表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハルシャ=ナーマ  作者: 菩薩
砂塵の章
24/32

第24話 トハラの闇

砂漠の玄関口として有名なトハラ。その中央に位置するマドラサの鐘が、ぼーんぼーんと振り子時計のように昼休みの刻を告げた。

白いターバンを頭に巻いた少年や黒地の布で肌を隠している少女の群れが、濁流となって教室から流れてゆく。自宅に帰る学生もいれば、食堂に立ち寄る学生もあり、彼らの行き先は多種多様である。トハラ学院は独立した一個の街みたいなもので、授業の年間単位数さえ守れば、あとは何をしようが個人の勝手なのだ。


アグサ「ふわ~あ、眠かった。ウチってホント、朝に弱いなぁ……」


アグサ・シュテルツェは現役の魔法剣士による講義が終わると、欠伸をして彼女のいる12号館からほど近い食堂に向かった。友人達は医者や聖騎士など目指す職業が異なるゆえ、一緒に食卓を囲む機会は滅多にない。幾何学的なアラベスクの描かれた半円アーチの門をくぐり、清涼感溢れる緑色の葡萄棚を抜けて、ようやくトレイの置かれている場所に辿り着く。

パンの焼ける香ばしい匂いや肉料理を扱うブースの熱気が、奥からここまで伝わってくる。中に入ると食器のぶつかる音に加えて、がやがやと喧噪もいっそう勢いを増した。天井に描かれた絵画は、数百年前に発生したエグバート王国と魔族との戦争を表したものだ。恐るべき魔将軍テングリカガンと、それを封印した聖剣のクチュルクが互いの陣営を背に睨み合っている。


アグサ「いつも思うけど、どうしてエグバート王国はあんなヤギに滅ぼされたんだろう。ウチだったら一瞬で骨の髄まで凍らせてやるのに」


トングで掴んだ白パンを丸皿に乗せ、次にスパイスの効いた緑色のカレーをかけてゆく。まるでパンがカレーの中央にどっしりと浮かぶ、塩で覆い尽くされた大陸のようだ。トハラは隣国の影響を多く受けているので、食堂でも香辛料を用いた料理が提供される。

会計を済ませると、アグサは窓際の4人テーブルにトレイを置いた。今思い返せば、1人用のカウンターに座った方が賢明だったかもしれない。考えるのも忌々しい『あの男』にまた出会ってしまったのだから。その男は以前のように豪奢な鎧ではなく、深緑色のチュニックを着ていた。


レムラス「アグサ……アグサだよね? その白と黒のまだら髪はアグサに決まってる」


アグサ「人の名前を気安く呼ぶな! ……まったく、昼休みくらい静かに食事させてよ」


レムラス「いいや、そうは参らんね。僕は君を探していたんだ。あのまま別れるのは実に勿体ない」


アグサ「お金はどうしたの? 1週間前に金がないからってウチの葡萄を盗もうとしたじゃん」


レムラス「アグサの知らないところでね、僕は資金稼ぎのためのギルドを組んでいたのさ。それで懐に余裕ができたってわけ」


茶髪の少年はトレイを向かい側に置き、頬杖をつきながらフォークでサラダをつつき始めた。


レムラス「それにしても、僕らの大将はいつになったら動くんだろうね」


アグサ「ええと……クナラズのことでしょ? ウチに聞かれても知らないよ」


レムラス「催促しているんだけど、ずーっと本の虫状態で。慎重なのは良いことだが、あれは流石に石橋を叩き過ぎってもんさ」


アグサ「だよね……」


ハーゲル王国の皇子と名乗る謎の巨漢に出会って、そろそろ1週間が経つ。彼はこれから訪ねる場所の研究と称して、地下の書庫にこもりっきりのままだ。怪しいハゲの話によれば、最終的な目的地は大陸西端のエグバート王国があった荒地で、そこにて反乱兵を集めるのだという。

単位を取るための試験に間に合ったので、密かに焦っていたアグサとしては嬉しいが、一方でいつになったら出発するのかと歯痒くも思う。あれだけ豪語したのだから、そろそろ発言に見合った行動を起こして欲しい。アグサは緑色のカレーに手で細かく千切ったパンを、水で濯ぐようにさっと浸した。トマトの皮を奥歯に詰まらせ悪戦苦闘するレムラスへ、今度は彼女が静かに問いかける。


アグサ「本当にあの怪しいハゲと、西へ行くつもりなの?」


これは彼女の率直な疑問である。アグサも忠誠こそ誓ったけれど、あれは半ば勢いに押されて成立したようなもの。長いこと動きが無ければ、やはり狂人の戯言であったかと片付けたくもなる。

加えて、エグバート王国の故地へ行くためには、灼熱の砂漠を越えねばならない。ああいう骨まで焼け焦げそうな砂の海は、本来なら暑さに耐性のある隊商や、魔族を狩りにゆくクレイジーなギルドが通る危険地帯だ。一般人である自分がいきなり飛び込んだら、数秒とかからずに倒れてしまうだろう。


アグサ「どうなの? ウチは夕方ごろ断りに行こうと思うけど。レムラスも、あんな赤パン野郎に無理して付いてく必要なんてないんだよ」


若き茶髪の剣士は黙然と座っていたが、急に席を立ってアグサのすぐ隣に腰かけた。親しい友人のように肩に手を回し、ぐっと自分の方へ引き寄せる。そして、これまでの様子とは異なった、冷え冷えとした声で耳に囁くのだ。


レムラス「なぁ……あと3日だけ待ってみよう? 何しろ彼は生まれ故郷に反旗を翻すんだ。並大抵の精神でやり遂げられることではない。家族に刃を向ける葛藤を、部下である僕らが汲まずに何が団結だい? 笑っちゃうよな……」


冷静に考えれば滅茶苦茶な理論なのだが、アグサはただ首を縦に振ることしかできなかった。


静寂の闇に、小さな炎がぽつんと浮かびあがる。人魂にも似たそれはゆらゆら揺れて飛び回り、奥まで立ち並ぶ本棚を照らし出した。カビくさい匂いが霧の如く辺りを漂い、紙面をめくる音も時折聞こえる。なにを隠そう、ここはトハラ学院の地下深く広がっている地下書庫なのだ。

普段利用しているのは魔導士を志す学生や、指導する立場の教授であるが、身分証を提示すれば一般人でも中に入ることができる。蔵書数はこの大陸に存在するどの図書館よりも、圧倒的に多いと言えるだろう。古代から近代まで、原本や復刻版も合わせて約500万冊以上の本が収められているのだから。昼食を済ませたレムラスは、嫌がるアグサを無理やり引き連れて地下に続く梯子を降りていった。もちろん、ハーゲル王国の皇子と名乗る男に会うためである。そして先ほど、窓口で渡された蝋燭に火を点けたところなのだった。


レムラス「壁が土だからなのかな、地上と違って意外とひんやりしているね」


アグサ「まるで天然の冷蔵庫ね……。寒いとまではいかないけど、油断したら鳥肌が立っちゃう感じ?」


レムラス「油断せずとも、僕の二の腕は鳥肌だらけだ。まるで新鮮な鶏の太ももみたいにね」


アグサ「だから何なのよ! 鳥肌談義はよろしいから早く歩いて! ああ、何だかアンタと話してたら寒くなってきた」


震えるアグサを置いて、レムラスは何気なく近くの本棚に寄った。会う前に面白そうな本を物色しておこうと思ったのだ。棚の左端から、所狭しと詰められている本の背表紙を指でなぞってゆく。

狂戦士族の歴史、遊牧民のおとぎ話、ハーゲル王国の法律など様々な本がある。レムラスは小さな頃から隙あれば読書をしていたので、大抵の本なら読まずとも題名だけで内容が手に取るように分かる。その時、読書家である彼の指が止まった。表紙は黄色く変色し、中のページも腐食がだいぶ進んでいる。近代ではなく、古代に書かれた貴重な文献であろうか。


レムラス「アグサ……こっちに来てくれよ。見た事もない本があるぜ、ほら」


アグサ「なにこれ、『タイガーのすべて』? タイガーって……誰だっけ?」


レムラス「僕達が願いの車車で魔族に襲われた時、助けてくれた虎男がいたろ? あの双剣を背負った変人だよ」


アグサ「でも、それがどうしたの?」


彼はアグサに蝋燭を渡し、紙面を照らすよう指示した。ミミズがのたくっているような、解読するのも難しい文字に目を落とす。著者不明、記された年や場所も詳細不明。トハラ学院の研究書庫には、こういった奇書がしばしば落ちている。普通に読書を嗜むのも良いが、奇書探索も乙な趣味。


レムラス「どれどれ……何が書いてあるのかな」


ほとんどが古代文字で埋め尽くされているので、内容は切れ切れにしか掴めない。ただはっきりしているのは、タイガーが古代の人間であるということ。耳元で不思議そうに囁く少女の声がする。


アグサ「ねぇ……これって何年前の書物なの? 表紙とかボロボロだし、すっごく古いのは確かだよね」


レムラス「多分、100年か200年くらいだろう。ひょっとしたら、もっと前かもしれない」


レムラスは虎男の存在が、急に恐ろしく思えてきた。もしここに書かれていることが真実なら、今いるタイガーは何者なのか。数百年も生きる種族といえば、エルフ辺りしか思い浮かばない。それに、獣人族は短命の種族であったはずである。

彼の中に生まれた疑惑の雲は、とどまる所を知らずどんどん膨らんでいった。その後も読み進めて、解読が可能な部分から情報を拾い上げる。アグサは蝋燭を持つ腕が疲れたらしく、うんざりした視線を彼に投げかけている。再び、レムラスの動きが止まった。


アグサ「また、何か見つけた?」


レムラス「ちょいとこれを見てくれ。一行だけでいいから」


彼は問題の場所をなぞりながら、アグサに分かるよう説明した。


レムラス「タイガーは偽名。彼は許されざる裏切り者、と書いてある」


本名が記されているであろう箇所は、墨で黒く塗り潰されていた。後世の人物がタイガーの素性を隠すため、意図的に行ったものと思われる。よく見ると、細かい血痕のような跡までこびりついていた。一体、この時代に何があったのであろうか。2人はトハラの闇を垣間見た気がした。


1人の巨漢が机にかじりついている。人によっては肌寒くも感じる地下書庫で、ダラダラと滝のごとく全身から汗を流して。文献の内容を黄ばんだ羊皮紙に書き写すその姿は、まるで暴れる猛獣を必死に組み伏せる格闘家のようだ。新しいページを開くたびに頭が動くせいか、額に浮かんだ玉みたいな丸い汗が宙に飛ぶ。息を大きく吐いて、ぼんやりとした暖かい光を放つ蝋燭にチラと視線をやる。芯の近くまで溶けたそれは、膨大な作業を進めていた彼を焦らせるのに十分であった。


クナラズ「もうこんなに溶けているのか……」


蝋が無くなれば、また新しいのを取り替えるため地上まで梯子を昇らねばならぬ。その間にもし誰かが、今自分の写しているモール族に関する文献を持ち去ってしまったら。いつ本が戻るかなど、借りた本人でないクナラズには知りようもないのだ。小便の近くなった子供さながら彼は歯を食いしばり、ますます筆写の速度を上げた。


クナラズ「モール族は光の当たらぬ地下を生活圏とする種族。鎌の如く内側に湾曲した爪で硬い地盤を割って泳ぐ」


クナラズ「彼らが魔族による襲撃を受けたのは、約十年前。それからずっと地上での生活を余儀なくされている……なるほど」


作業に徹する彼の背後に、暗闇よりも一層濃い影がゆらりと忍び寄る。墨汁の壺に筆を漬けたところで、闖入者はいきなり両手で目隠しをしてきた。予想外に力が強く、いくらもがいても離れるどころか、ますます締め付けてくる。


レムラス「はいはい、勉強はそこまで。暗い所で書物を読めば目が悪くなるだけですよ、我らが王子様」


アグサ「そうね。長時間の読書は目を疲れさせる。少しは休んだ方がいいんじゃない?」


クナラズ「ああ……お前らか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ