第10話 魂の残り香
黒馬が地響きの如き咆哮を放ち、覇気を纏いながら突進してきた。馬蹄の轟きに冷えた空気が震撼する。クラリスは下級魔法である火の玉を乱射したが、馬を包む覇気と相殺してしまった。ハゲスルメマンの放つ暗褐色のエネルギー弾もほとんど効果がないようだ。遠距離攻撃自体、闇騎士の前では意味を成していないのだろうか。形の良い禿げ頭に、脂汗が光る。
ハゲスルメマン「いかん、このままでは2人とも馬に轢かれてしまうぞ! だが奴め、速すぎる!」
クラリス「おっさん、あたしにエネルギー弾を放って。反動を使い回避するんだ!」
ハゲスルメマン「応!」
互いの魔法が衝突し、爆風が2人を吹き飛ばす。一拍置いて蒸気機関車の様な剛健な体を持つ馬が、眼を血走らせて走り去る。禿頭毛亡の凶刃も宿敵の首を掻くことはなかった。軽く舌打ちをした闇騎士の前に、全身を紫のローブに包んだ魔導士が現れた。こけた頬が印象的な、30代前半あたりの男だ。
闇魔導士「禿頭毛亡様! 武琉様の命でこの者らを襲っているのですか!?」
禿頭毛亡「いや、私の独断だがそれがどうした。遅かれ早かれスルメ倶楽部は潰すのだろう」
闇魔導士「いけません! 勝手な行動はたとえ禿頭毛亡様であろうとも命の保証はありませぬぞ」
禿頭毛亡「なんだ貴様、使用人の分際で私を脅迫するつもりか! 身を弁えよ!」
闇騎士が魔導士と口論を繰り広げている最中、クラリスは掌に魔力を集中させていた。馬が覇気を消した瞬間、その隙を狙い上級魔法を撃ち込むつもりだったのだ。クラリスの炎を察知した魔導士が、鶏鳴に似た甲高い奇声を発した。小さく跳躍し、地面に両手を叩きつける。
5本の指から無数の赤い線が、百足の様にうねり猛スピードで伸びてゆく。触れた瞬間に硬質化し、対象を貫くといった類のものだろう。小手先の技に若干苛立ちを覚えつつも、クラリスは上級火炎魔法を発射した。火の玉とは大きさも威力も桁違いで、火炎放射と称しても相違ない。
赤い線は応ずるかの如くまとまり、拳と炎の鍔迫り合いが始まった。
魔導士もクラリスも掌に全身の魔力を一点集中しているので、動く余裕はほぼゼロだ。
闇魔導士「ここは私が防ぎます故、禿頭様は早急にお逃げくだされ!」
禿頭毛亡「退却など笑止千万! 小娘を仕留める絶好の機会、逃すわけにはいかぬ」
焼け野原の頭に華を添えていた縮毛が、遂に残らず抜け落ちた。殺意の色に輝く剣を水平に伸ばし、竜の皮で作られた手綱を打つ。覇気に守られた魔黒号が、再び余分な脂肪の無いたくましい四肢を躍動させる。今度こそ漆黒の刃が魔女の首にかかろうとした刹那、禿頭の視界に別のハゲが飛び出してきた。
禿頭毛亡「なッ……ハゲスルメマン!?」
ハゲスルメマン「チェックメイトだ、小僧」
ハゲスルメマンの左ストレートが禿頭毛亡の顔面を打ち抜き、鞍上から転げ落とした。覇気は魔法だけを弾くスキルであり、物理攻撃には滅法弱いのだ。
闇魔導士「あがあッ……身体が燃えるッ……うぅぅ……」
クラリス「やっと燃え尽きたか。手間かけさせやがって。あー疲れた」
クラリスの方でも決着がついた様だった。落馬の衝撃で腰の骨が砕けたらしく、動くことのできない禿頭毛亡にハゲスルメマンは意外にも、手を差し伸べた。穏やかさを湛えた瞳で語りかける。
ハゲスルメマン「吾輩達の敵は誰か。魔族だろう? 昔の私怨を引きずり、人間同士で潰し合って何となる。さぁ、茶番は終いだ」
クラリス「おいスルメハゲ! こいつはあんたを殺そうとしたんだよ? 今、きちんとけじめをつけないと後々困るよ」
ハゲスルメマン「暴力は新しい暴力しか生まない。鋭利なイカの骨を柔らかい身が包む様に、この男には安らぎが必要なのだ」
クラリス「なんでもイカ関係で喩えんな。てかイカの骨って鋭利なのかよ」
会話を無言で聞いていた禿頭が、血塗れの口元を引き攣らせながら薄ら笑いを浮かべた。
イカの骨に喩えられた滑稽さか、敵の愚かさを嘲笑ってのことか。
どちらにせよ、彼の心に負の感情が渦巻いているのがはっきりと見て取れる。
禿頭毛亡「馬鹿が! 慈悲をかけたつもりか? 私が貴様の提案に乗るとでも思ったのか? 呵々、笑止!」
禿頭毛亡「私と貴様の間には、殺るか殺られるかの選択肢しかないんだよ……」
光の無い瞳で呟くと、禿頭毛亡は自分の舌を噛み切った。舌筋が喉に詰まったのか、窒息の苦しみに顔を歪めしばらく痙攣する。そして、ついに彼の動きは永遠に凍結した。眉間に刻まれた深い皺に、仇を討てなかった無念さが現れていた。勝者達は敗者のために亡骸を埋めた塚をこしらえると、彼が生前装備していた漆黒の剣を墓標として突き立てた。
ハゲスルメマン「復讐に生きた男・禿頭毛亡よ……安らかに眠れ。吾輩は君のことを終生忘れないだろう」
クラリス「とか殊勝に言って、明日になったら綺麗サッパリ忘れてるのがこいつなんだけどね」
ハゲスルメマン「おい、クラリスくん。あれは……」
黒とも紫ともつかぬ色をした竜が、巨大な翼を広げ雲間へ飛び去っていくのを彼らは確かに見た。漂う魂の残り香に不気味さを感じた2人は、先ほどの光景について語りもせずディグノー捜索に戻った。