アパートの前で
「こう言っちゃなんだけど、ほんと負担なのよね。お義母さんにしても、あんな状態で長生きしたって仕方ないじゃない?」
「んなこと言ったって、生きてるうちはこっちでどうにかするしかないだろうが。他に誰も面倒見れるやつがいないんだから」
「だから、絵里さんのところにお願いして――」
「それは無理だって何度も――金は向こうが出してくれるって言うんだから――」
「お金の問題じゃ――病院に行くほうの身にもなって――」
屋根を叩く雨音に混じって、今日もドア越しに両親の声が漏れ聞こえてくる。
僕はそれを遮断するため、ミュージックプレイヤーのイヤホンを耳にはめた。歌詞の意味も分からない洋楽を流しながら、雑誌のページをめくる。だけど、なかなか集中することができない。
あきらめて雑誌を閉じ、ぼんやりと室内を眺める。
すっかりぬくもりの消え失せた部屋。だけど祖母のにおいが残るこの場所に、僕は何度も足を運んでしまう。
どれくらい、そうやって無為な時間を過ごしただろう。
気がつけば、すこし雨足が弱まってきたようだった。これ以上待っても仕方がないと、僕は二階の自室に向かった。ショルダーバッグを肩にかけると、スニーカーを履き、雨の降りしきる外へ出た。
電車とバスで病院に向かう。
見舞いを終えて再び自宅の最寄り駅に着く頃には、もう夕暮れどきだった。雨はやんでいたけれど、空にはまだ灰色の雲が垂れ込めていた。
ホームの階段を降りたタイミングで、遠い話し声が耳に届いた。僕は反射的に足を止める。
振り向くと、さっき僕がいたのと反対のホームに夏海の姿があった。僕と入れ替わりに階段をのぼったのだろう、電話で誰かと話をしている。
胸がざわつく。こんな時間から、電車に乗ってどこに行くんだろう。
夏海の他に、ホームにいるのはふたりだけだ。僕はゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。胸の鼓動が速まるのを感じた。
すこし先にある踏切を渡れば、夏海に気づかれることなく向こう側のホームに行ける。
僕はとっさに駆け出した。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、ぎりぎりと締めつけられるように痛んだ。
渡り終えると同時に、踏切の警報音が鳴り響く。僕は財布を出すのももどかしく、震える指でボタンを押し、券売機で一番高い切符を買う。
ホームにすべり込んできた電車に乗り込む。ひたいににじんだ汗をぬぐいながら、空いている座席に座り、隣の車両にいる夏海の様子をうかがう。
他線の乗り入れがあり、一番乗降客の多い終点の駅で、夏海は電車を降りた。
乗り換えはしないらしく、駅の構内を出ると薄暗い道を歩いていく。大通りはそれなりに人通りがあったから、それほど気を遣わなくてもよかったけれど、脇道に入ってからが怖かった。足音に夏海が振り返っても大丈夫なよう、充分に距離を置いてあとをつけていく。
夏海は古びたアパートの前で立ち止まると、カンカンと固い音を響かせて階段を上っていく。そして、二階にある一室のドアを開け、中に入っていった。チャイムを押した様子はなかった。
僕はどうすることもできず、アパートの前に立ち尽くす。カーテンの向こうに誰がいるのか、もちろんここからは見えない。衝動的に行動を起こしたものの、その後のことをなにも考えていなかった。ただの興味本位か? これじゃ、ただのストーカーだ。自分の浅はかさに嫌気がさす。
かと言って家に戻る気にもなれず、アパートの近くのコンビニに入った。陳列された商品を眺め、雑誌コーナーの週刊誌に手を伸ばす。だけど、内容なんて全然頭に入ってこなくて、店のガラスの向こうばかりが気になる。
夏海に会えたら、今度こそ声をかけよう。なんでもいいから話をしよう。だけど、今晩のうちに部屋を出てきてくれるのだろうか……
夏海の姿を見つけてからずっと、秋元の兄の顔が頭に浮かんでいた。夏海はたぶん、あの男と一緒にいる。根拠はないけれど予感があった。
そのとき、自動ドアが開いて、数人の男が笑い声を上げながら店に入ってきた。僕はそっと声のほうを見る。
そして、心臓が跳ね上がるのを感じた。
秋元だった。
予感が確信に変わる。僕は雑誌を棚に戻して、足早にコンビニの入り口へと向かう。
「おい、高野!」
その背中に声がかかった。
無視して自動ドアを通り、表に出たところで腕をつかまれた。振り返ると、秋元は意味深に笑っていた。
「おまえ、なんでここにいるんだよ。家、この辺じゃないだろ?」
振りほどこうとした手を強くつかまれる。秋元の連れが集まってきて、僕を取り囲む。
「誰?」
「同じ学校のやつ。で、西條の彼氏。だよなぁ?」
嘲るような声音に、腹の底から不快感が湧き上がってくる。僕は秋元をにらみつけた。
「マジで? 大輝さんが知ったら殺されるんじゃねえの? こいつ」
「へえ、こういうのがタイプなんだ、あの女」
男たちが口々に話す声がうねって、頭の中で反響する。
秋元がなにか思いついた様子で、誰かに電話をかけ始めた。うん、そうそう、知ってるだろ。西條のさぁ……分かった。コンビニの前だから、いつでも行ける。片一方の声だけじゃ、どんな会話がなされているのかはっきりとは分からない。
電話を切った秋元が、僕の手を強引に引いた。他の連中は面白がって、僕たちを取り囲むようについてくる。
アパートの横の、遊具もろくにないような小さな公園に入り、さびたベンチに座る。
時間が来るまでここで待っていようという肚のようだ。
「あのバカ兄貴、なんであんな女がいいんだろうなぁ。意味分かんねえ」
「ぜってー顔だ。あいつ、すげえ美人じゃん」
「顔もそうだけど、性格もだろ。大輝さん、気の強い女好きそうだし」
「そういや隼人、あの女シメるとか言ってなかったっけ?」
友人に話を振られ、秋元は憎々しげに吐き捨てる。
「いやなこと思い出させんなよ。あー、腹立つわー。あのビッチ、最近やたら荒れてんだよ。兄貴ともしょっちゅう喧嘩してるし」
「へえ、なんで?」
「知るか」
「生理だ、生理」
「やめろよ、キモいから。ってか、もう一ヶ月か二ヶ月か、ずっとだし。おまえ、なんか知ってんじゃねぇの?」
秋元にそう訊かれたけれど、答えようがなかった。僕はそれくらいの間、夏海と話をしていない。
秋元になにか意図があるのは察せたけれど、この場から逃げる気力は湧いてこなかった。もし逃げたら、こいつらになにをされるか分からないという恐怖もあったし、おとなしくついていけば夏海に会えるという期待もあった。
こんなに夏海のことばかり考えているくせに、家を訪れる勇気もない、こんなやつに連れていかれなければ行動を起こせない自分が滑稽だった。
携帯で時間を確認し、秋元がベンチから腰を上げた。他の連中もそれにならって立ち上がる。
「おまえに、いいもの見せてやるよ」
僕の腕をつかんで、秋元は唇を歪めるように笑った。
そして僕は、さっきまで見上げていたアパートに足を踏み入れた。