……」
タイガー「やはり、魔族の拠点であったよ。武装解除して呑気に近づいていたら、間違いなく全員殺されていた」
タイガーの予想は的中した。巨大白蟻デビルタームの一隊が、焚火を囲んで飲めや歌えやの宴会に興じていたのである。剣と盾を装備したタームソルジャーが50匹。長い鉄槍を小脇に抱えた、タームバトラーの姿も見受けられる。
タイガー「女王蟻の護衛がわざわざ出向くということは、よほど重要な拠点か任務のようだ」
アグサ「ねぇ、あれ見て!」
松明を持った白蟻が、黒い瞳を磨き切った宝石のように輝かせ、塵のひとつも逃さぬと周囲を見渡している。櫓は4つ。監視塔同士を線で結べば、正方形の敷地ができあがる。
タイガー「貴様の魔法で凍らせろ。撃ち殺したり櫓を壊してはならん。あくまで、対象の凍結のみに集中するのだ。可能ならば頭から凍らせてゆけ。叫び声を挙げられては厄介だ」
そのために自分を連れてきたのか。臆病というか、用意周到というか。アグサは半ば呆れながら、手中に空色の光を生成した。溢れているのは、雪の結晶であろう。まともに喰らえば、凍結は免れない。
アグサ「はぁ……注文の多い虎だこと。いいよ、やったげるから離れて」
アグサは掌を一番近い監視兵の頭へ向けた。魔力の矢が弧を描いて飛び、標的の頭に着弾した。たちまち冷気のベールに全身を包まれる監視兵。醜い氷像が完成した。美術展に出品しても、一部の魔族マニアしか目を向けないだろう。
タイガー「よし、次だ。4つの櫓を全て無力化しろ」
アグサは時計回りに見張り兵を仕留めていった。霧のおかげで、ある程度近づいても愚かな白蟻兵達はアグサの存在に全く気づかない。以前、トハラで戦った時は苦戦させられたが、意外と扱い易い相手なのかもしれない。前髪を掻き上げ、じっと機をうかがう。
レムラス「何をそんなに張り詰めてるの」
いきなり肩を掴まれ、アグサは全身の肌が粟立つのを感じた。レムラス・アクエリア。この男は、もう少しマシな声のかけ方を知らないのだろうか。彼の頭を軽くはたき、静かにするよう叱りつける。すると、レムラスの隣に腰を下ろした者がある。
ソルティドッグ「やれやれ、隠密行動は終いだというに。周りをよく見て発言しなさい」
アグサ「あんたら、いつから……」
レムラス「タイガーに呼ばれたんだ。もう来てもいいってさ」
ソルティドッグ「あなたの役目は終わりました。大人しく後ろで我らの勇姿を眺めていなさい」
アグサ「ソルティドッグ、それ何よ?」
彼は錫メッキの施された鍋を手にしていた。ソルティドッグだけではない、彼の連れてきたごろつき共まで装備済みだ。荒くれ者の軍隊はパラパラと散らばり、白蟻の拠点を囲い込んだ。だが、万全の状態とは言い難い。何しろ数に差があり過ぎる。倍以上もある敵に、どう立ち向かうのだろう。
しばらくして、ソルティドッグが指を口に当てた。甲高い警笛が空気を切り裂く。
ソルティドッグ「鳴らせ!」
号令が終わらない内に、ガランガランと岩を砕くような音が響き渡った。突然の奇襲に白蟻兵はあたふたと走り回っている。冷静なタームバトラーさえ、迂闊に武器を振るえなかった。視界の悪さに加え、包囲されているという不利な状況。反響する鍋の音で、大軍の襲撃を受けたのかと錯覚してしまう。
ソルティドッグ「血に飢えし狼達よ、哀れな仔羊を一網打尽にせよ!」
レムラス「いくよ、ウンディーネ! 援護頼むぜ!」
ウンディーネ「はあ!? わしは無駄な争いなどしたくないわー!」
アグサ「あいつら、意外とやるわね……」