第18話 蒼き三日月を導く者
クリム山5合目、白いキャンバスを青のペンキで塗り潰した様な空に翳りが見えた。尾根の向こう側から暗雲が立ち込め、大海を飲み干してゆく。燦々と光を降り注いでいた太陽は顔を隠し、代わりにこれまで溜めていた分を一気に解き放つような大雨が地を打った。また天の機嫌取りをせねばならぬかと、武琉は鬱陶しそうに煙を吐く。ここ最近、午後になると急激に雨の降る天候が続いている。良い加減、そろそろ輝く星空の下でボトルワインでも空けたいものだ。だが、突然の大雨に苛立つのは武琉だけではなかった。
メリーシャ「ああもう! 雨で前は見えないし、寒いし、今わたくしが何処にいるのかも分からないし……最悪ですわ!」
サンバドル村北部の森で魔族化した禿頭毛亡を偶然見かけたメリーシャは当初の目的を変更、毛亡を追って約30kmという壮大な西走を繰り広げていた。どうやら竜は何かを目指して飛んでいるらしいのだが、未だ止まる気配がない。なりふり構わず瞬間移動を連発してきてしまったため、現在地も不明のままだ。更に険しい山道に突入したので、自慢のドレスは棘でボロボロ、薔薇の髪飾りもどこかに落としてしまった。
メリーシャ「でもあの竜、絶対にハイパーリーブを体内に有していますわ! 容姿端麗、一騎当千なわたくしの目に狂いはありませんの、オーホッホ!」
半ばやけくそである。だが、30kmも息を切らさず走る底力は天晴れと言うべきだろう。雨霧に紛れて、竜の影が巨大な岩場の頂点に翼を休めるのを令嬢戦士は見た。狂戦士の如くレイピアを振り回し、無理矢理道無き道を作り出し、群がる雑魚を斬り伏せ、遂にメリーシャは森林地帯を突破した。その先にあったものとは。
グラン「……お迎えにあがりました、メリーシャ様。会食の準備が整っております」
メリーシャ「会食ですって?」
両開きの重厚な鉄扉の前に佇んでいる一人のメイドが、深々とお辞儀した。稲妻が一閃、メイドの顔を照らし出す。蝋人形と見紛うほどの美しさであった。
グラン「こちらへどうぞ」
応接間に通されたメリーシャは自分が今、敵地にいることを悟った。この寡黙な少女が着るメイド服に描かれた蒼い三日月。屋敷の外で見た掲揚旗の紋章。関わってはいけないギルドとして教わっていたあのLunaticの本拠地に、愚かにも踏み込んでしまったのだ。三日月に負けず劣らずの青ざめた顔でグランからタオルを受け取ると、メリーシャは水滴と共に不安まで拭い去ろうと全身を強くこすった。長テーブルの上には黄金色の野菜スープや、鶏の蒸し焼きなど冷えた体を芯まで温める料理が並んでいる。
メリーシャ(これからどんな尋問が待ち受けているのかしら。まさか、厄介払いするためにわたくしを始末するのでは……)
彼女が座る肘掛椅子の背後に、ピタリと貼り付いているグランの存在も気になる。Lunaticの頭領に不敬な発言をすれば、その場で斬り捨てるつもりなのだろう。勿論、Harmoniaの頭領としてこちらも下手に出るつもりは毛頭ない。瞬間移動も使えることだし、いざとなればグランの背後に回り首を掻き斬ってやれば良いのだ。そう脳内で対処法を巡らせていると、目の前に燕尾服を着たピエロが現れた。やつれた服装の令嬢に一礼し、彼女の右斜め前に腰を下ろす。奇妙で滑稽な外見とは裏腹に、ピエロの瞳はどこまでも空虚で生気を失っている様にも見えた。ピエロとメリーシャは暫く食事もせず、それぞれあらぬ方向を眺めていた。
メリーシャ(ギルドマスターも含めて3人。応戦するにはちと困難ですわね)
武琉「そんなにわしの館が珍しいかね? Harmoniaの新生マスターよ」
メリーシャ「あなたは……」
右手で杖をつき、パイプを口に咥えた老人が茶髪の少女を従えて正面に立った。赤色のベレー帽には、ギルドマスターであることを示す『GM』の文字が武琉という名前の下に小さく刻み込まれている。それでも老人から発せられる威圧は大したもので、緊張で喉に閉塞感を感じたメリーシャは老人が現れると同時に席を立っていた。いや、立たざるを得なかったのだ。値踏みする様な目つきで、彼女を見つめる。メリーシャは口内に溢れ出る酸味の効いた唾を飲み込むと、覚悟を決めた様にキッと武琉を真っ向から睨み返した。ただならぬ雰囲気に、背後でグランが剣の柄に手をかける微かな金属音が聞こえたが、もう目を伏せることはできない。
メリーシャ(幾ら圧力を加えようとも、わたくしはLunaticの傘下には入りませんわ。よろしくって?)
メリーシャの瞳が語る内容を悟ったのかどうかは判断つかないが、武琉は満足げに頷くと、悠々と拍手をした。
武琉「なるほど、Harmoniaの後継者と称するに相応しい目をしている。そんなお方が雨でびしょ濡れとあっては、交渉をするに何かと不十分だ。グラン、この方に新品のドレスを与えなさい」
グラン「了解しました。メリーシャ様、衣装室へご案内致します」
グランは無機質な声と共に、メリーシャが入って来た扉と反対側の、奥に物々しく控えている扉を開けた。その先には無限に続く回廊が深淵の闇へと伸びていた。稲妻が光るたびに天井を支える太い柱の影が白い大理石の床に映る。おそらく、左手の壁画と右手の絶景の両方を楽しむ目的で設計されたのであろう。
イーフィ「私も付き添います」
武琉「いや、グランだけでいい。そう何人も付き添いがいると、かえって怪しまれてしまうからの。田中、もう外してもよいぞ」
老人の許可が下りると、それまで石像の様にじっとしていた男がピエロのお面を荒々しく毟り取った。男の鼻は鋭く尖り、両目は長いまつ毛で縁取られている。イラン系の顔つきをした美青年は、深呼吸をすると蒸し焼きの鶏に早速かぶりついた。
田中「いやぁ、お面の中が暑いのなんの。息苦しくて死にそうだったッスよ」
武琉「だが、ピエロの面があるからこそお前は暗黒の力を発揮できるのじゃろう? 我慢せい若者よ」
喉の奥を鳴らすように、武琉はくつくつと笑った。二人は無言のまま、衣装室に続く細長い廊下を歩いた。背後で重厚な扉が閉まると、足音を除いて完全なる静寂が二人を包み込んだ。柱の間にはめてある防音ガラスが、雷の轟音を遮断しているのだろう。タオルで拭いたとはいえ、水を吸ったドレスはそれなりに重く、肌にまとわりつく髪の毛も不快感を増す原因となっていた。ヒールの口を下向きにすると、溜まっていた泥混じりの水が大理石に打ちつけられる。
メリーシャ「まだ衣装室に着きませんの? ずぶ濡れのお客を歩かせるなんて、おもてなしが成っておりませんことよ」
グランは返事もせずに淡々と進んでゆく。彼女の後ろ姿を眺めながら、メリーシャはこの寡黙な少女がギルド内においてどれ程の立ち位置にあるのか気になっていた。それから、Lunaticが外にいる黒色の竜を飼育しているかどうかも。
メリーシャ「グラン様、ひとつよろしい?」
グラン「はい」
メリーシャ「グランさまはその……メイドの格好をしているけれど、きっと本職は戦士なのでしょう? わたくし、目を見ればその人が戦士か否か見抜けますの」
グラン「ご明察の通り私は戦士です。マスターから副リーダーを任せられています」
感情を失った機械的な声と四つの足音が、代わる代わる廊下全域に反響して消えていく。てっきり武琉が登場した時に、隣に控えていた茶髪の少女が副リーダーであるかと踏んでいたメリーシャは意表を突かれ、少し狼狽えた。気持ちを落ち着けようと、窓の外を見る。
メリーシャ「……あら?」
近くの山肌に何かが立っているのを発見したメリーシャは、歩きつつも目を細めて正体を確認しようとした。クリム山の崖は急峻なことで有名だ。ほぼ直角の山肌に立っていられる訳がない。たとえ足が四本あったとしても。直後、稲妻がメリーシャの視界を奪う。再びまぶたを開いた時には、影は跡形もなく消えてしまっていた。
メリーシャ「……何だったのかしら? 不気味ですわね、早く着替えてしまいましょう」
廊下の突き当たりにある漆塗りのドアの前で、グランは立ち止まった。ドアノブを引き、メリーシャを中へ促す。
グラン「こちらが衣装室となります。お好きなドレスを一着、どうぞ」
メリーシャ「服を選ばせて頂けるなんて、随分と良心的ですのね。では失礼致しますわ」
衣装室に入り最初に目に飛び込んで来たのは、両脇に並ぶ衣装棚の壁であった。おびただしい数のドレスが所狭しと押し込まれ、こちらも息苦しくなってくる。よくここまで大量の服を集めたものだ。これがサンバドル村No.1ギルドの底知れぬ財力か。どれを選んでも自由という条件が、かえってメリーシャを困惑させた。奥まで進むと、これまた自分の身長の2倍近くありそうなタンスが居を構えている。驚いたことに、タンスは隣室と衣装室を隔てる壁の役割までしていた。適当に引き出しを選び中身を確認してみる。
ドレスや下着、靴下など婦人服の一式が、隙間なく詰め込んである。最早備えではなく、趣味の領域ではないか。メリーシャは呆れながら、薔薇色のドレスを引っ張り出した。袖やスカートに飽き足らず、下着やストッキングにまでフリルがついている。薔薇の花弁をイメージしているのだろうが、フリルのせいで所々デコボコしていて、メリーシャの好むスレンダーな印象は損なわれてしまっていた。
メリーシャ「あぁ不愉快、邪竜を追っかけたおかげでとんだ災難に遭いましたわ!」
メリーシャが愚痴りながら着替えている間、グランはドアの前で館への侵入者がいないか目を光らせていた。マスターの大事な交渉相手だ。彼女を危険に晒し交渉決裂とあっては、マスターである武琉に見捨てられてしまう。自分は孤児で当てもなく彷徨っていた所を主人の厚意で拾ってもらい、副リーダーという名誉な職も賜り、今日まで生き永らえて来た。その大恩を返せぬまま関係が切れてしまうなんて、死ぬよりも数段辛い。彼女の想いは、尊敬や好意を超えて崇拝の域に達していた。
メリーシャ「終わりましたわよ」
頬を膨らませてメリーシャが出てきた。理想の服が見つからなかったらしい。グランは会釈をすると、真紅の花びらを全身につけた金髪の薔薇と並んで、武琉の待つ応接間へと戻り始めた。稲妻が屋敷の庭に落ちた。2人は気づかない。山肌に立っていたはずの影が、いつの間に防音ガラスのすぐ向かい側まで迫り、石像の如く静止したまま2人を凝視していたことに。