第25話 崩御
王が死んだ。
何者かに毒を盛られたか、脇腹を刺されたか、持病が悪化したか。理由は分からぬが、ハーゲル王国の第41代マハーラージャ『レイギャン・D・ハーゲル』は死んだ。すぐさま葬儀が執り行われ、長男のケトーメロを始め数多の廷臣や諸侯が参列した。しかし、諸侯らは知らない。ケトーメロが内心ほくそ笑んでいることを。王の死が始まりにすぎないことを。
ナンダ将軍「陛下! 陛下ーッ!」
ハーゲル王国にて歴戦の勇者と称えられたナンダ将軍が駆けこんできた。王の遺体を見るなり鍛え抜かれた肉体を仔鹿の様に震わせ、顔面をくしゃくしゃに歪め、亡き王の名を幾度なく声が枯れるまで泣き叫ぶ。その喧しさといったら、牛と象の合唱と喩えてもまだ足りないだろう。小鬼のような醜い姿をした長男が、うずくまる不動明王の肩に手をかけた。
ケトーメロ「おやめなさい、ナンダ将軍。豪胆で有名な貴殿が慟哭しては兵の士気に障りが出ます。将軍たるもの、いかなる状況にあっても冷静さを保たなければなりません」
ナンダ「その通りでございます。しかし……あまりに皇子様はお強い。臣下の我々よりずっと親しい間柄ですのに、少しも取り乱さず国の将来を考えているのですから」
ナンダ将軍の言葉には僅かながら、皮肉の響きがこもっていた。ケトーメロは自分を強いなどと思わない。小心者で、卑劣で、利己的で、身体も小さい。だからこそ、彼は自分が誰よりも狡猾な蛇であることを自負している。
ケトーメロ「玉座に腰かけるのは、この私だ」
レイギャン王の死も表向きは安らかな老衰とあるが、ただ蛇の毒牙にかかっただけのこと。悲しむよりか、猜疑心に満ち溢れた暴政が終わり喜ぶべきなのである。父を始末した不孝者が腹から湧き上がる笑いを堪えていると、大股で部屋に入る者があった。
闖入者が大理石のタイルを一歩踏みしめる度にあれは次男じゃないか、キラメロ・ハーゲルじゃないかと周囲で声が上がる。長男と同じく禿げているが、その身体つきは比べ物にならないほどしっかりしている。日に焼けた端正な顔は父の死に対する悲しみと、兄に先を越された憎悪とで激しく燃え上がっていた。
キラメロ「やりやがったな、兄貴」
ケトーメロ「はて? やりやがったとは、何をですかな? かわいいかわいい弟よ……」
キラメロ「親父を殺したのはテメェだろうが! ガルガが覗いたと言っていたぜ。昨日の夜、怪しげな薬を厨房で調合するテメェの姿をな!」
ケトーメロ「初耳ですなぁ、さような話は。昨日の夜、私が客人の家に行っていたことをあなたは知らないのですか?」
キラメロ「客人だと? そうかい、作った毒薬を盛るために客人を使ったんだな」
ケトーメロ「愚かな……」
次男の当て推量は、半ば当っている。毒はある意味賭けだ。ほぼ確実に殺せるが、失敗時のリスクも高い。そのような亀裂の入った橋は渡らぬに限る。安全至上主義のケトーメロが出した結論は、外部から強力な客人を招き、毒を凌駕する威力の技でレイギャンを暗殺することだった。
ケトーメロ「まったく、バカな弟を持つと苦労が絶えませんね」
次男の追及に辟易したケトーメロは、足早に部屋から退散していった。バナナの樹が生い茂る中庭を横切り、絹のカーテンに閉ざされた客室の入口へ立つ。布を手の甲でわずかに押し上げ、なるべく中の様子を眺めないよう気をつけながら囁いた。
ケトーメロ「武琉殿、ケトーメロですが入ってもよろしいですかな」
返事はない。その代わりに、静寂を破り殺気の突風がゴウッと彼の身体を吹き抜けた。狡猾な蛇の心臓はそれだけでも縮み上がり、危うくその場で嘔吐してしまうところだった。脂汗をダラダラ垂らしつつも姿勢を整え、客人の返事を待つ。すると。岩を砕くような声が、カーテンの隙間から細々と聞こえてきた。
武琉「殺気の応酬が展開されぬ。もしや貴方は正真正銘のケトーメロ殿下であったか。この老骨、誰の恨みを買ったか知らぬが命を狙われておりますゆえ、多少の警戒は許してくだされ」
ケトーメロ「いえ、別によろしいのです。貴殿はサンバドル村1位のギルド……Lunaticを率いる男。覇気も健在のようで安心致しました。では、お約束の物をお渡ししましょう」
恐る恐る客室に足を踏み入れると、赤いベレー帽を被った老人が寝台に座っていた。小柄な全身より発せられる覇気に、ピリピリと肌が痺れるような痛みを感じる。台風と戦う小鳥の気持ちが今、理解できた。
武琉「そう恐れずにもっと近寄んなさい。わしは殿下に拝謁できて喜んでいるのですから」
彼は震える手で腰に括り付けている巾着をまさぐり、1本の試験管を取り出した。中身は何の変哲もない赤銅色の液体なのだが、他者を威圧する謎の闘気を放っている。血が騒ぐという言葉がまさに相応しい。武琉は目を細めて頷いた。
武琉「うむ、確かに受け取りましたぞ。ハーゲル王国の莫大な富は、遂に人間を魔物に変える禁断の術さえも簡便化したのですなぁ」
ケトーメロ「人間を魔物に変える? それはどういうことでしょうか。ご説明を願いたいところですが」
武琉「説明したところで、小物のお前には到底分からぬことよ。……現在、レイギャン王の暗殺を知っているのはお前のみ。後始末もしっかりこなさねば、Lunatic全体に被害が及ぶ」
ケトーメロ「私を殺す気か!?」
武琉の雰囲気がガラリと変わった。パイプに溜まっていた灰を落とすと、吊り下げられているようにふわりと浮く。髪の毛が逆立ち、風もないのに武琉のマントが激しくはためいている。ケトーメロは絶叫しながら両手を滅茶苦茶に振り回して、入口へ駆け出した。勿論ここで逃してはギルドの名折れ。壁に映る老人の影が霧状に分散して、逃げ惑う小鬼に襲いかかった。
ケトーメロ「ぬわあああああ!」
ケトーメロの鼻から、血と脳漿の混ざった物がスプレーの如く噴射された。足を滑らせ大理石の床に顔を打ちつける。動きを止めた全裸の小鬼を見下ろし、武琉は無表情で合掌した。いくら狡猾といえど、所詮は蛇に過ぎぬ。獰猛な鷲と協力しようとしたとしても、結局啄ばまれるのがオチなのだ。
ケトーメロ・D・ハーゲルの変死から3日後。次男のキラメロがハーゲル王国の王、すなわちマハーラージャとして即位した。大抵の王は即位式のみで自室へ帰ってしまうのだが、それだけでは興が少ない。是非とも王となったキラメロ・D・ハーゲルという男を、いち早く国民に知らしめたい。彼は宰相のパパロを呼び寄せた。
キラメロ「おい、パパロ」
パパロ「どうかなされましたか、我らが大王」
キラメロ「お前はハーゲル王国の宰相だろう。なら民がどこにどれくらい居住しているか、ある程度は調べているな?」
パパロ「戸籍の調査は済んでおりますが……」
キラメロ「ハーゲル王国の民草を、このボルドノープルに召喚しろ。まだ地方には、レイギャン王の治世と勘違いしている者も少なからずいるはずだ。国民の意識を刷新せねばならん」
パパロ「数千万人を一度に集めては、暴動が起こるのではないかしらん」
キラメロ「案ずるな、俺には王家伝来のアデ・ランスとアート・ネイチャーがある。いざとなれば、ガルガに頼んで聖剣クチュルクも動員する。どこにも問題はない」
こうして全国の村に召集令がかかった。農民からすれば、王の2人や3人変わったところで自分らの生活が楽になるわけでなし。その上、足腰の悪い老人を背負って、泣き喚く子供を宥めて遠い道のりを歩かねばならない。召集令など、傍迷惑も甚だしいところなのだ。だが拒むわけにもゆかず。数千万人の農民やら町人やら軍人やらが、ボルドノープルの王宮前にひしめくこととなった。
シュン「おい! 皇帝とやらはまだ出てこねぇのか!? テメェら知ってるか? 俺様はよォ、このシュン・ブラック様はよォ! 病床の妹にチューリップを買ってやったんだがよォ! この人混みのせいで茎が折れちまったんだよォ! どうしてくれんだ!」
調子の外れたハゲ語からして、ひたすら野次を飛ばしている男は異邦人だろう。激しく身悶えするので、周りの農民から頭を叩かれたり肘鉄を喰らったりしている。太陽が真上まで登った時、宰相のパパロが展望台に立ち、小さなラッパを吹き鳴らした。正装のキラメロが続いて現れる。
パパロ「偉大なるマハーラージャのご登場だ。皆の者、しかと目に焼き付けよ」
中央にトパーズが埋め込まれた橙色のターバンをかぶり、綿入りの青い王衣を着ている。右手に魔槍アデ・ランス、左手に生命の杖アート・ネイチャーを持って佇むその姿は全く威厳に満ち溢れ、民に新たな王の誕生を悟らせた。それまで野次を飛ばしていた無頼漢も鳴りを潜め、キラメロの言葉を待ちわびている様子。ターバンの位置を整えると、第42代マハーラージャはゆっくり口を開いた。
キラメロ「俺は、理解している」
キラメロ「国の基盤が農民であることを、十二分に理解している」
キラメロ「親父や兄貴とは違って、贅沢もしない」
キラメロ「民よ、俺についてこい。年貢も減らしてやる。願いがあればいくらでも聞いてやる」
キラメロ「だから、黙ってこのキラメロについてこい」
彼の演説はそれほど大したものでなかった。税を取らないだの、徴兵制度を廃止するだの、実現不可能な理想論を並べ立てているだけだからだ。それでも民衆は神威に打たれたかの如く動きを止め、じいっと新しい大王を見つめている。
彼らはキラメロが持っている神器の価値を、赤ん坊の頃から言い聞かされて育ってきた。魔槍アデ・ランスをひとたび突けば千の命が失われ、生命の杖アート・ネイチャーをひとたび振れば万の命が芽生える。その2つを自由に動かせるマハーラージャは、民衆にとって神に等しい存在だったのだ。
武琉「発言内容が滅茶苦茶じゃな。王の座を守るため、必死に上辺だけ取り繕っておる」
展望台の奥に控えていた武琉は、失望のこもった目でキラメロを眺めた。殺した長男よりも幾分骨のありそうな男だったが、それはどうやら間違いだったらしい。広大な領土を得ることは、同時に国民の命を預かるという重大な責務が伴う。玉座ばかり狙っていた彼に、果たして『その先』が見えているのだろうか。
武琉「せいぜい世間の荒波に揉まれるとよかろう。舟が転覆せずにすむかは保証しないがな」
不敵に微笑むと、彼は腕組みをして立っているナンダ将軍に出立の旨を告げた。キラメロ殿下の即位式を見届けた以上、もうこの国に留まる必要はない。黒獅子のような大男は無言で頷くと、大王の傍にかしづいている小姓を呼び寄せた。白皙の美少年で、長い睫毛が陶磁器の如く滑らかな頬に影を落としている。焦げ茶色のくせっ毛を腰まで伸ばし、身体の線も男と思えないほど細い。
ナンダ「この者はリロス・デロルト。大王からの信頼厚き小姓です。これを案内につけさせましょう」
武琉「どこまで案内させるつもりかね?」
ナンダ「そうですな……北の国境辺りまでにしましょう。リロスは近道を知っています」
武琉「折角のご配慮だが、あえて断らせてもらう。わしは他に行かねばならぬ場所があるのでな」
ナンダ「あっお待ちを! リロス、武琉殿をお止めしろ。お前の能力があれば容易なはずだ」
リロスの周囲に旋風が巻き起こり、将軍の巨躯が風船のように浮き上がる。しかし、風に乗って飛翔した武琉を止めることは誰にもできなかった。放たれる闘気に気圧されたのもあるだろうが、一番の原因は武琉の身体がリロスよりも圧倒的に軽かったことにある。この小姓、自分の体重より重い物体は自在に動かせるが、軽い物体はてんでダメなのだ。ナンダ将軍は悔しそうに展望台の床を殴りつけた。
武琉「……キラメロめ、もう始末するための準備を施していたか」
武琉「わしが将来、この国を滅ぼすと踏んだからじゃろう」
ハーゲル王国の軍事力はレイギャン王の治世から、日に日に衰退の一途を辿っている。国土を広げて豊かさを手に入れた反面、兵の調練を疎かにしてしまったのだ。証拠として、Lunaticの情報を聞いた時、キラメロの瞳に一瞬ながら恐怖の色が宿っていた。当時はからかいの気持ちだけだったが、もう一度考えてみれば別の感情が首をもたげてくる。
武琉「大国の征服……やってみるのも悪くないかの」
その頃、ガルガはハーゲル家の末弟・クナラズへ向けて伝書を記していた。新しいマハーラージャが誕生した以上、その旨を親族に教えるのは臣下の務め。そうでなくとも、彼がクナラズに情報を提供する約束は2人の間で取り決めてある。表向きはキラメロの政治を補佐しながら、同時進行でクナラズのためにお膳立てを整えるのだ。手紙を書き終えたガルガは、バナナの葉で作った腰蓑を巻き付けた。レイギャン王が死んだ今、強制全裸など暴挙と言える政策はもはや適用されない。
ガルガ「クチュルク! 仕事だ、出てこい!」
部屋の隅に立てかけてあった剣が、冷水をかけられたかのように勢いよく飛び起きた。重層的な刃鳴りをけたたましく響かせながら、その剣は空中で一羽の鳥へと姿を変える。夕焼けの如く鮮やかな橙色の鳥は、衝撃波で部屋の家具を吹き飛ばすと、そのまま一周してガルガの腕に止まった。
彼をよく知らない者が見れば、室内を破壊する害鳥と思われるかもしれない。しかし、このハヤブサに似ている害鳥こそが数百年前に魔族長を討伐した聖剣クチュルクなのである。魔将軍は討たれた後また復活したが、従来に比べてまるで『半身を失った』かのように弱体化したのだという。テングリカガンが元の力を取り戻す前に、一刻も早くハーゲル王国を強大にせねばならぬ。
ガルガ「キラメロ陛下では国を立て直せない。証拠に肝心の就任演説がまるでなっていなかった」
ケトーメロ、キラメロ両者はあまりにも我が強すぎる。心に野望を燃やすのは、誰しも抱く支配欲ということでよろしい。だがそれも煽る程度を知らなければ、自身を焼き焦がす災禍となりかねない。クナラズは前者より間抜けな感じはあるものの、誠実で素直な性格だ。
だからこそ、佞臣に利用されてしまう可能性も拭えないが、そこは自分らが支えればいい。少なくとも魔将軍以上の奸雄を生み出すよりかは遥かに良い方策である。彼は英雄の鳥足に木の皮をくくりつけた。
ガルガ「この書簡をクナラズ殿下に届けてくれんか。多分トハラかその近くにいるだろうから」
眠たげに鳴いた彼は、それでも機敏な動きでガルガの腕を離れた。ベランダを通り抜けて青空に繰り出すと、雲を突き抜けて太陽めがけてぐんぐん飛翔していく。途中、禍々しい気を放つ黒龍とすれ違ったが、彼は気にすることなく空の海を泳いでいった。
普通の剣が人を相棒とするならば、聖剣クチュルクにとっての相棒は天空だ。気流に乗った時から、彼の双眸は水平線の向こう側を見据えている。もくもくと塔のように聳える入道雲を横目に、クリム山のちょうど真上を通過した。トハラにはあと数分もしない内に着くだろう。