昔の写真
夏休みは結局、どこにも行かずに過ごした。
昼間は家で宿題を片づけたりパソコンをいじったりして、夕暮れどきになると、いつもの河川敷で夏海と会った。
「この時間になっても微妙に暑いよね。もう夏休み、終わるのに」
僕の隣でひざを抱えた夏海が、気だるげにつぶやく。白い頬が夕日を照り返して、朱色に染まっている。
「冷たいジュースでも買いに行こっか。あと、なんか食べるものも買おう」
「それはいいけど……夏海、いつも夕飯、菓子パンで済ませてないか? さすがに体に悪いからやめたほうが」
「まーた陸が細かいこと言い始めた。いいから、行こ」
くすくす笑いながら夏海が立ち上がった瞬間、土手の上から聞き覚えのある声がかかった。
「高野じゃん。こんなとこでなにやってんの? デート? おまえ、女とは話せんのかよ」
にやにやして僕を見下ろしているのは、同じクラスの秋元だった。そのうしろに、バイクに乗った体格のいい男がいる。
「黙ってんじゃねぇよ、おい。なんか答えろよ」
秋元の嘲笑を含んだ声が響く。
僕は汗ばむ手をにぎって、秋元をにらみつけた。乾いたのどはひりひりと痛くて、どんな言葉も出てこない。ただ絶望感に絡め取られて、呼吸がおぼつかなくなる。
「デートだけど? 悪い?」
その声に驚いて振り向くと、夏海は挑発的に笑っていた。秋元は不愉快そうに眉をひそめ、秋元のうしろにいる男は、ヘルメットの向こうからじっと夏海を見ているようだった。
「あんたはどうせ、女に相手されないんでしょ? セーカク悪そうだもんね」
「は? 女なんか初めから興味ねぇよ。バカのくせにキーキーうるせえやつばっかだし。偉そうに、男と対等に口利こうとすんな。うぜえ」
「え? 私、あんたと対等なつもりなんかないんだけど。勝手に決めつけるのやめてくれる? ってか女はみんな、あんたみたいなバカ、見下してるに決まってんじゃん」
夏海の言葉を聞き、秋元が顔をゆがめる。そして土手を駆け下りようとしてきたところで、うしろにいた男に腕をつかまれた。
呆然とその様子を見ていたら、夏海が僕の手をつかんだ。
「早く行こ、陸。私、のど乾いた」
ぐいぐいと夏海に引っ張られるままに、斜面をのぼる。
土手の上に来たところで、夏海は男のほうを振り向いた。
「大輝。弟のしつけぐらい、ちゃんとしてくれる?」
大輝と呼ばれた男は、なにも答えなかった。
秋元がなにかわめいているのも無視して、夏海は僕の手を引いたまま、道を歩きつづけた。
「声、出る?」
そう訊いて、夏海が自販機で買った炭酸飲料のプルタブを引く。しゅわしゅわと涼しげな音が響く。
「ああ……うん。大丈夫」
ペットボトルのキャップを開けて、お茶を一気に半分飲む。そうやってのどを潤すと、声の通りがよくなる気がした。
「ごめん」
夏海は缶を口から離し、肩をすくめるように笑った。
「ぜーんぜん、気にしてないよ」
ひとと向き合うと、緊張して声が出なくなってしまう僕を、夏海が責めたことは一度もない。
「だって、他のやつと話せなかったら、ずっと私といてくれるでしょ?」
そんな夏海の言葉がうれしかった。だけど、なぜかもどかしくもあった。
その理由は、あとで考えてみて分かった。
たとえ『他のやつ』と話せたとしても、僕は夏海のそばにいたい。そう伝えたかったんだ。
*
ドアを数回ノックして、そっと開ける。
いまはもう出番を失った服やバッグ、古雑誌や古新聞で雑然とした部屋の中。祖母はいつものように布団に横たわり、視線だけ動かして僕を見た。
「ばあちゃん」
僕は祖母のそばに腰を落とし、やせ細った手をそっとにぎる。しわの刻まれた手はかさかさだけど、確かな体温が伝わってくる。
「ばあちゃん、わかる?」
答えを見出そうとするように、祖母は僕の顔をじっと見つめた。長い沈黙が落ちる。記憶の糸をたぐりよせる時間。ぎりぎりでつながっているその糸が切れたとき、祖母の中で僕の存在は消えてしまう。それが、僕はすごく怖い。
だから、自分の存在を刻み込むために、子どもみたいに何度も呼びかけてしまう。いつかその瞬間が来てしまうことを予感していても。
「陸ちゃん」
やさしく目を細めた祖母が、僕の手をぎこちなくにぎり返す。
「正解」
そっとつぶやくと、安堵で頬がゆるんだ。
「今日は、あの子と一緒じゃないのね」
「うん」
あの子というのは、夏海のことだ。
「ああ、でもね。昨日来てくれたのよ」
「夏海が?」
「そう。夏海ちゃんが。あの子、おはじきが好きでしょう? 昨日も一緒に遊んでたの」
また記憶が混乱しているのだろうか。
夏海がおはじきなんて古風な遊びをしていたのは、保育園に通っていた頃のことだ。いまはもう、そんなもので遊ぶことはない。
「へえ。なにか話もしたの?」
「将来の夢のこと。保育園の先生に聞かれたんでしょ?」
「ああ。紙に書いて、うしろの壁に貼るって言ってた」
「夏海ちゃん、看護師さんか電車を運転するひとになりたいって。あと、船乗りもやってみたいって言ってたわ。ちょっとめずらしいわよねぇ」
「夏海のじいちゃんが昔、船乗りだったらしいね。それで、いろいろ仕事の話を聞いたのかも」
今日の祖母は気分がいいのか、ずいぶん饒舌だ。
幼い夏海のことばかり語る祖母は、高校生になってからの彼女を、ちゃんと覚えているのだろうか。
そんなことを考えていたら、夏海とふたり、祖母の見舞いに行ったときのことを思い出した。
いまから一年近く前、僕たちが高校一年のとき。
祖母がスーパーでの買い物中に倒れ、病院に運ばれた。
ちょうどそのすこし前から、祖母はよく記憶が抜け落ちたり、過去と現在がねじれたりするようになっていた。しばしば祖母の家を訪れていた僕は、その様子に不安を感じていた。このままひとり暮らしをつづけるのは危険なんじゃないか――入院が決まったのは、そんな心配をし始めた矢先のことだった。
「今日はね、ひとを連れてきたんだ。ばあちゃんがよく知ってる子」
ゆっくりうしろを振り向くと、夏海がカーテンの陰からこちらの様子をうかがっていた。自分から見舞いに来たいと言ってくれたものの、久々に会う祖母を前に、すこし緊張した面持ちだった。行っていい? と目で問いかけてくるのに、小さくうなずく。
夏海がはにかむように笑って、僕の隣に立つ。
「あらぁ」
祖母が目を丸くし、そして破顔した。
「夏海ちゃん、久しぶりねぇ。大きくなって」
驚いた。祖母がすぐに夏海を認識できるとは思わなかった。
夏海の容姿は、祖母が最後に会った小学生時代とは大きく違っているはずだ。マスカラやアイラインで濃く縁取られた目元。派手で露出の大きい服装。胸元まで伸びた髪はハイトーンカラーに染められ、ゆるく内側に巻かれている。
「おばあちゃん、わかるの? うそお、私、見た目ぜんぜん変わっちゃったでしょ?」
うれしさと驚きをにじませて、夏海がはしゃいだ声を上げる。
僕は苦笑して彼女の名前を呼んだ。静かにな、と釘を刺す。夏海はあわてたように口を閉ざして、くすぐったそうに頬をゆるめた。
「わかるわよ。女の子はほんとに、変わるわねぇ。もう大学生?」
「違うちがう。高校一年。陸とおんなじ」
「あらそう。ごめんなさいね、最近物忘れが激しくって。それにしても、ほんとにきれいになったわね、夏海ちゃん」
大抵のおとなが眉をひそめるだろう夏海の姿。それを祖母がなんの抵抗もなく受け入れてくれたことが、とてもうれしかった。
高校に入学してからの夏海の変貌ぶりに、一番驚かされたのは僕だと思う。
もともと整った顔立ちの夏海は、そんなふうに自分を飾ると、まるで人形のようだった。「人形みたい」というと一般的には褒め言葉なのかもしれないけど、僕にはなんだか無機質に、作り物めいて見えた。
――私、もうあの女には似てないでしょ?
初めてその姿で僕の前に立った日。
夏海は冷ややかに笑ってそう言った。
あの女というのが夏海の母を指していることは、すぐに分かった。夏海は母親似だった。そして、自分に瓜二つな美しい母のことを、毛嫌いしていた。
僕は夏海の母の流れるような黒髪と、透き通るような白い肌、そしてきれいな中にもあどけなさを感じさせる面立ちを思い返していた。確かに、もう親子には見えなかった。
そう言えば、夏海は中学生のときにも一度、僕を驚かせたことがある。
長かった黒髪を突然ばっさりと切ったのだ。それも、明らかに自分で散髪したのだと分かるような、めちゃくちゃな切り方だった。
そのとき、唖然としている僕の前で、夏海は自嘲気味に笑って言った。
「鏡見てたらすごく腹立ってきて、やっちゃった」と。
「見て、これ。懐かしくない?」
夏海はバッグから封筒を取り出し、中身の一部を僕に差し出した。
それは僕たちが幼い頃の写真だった。手をつないで笑っていたり、へんな決めポーズをとっていたり、転がるボールを追いかけていたり――
「こんなの、残ってたんだ」
一眼レフをかまえた夏海の父の姿が、頭に浮かんだ。あのひとはよく僕たちのことを写真におさめていた。
「いまは誰も使ってない部屋なんだけど、そこの押し入れにアルバムが突っ込んであるの、見つけたから。奥のほうにもまだいっぱいありそうでさぁ。親父、すごい枚数撮ってたんだなーって」
このとき僕は久々に、夏海が父親のことを話すのを聞いた。いつからか夏海は、彼の話題を口に出さなくなっていたから。
ベッドに横になっている祖母に、夏海は順番に写真を見せてくれた。
「これは、花見に行ったときのかな。あ、これなんか、おばあちゃんも一緒に写ってるよ」
わざわざ探してくれたんだろうな、と楽しげなふたりを前に思う。祖母が最近よく昔の話をするのだと、夏海には前に話していた。
僕は一枚の写真を見つめた。
写真の中で僕の手を引く祖母は、背筋がしゃんと伸びていて、雰囲気もまだまだ若い。
いまの祖母との違いをまざまざと見せつけられて、かすかに胸が痛むのを感じた。