第30話 合流
タイガーの思考を遮るように、ダムドラが咆哮する。湖面が激しく波立つ。ダムドラを恐れているかのごとく。存在してはならぬ者が、ここにいる。地球をも震えさせる凶星が、ここにいる。
タイガー「少女よ、貴様がミズハなのだろう? 声を聞かずとも、その血涙を見れば分かる。長い間、吸収される恐怖と隣り合わせのまま、一人で必死に闘っていたのだろう。安心しろ、タイガーが貴様を塗炭の苦しみより救い出してやる」
ダムドラは静かに歩を進めていた。この巨大な魔族にとって、タイガーは路傍の小石にも満たない存在なのだろう。その余裕が虎男の怒りをなおさら掻き立てた。
タイガー「逃すかッ!」
ダムドラにしがみついた虎男は、その重厚な筋肉と脂肪の鎧に包まれた背中へ、細長い愛刀を思い切り突き立てた。皮膚が裂けて赤黒い血が噴き出すものの、致命傷はおろか敵の歩みすら止められていない。バキン、と硬い音がした。
タイガー「む、これは……!」
タイガーは、呆然と短くなった剣を見つめた。ダムドラの背筋は刀が刺し込まれる刹那、一瞬で収縮し、刃先をへし折っていたのだ。筋肉を駆使した、真剣白刃取り。流石のタイガーも、この無意識の内に繰り出される驚異的な技には戦慄せざるを得なかった。ならばこれはどうかと拳銃を至近距離で発砲するも、鋼のような皮膚に弾かれてしまう。通常攻撃では、討ち取るに力不足だ。
タイガー「フッ、この程度では擦り傷すら創れないか。ならば受けるがいい、我が奥義を」
タイガー「砕け散れ、フルウェポン・コンビネーション!」
確かにフルウェポン・コンビネーションを発動したはずだった。しかし、広がり始めた方眼上の世界はどういうわけか途中で弾かれ、代わりに見えないエネルギーの拳がタイガーを天高く突き上げたのである。
虎戦士は吹き飛ばされながら、即座にそれが強烈なカウンターであることを悟った。吸収したミズハの魔力を利用して、あらゆる魔法攻撃を弾くカウンターバリアを張っているのだろう。もちろん、タイガーもただでは転ばない。ちょうどダムドラの頭に着地すると、双刀の刃を勢いよく突き立てた。
タイガー「ふむふむ……逆に言うと魔力の供給源となるミズハを剥がせば、カウンターはできなくなるわけだ」
双刀が頭に刺さっても、ダムドラは意に介せず歩を進める。ギョロリギョロリと魚眼のように丸く赤い目が互い違いに動き、獲物となる魚がいないか確かめる。魚は全て、毒気にやられて腹を上に向け浮かんでいた。まるで湖が遅れて訪れた客人へ、馳走を振る舞っているようだ。ダムドラは首を伸ばして水中に口を着けると、見る者をアッと言わせるような恐ろしい速さで水を呑み始めた。
タイガー「うぬッ……湖を呑み干す気だな」
タイガー「レムラス! レムラス、聞こえるか! 腕輪を置いても、こちらへ戻ってきてはいかん!」
枯れるほど声を張り上げてみたが、返事はない。さっきの水柱といい、レムラスに何か大事が起こっているのかもしれない。タイガーは、奥義を発動する構えに入った。ダムドラでなく、遠く離れたレムラスに向けてである。視認できないので『世界』に組み込めるか怪しいが、やってみなければ分からない。再び、縦線と横線の交錯する白い空間が広がり始めた。
空虚な部屋を1人、タイガーは泳いでいく。1秒1秒ごとに、身体の負担が重くなっていくのが分かる。薄氷を踏むような音と共に、親指の爪が割れた。この調子では、左右の爪が全て割れるのに、そう時間はかかるまい。爪だけではない、脳も眼球も、腹に詰まった臓器も彼が思う以上に脆かった。
タイガー「世話のかかる奴め」
レムラスは天を仰いで、クラゲさながら虚無の波間を漂っていた。腕を掴み、グッと引き寄せる。その後、直感的に湖岸だと感じ取れる場所に着くまで、タイガーは力の続くかぎり移動していった。フルウェポン・コンビネーションの世界は現実世界と対応している。疲れたからといって、レムラスを助けた場所で技を解除してはタイガーも湖に落ちてしまう。
レムラス「タイガー!? あれ、どうしてぼく、いつの間に岸に上がっているんだ?」
タイガー「あれを見ろ」
レムラス「……怪物が、湖を呑んでる!」
タイガー「ふむふむ、貴様が放ったハヤブサの報告は当たっていたようだな。ダムドラは食事のため、湖へ訪れていた」
2人は精霊の湖が枯れ果ててゆく様を、岸辺でぼんやりと眺めていた。
タイガー「対策が必要だ」
レムラス「対策? 漁場を壊されて猛り狂った村人を宥める対策かい?」
タイガー「否、ダムドラ討伐に関してのだ。俺1人では、まるで歯が立たなかった」
レムラス「それもそうだがタイガー、湖の中央に何か青っぽいのがいるぞ!」
枯れ果てた湖底の中央で、大の字に両手両足を広げて寝転ぶ少女がいた。もはやこれまでと、観念の目を閉じているらしい。死んだ魚のようなくすんだ瞳に、悠々と空を泳ぐ雲の群れが映る。水色の髪は力なく萎れ、触手のごとくウネウネと水を求めて四方に伸びている。レムラスが木の枝でつついてみると、腹に溜まった水を吐き出し、掠れた声を絞り出した。
ウンディーネ「もう駄目じゃ……。あやつ、わしの全てを吸い尽しおった……」
魔力を奪われると、精霊は姿形まで幼児退行してしまうのだ。レムラスは目を丸くして、タイガーを振り仰いだ。神妙な顔つきで見下ろす虎男の背後に、ダムドラの後ろ姿が霞んでゆく。大魔獣の食事による二次災害は、ウンディーネにとって甚大なものだった。
レムラス「もしかして、魔力を吸い取られた雨の魔王だったり……するのかな?」
タイガー「ふむふむ、間違いなく雨の魔王だろう」
ウンディーネ「その名で呼ぶな!」
レムラス「うわッ、こいつまだ結構元気だぞ」
タイガー「安心しろ、この状態では水鉄砲程度の魔法しか使えん」
ウンディーネ「バカを申せ! 弱体化はしたが、まだまだお主らを吹き飛ばせるほどの魔力なら残しておるわ!」
雨の魔王は自分にできる精一杯の『怖い顔』を演出してみせたが、少女が駄々をこねているようにしか見えなかった。
レムラス「タイガー、こいつどうする?」
タイガー「貴様の好きにしろ。俺は精霊になぞ、興味はない」
レムラス「そうだな……。じゃあ、村の井戸を元通りに戻してほしいな。水神様なら、それくらい訳ないでしょう?」
ウンディーネ「嫌じゃ! 人間共はわしの腕輪を壊したのだぞ! 許せるわけがなかろう!」
人間は勝手な生き物だ。
彼女はこの世に生を受けてから1000年間、そう硬く信じてきた。豪華な祭壇を建て、大仰な儀式を行うくせ、いざ恩恵が得られなければ親の仇のごとく辛辣に責め立てる。森が焼けたり川が枯れるのもお構いなく、ニョキニョキとツクシのように家を建てまくる。
本当に人間は勝手な生き物だ。世界が自分中心に回るものだと勘違いをしている。そして今、眼前にいる少年も太陽のように朗らかな笑顔で、グイグイ無理強いをしてくるのだ。
レムラス「たかが腕輪を壊されたくらい、後でどうにでもなるよ。それより、井戸の方を早く頼む」
ウンディーネ「い、嫌じゃ!」
レムラス「君が暴れたせいで、沢山の人が死活問題に直面しているんだぞ。水がなければ何もできないからね」
言葉だけなら柔らかいが、剣を彼女の喉元に当てながら喋るので、ウンディーネは内心かなり冷や汗を垂らしていた。ここは一旦従う振りをして、あたかも井戸の復活呪文を唱えたように思わせるしかあるまい。自分や湖にとって重要な腕輪を壊した人間のために、残り少ない魔力を浪費したくはなかったのだ。ウンディーネは両手の平を合わせて、ごもごも適当な呪文を唱えた。
ウンディーネ「ぶつぶつぶつ……。ほれ、終わったぞ。今頃、村の井戸から溢れんばかりの水が噴き出しとるはずじゃ」
レムラス「よし、じゃあ一緒に見に行こうか!」
ウンディーネ「えッ!? そ、それはやめた方がいいのではないかの……」
レムラス「どうしたのだい、見られて困ることなんて無いだろ」
ウンディーネ「うぅ……もう好きにせい!」
レムラスとタイガーが踵を返した瞬間を狙って、ウンディーネはこっそり十字を切り、復活の呪文を唱えたのだった。
村の通りに入ると、赤いブリーフを履いた坊主頭の男が巨体を揺らし駆けてきた。ハーゲル王国の第三皇子、クナラズ・D・ハーゲルである。同伴者のレムラスがいないことを聞き、いざ救出せんと出発の準備をしていたのだ。手の甲で額の汗をぬぐい、虎男と青い髪の少女を連れて帰還した勇者に手を差し伸べる。
クナラズ「よくぞ戻った。今、荷物をまとめて出発しようとしたところだ」
レムラス「ご心配をおかけして申し訳ございません。レムラス・アクエリア。ただ今戻りました」
クナラズ「怪我がないなら十分だ。それより、鳥人族の娘がお前を血眼になって探していたぞ」
レムラス「アグサがですか? しまった……朝までに戻るって約束してたんだった」
ウンディーネ「おい」
レムラスのズボンの裾を引っ張る少女に、クナラズも気づいたようだった。それは何者か、と怪訝な顔つきで誰何する。レムラスは精霊の湖であったことを、始めから終わりまで包み隠さず話した。
クナラズ「井戸のことは問題ない。急に村中の枯れた井戸から新鮮な水が湧き出して、みんなお祭り状態だからな」
ウンディーネ「えっへん、わしは1000年以上も生きてきた大精霊なのだぞ! 思い知ったか、その力!」
クナラズ「しかし、水の大精霊まで太刀打ちできぬとは……。デビルタームよりダムドラという魔族の方が気になる」
彼は毛のない頭を撫でると、レムラスとウンディーネに席を外すよう顎で示した。ダムドラについて、関わりの深そうな虎男とじっくり話したいというのである。
クナラズ「ちょっとお時間を割いて頂いても構わぬか、タイガー殿」
タイガー「話は移動しながらしよう。ダムドラが湖付近にいると知った以上、一刻も早く討ちに行かねば」
レムラスは人混みに入りつつ、アグサを探していた。
レムラス「アグサ、絶対怒ってるよなー。悪いのは僕だけど、拳骨だけは嫌だなー」
ウンディーネ「アグサとは誰じゃ?」
レムラス「僕と一緒に旅をしてる女の子。鳥人族は温厚なはずなのに、あの子とっても気が強いんだ」
ウンディーネ「そうか尻に敷かれてるわけじゃな。色々と面倒そうじゃ。ちょい部屋を借りるぞ」
レムラス「は?」
少女の身体が泡のように四散し、レムラスの剣へ吸い込まれていった。焦って鞘から剣を引き抜くと、仄かな蒼白い煌めきが月光のように手元を照らし出した。精霊が憑依した証として、彼の刀は水属性の魔力をまとったのである。
レムラス「うわッ! ウンディーネ、大丈夫?」
ウンディーネ「ムフフ、驚いたじゃろう。お主の剣に取り憑いたぞ。暫くはここを仮寝の宿とさせてもらうわ」
レムラス「仮寝の宿だって?」
ウンディーネ「うむ。元の力を取り戻すまで、お主と行動することを決めた。少女の姿だと、行動が制限されてしまうからのう。しっかし汚い剣じゃ。手入れしてるのか? あちこちにガタが来ておるぞ。不快じゃ不快じゃ!」
レムラス「贅沢言うなよ、腕のいい鍛冶師がいないんだから」
???「ほう……腕のいい鍛冶師、ですか……」
隣から風采の上がらない格好をした青年が、ズイッと顔を突き出してきた。眼の下にくっきりと影のような隈があり、肌は白く、短く切り揃えた黒髪にはフケが積もっている。見るからに怪しい。長い冬眠を終えて洞窟から出てきた熊のような、ともかく良い印象ではない。
レムラス「鍛冶師について、何か知っているのかい?」
ソルティドッグ「この私、『狂気に満ちた暗黒錬金術師』。耳にしたことくらいあるでしょう?」
レムラス「いいえ、知りません」
ソルティドッグ「お? 知らない? フッ……これだから無知な愚者は面倒なのですよ。また最初から説明せねばならない」
時はアディスト暦546年、北の覇権を握るパーデクト帝国に珠のように美しい皇子が生まれた。名をソルティドッグ。パーデクト語で『神の恩寵を受けし聖人の御子』の意。凄まじい美少年。知能指数は5000。動植物に名前を付けるのが好きで、最近の自信作は路傍のタンポポにつけた『灼熱の獅子男爵」。あまりに顔面が美しく、その衝撃波で世界一高いロルッソティプラン山を木っ端微塵に破壊したことがある。
生まれた時に立ち上がり天を指差して『天にまします我らが神よ、その御力を我に授けよ』と斜に構えながら呟いた。全世界の富を一身に受けた彼は14歳の時、この世が無常であることを悟り、家を出奔する。
顔から流れ出る汗によって、枯れ果てた不毛の荒野は緑の大地へと蘇り、花々は咲き乱れ、美女は狂喜乱舞した。どうやらソルティドッグ、体内から分泌される汗に生命を復活させるほどのイケメン成分が含まれているらしい。このエキスでたぶらかした王女は数知れない。北はゾルォディエ帝国から南はボンボロポンポン族の娘まで……。
ウンディーネ「パーデクト? ボンボン? そんな国は見たことも聞いたこともないのじゃが」
レムラス「なかなか珍妙な人だね、この人」
いきなり現れた変人の身の上話を、2人は華麗に受け流した。触れてはいけなかった人のようだ。この場から速やかに立ち去らなければなるまい。