戦う
はじめに、完全に静止していた空気がぴくりと動いた。次にゆっくりと空間が揺らぎ始め――そしてアガタの掲げた手を中心として、猛烈な裂け目が生じた。目にはっきりと見えるわけでもなく音がしたわけでもない。しかし肌をびりびりと打つその気配は、間違いなく現実のものだった。
「時を束ね刃と成せ、空隙を重ね鍵と成せ……」
アガタの呪文が聞こえる。
「断裁の元帥よ開闢の宰相よ、その名において峻別せよ、その名において開門せよ……」
そして彼は手をそっとメグナの胸の上にかざし――同時に呪文が完結した。
「――王は遠き断崖を穿ち賜えり」
はっきりとは感じ取れないながらも暴風のような気配を放っていた何かが、その瞬間、ぴたりと止まった。そして省吾は見た。アガタの手がかざされたあたりを中心に、メグナの身体に円状の陽炎のような虚が生じているのを。そこから何かがうかがえる。
「これは……」
「空間を少しいじった。今ならメグナの体内に目と手が届く」
「め、メグナに負担は……」
「ない。僕を信じてくれ」
省吾は彼の顔を不安な思いで見上げた。もちろん彼を信用していないわけではない。彼の腕に不信はない。だが。
「どれぐらい、もつんですか?」
「さてね」
その声は少しかすれていた。アガタは顔をしかめ、その額にはうっすらと汗がにじんできている。少しずつ顔色も悪くなってきているように思った。
「まあ、そんなに長くは、自信ないかな。だから急ごう」
「……はい」
神妙にうなずいた。
アガタはまず手をかざしたまま敵の位置を探ったようだ。彼が言うには魔力はひとりひとり微妙な違いがあるらしい。メグナにはメグナの、アガタにはアガタの、クリューブスにはクリューブスの。
「奴の力は呆れるほどに強大だ。こういう場合には助かる。奴の数少ない弱点だな」
汗を頬に伝わせながら彼は作業を進めていった。時に呪文を唱え、時に手をかざす位置を変え、細められた目がメグナの身体に開いた時空孔を見つめ続ける。
省吾も手の中に嫌な汗を握りしめながらその様子に食い入っていた。いつ合図があるかもわからないので片時も油断はできない。
とても長い時間が経ったように思った。じりじりと焦りだけが積もっていった。もう手遅れだったのではないか、そんなことを疑ったちょうどその時、ようやくアガタが声を上げた。
「……見つけた」
ちょうど時空孔はメグナの頭部で揺らめいていた。
「脳の一部に取りついている。一個体だけだ」
「……一体だけ?」
妙に思った。あれだけの群体だったものが殺到してきたのにいたのは一体だけというのは。
しかし怪しむだけの時間はなかった。
「いいかい、合図をしたら僕は時空孔を広げる。敵を見つけて始末するんだ。できるね?」
「やってみます」
アガタの顔はすでに蒼白だった。掲げる手もかすかにふるえている。それを見て、省吾は不意に閃くものを感じた。
(まさか……)
「今だ!」
アガタの声が響いた。時空孔が大きく広がった。
閃いたことをアガタに伝える必要はあったものの、この瞬間を無駄にするわけにもいかない。省吾は急いで揺らめきの中を覗き込んだ。
そこには――
「……?」
そこには、何もなかった。
「くそ、逃げられた……」
アガタがそう言ってふらついた。倒れはしないが、倒れてもおかしくない気配だった。苦悶にうめいて彼は時空孔をにらんだ。
「どこだ……?」
「アガタさん無茶しちゃ……」
「いない……どこにも。メグナの体内にはいない……!」
その時省吾の頭にあったのは先ほど頭に生じた閃きだった。
メグナの体内の傀儡の情報を教えることで、クリューブスはこちらの行動を誘導することができる。そして、そのことでおそらく彼は何か得をする。どんな得か。それはきっと、こちらが取る行動の内容に関係している。
メグナを助けるために特務班が取り得る行動。それはつまり、アガタの時空魔法と省吾の対傀儡能力を使ってメグナの体内の傀儡を除去する行為だ。ではその時に生じるリスクは何か。それはアガタの衰弱だ。最後に、クリューブスの最終目的は何か。ウィローヌ市の宝玉を手に入れること。そしてそれを達成するために効果的なのは――
「アガタさん!」
特務班の無力化、すなわちアガタ班長の排除だった。
見上げた天井に、うごめく黒い影があった。気づくのと同時、傀儡はアガタを狙ってなだれ落ちてきた。
『考え続けること。場合によっては考えないこと』
その時省吾の耳に聞こえていたのは数日前のカッサムの言葉だ。戦うための方法、心構え。彼の言ったことの意味が、今ならわかる。考えつつ、しかし考えていては間に合わないものに対処する。これはそういうことだった。
叫び声を上げながら身を乗り出し、省吾はアガタを突き飛ばした。尻餅をつく彼に構わず体をひねって天井へと手を向ける。視界いっぱいに殺到する濁流。その勢いに圧倒され、それでも目は逸らさない腕は下ろさない!
傀儡は手を避けようとしたようだったが、省吾が腕を一振りして触れると、全て消えてなくなった。
「…………」
しばらく警戒の間を置いて。
「ふはぁ……っ」
省吾は大きくため息をついた。
なんとか、なったらしい。自分でも信じられないけれど、乗り切った。多分、誇っていい。
アガタを見やると、彼は隣のベッドを背にして床に座り込んだ状態で、疲労からか動くことすらできないようだった。
でも、これでこの件は落着だ。メグナは……そうだ、メグナは?
「……ショウゴ?」
はっとして省吾はメグナの顔を覗き込んだ。
「メグナ?」
彼女はぼんやりとした目で、こちらを見返していた。
「大丈夫? 気分はどう?」
「悪くは……ない、と思う」
メグナは弱く微笑んだ。その目が涙に潤んだ。
「……ありがとう」
省吾は何とも言えない気持ちでとりあえずベッドから降りた。アガタを助けようと身を乗り出したせいで、メグナに覆いかぶさる形になっていたのだ。
◆
数日後、メグナは退院した。あれから体調に異常はなく、後遺症などもないらしい。いたって健康体ということだが、横を歩くメグナの足取りは少し頼りなく思えた。
「ごめんねショウゴ、付き添ってもらっちゃって」
「大丈夫。近いし」
事実、病院の隣が守護隊の本部だ。隊の人間に負傷者が出た場合にすぐ対応できるようにするための立地らしい。
病院の敷地から隊の敷地へと、短い道を一緒に辿る。昼前の穏やかな日差しの中、しばらくは互いに無言だった。
「ごめんね」
それを聞いて、省吾はメグナがもう一度付き添いについて詫びたのだと思って苦笑した。
「だからいいって」
「あ……そうじゃなくて」
「ん?」
メグナはうなだれて歩みの速度を落とした。
「わたし、前に変なことショウゴに言っちゃった。元の世界に帰っちゃうのって。困ったよね、そんなこと聞かれたって。でもわたし……」
言葉に詰まる彼女を、省吾はじっと見つめた。
そしてふっ、と吹き出す。メグナがきょとんと瞬きした。
「何?」
「いや」
首を振って見せてから、省吾は改めて口を開いた。
「僕の方こそごめん、ちゃんとした返事ができなくて」
「そんなこと……」
「あるんだ。友達なら、しっかり考えて答えるべきだった」
いつの間にか二人とも立ち止まっていた。
「僕は友達には誠実でいたいと思う。そしてメグナは僕の一番の友達だ。だからはっきり言うよ。僕は元の世界に帰りたくはない」
「ショウゴ……」
「でもごめん、言えるのはそこまでだ。この先どんな変化があるかわからない。思うだけでそれが叶うとも限らない。だから帰りたくない、それだけしか言えないや」
深く息を吸ってから、省吾は小さく頭を下げた。
「……ごめん」
顔を上げると、泣き出しそうなメグナの顔がそこにあった。
「ありがとう、ショウゴ。それでもうれしい」
メグナの代わりに省吾は笑った。
「じゃあこれでおあいこかな」
「うん!」
再び連れ立って歩き出し、二人は自然と手をつないでいた。メグナの手はほんのりと温かかった。
(助けられて本当によかった)
省吾は心からそう思った。守護隊本部への道が、ずっと続けばいいのに。そうも思った。




