九月十八日
九月十八日
如月邸の廊下を僕は歩いていた。
ついさっき、如月忠光様に呼ばれたので忠光様の部屋を目指している。
あれから緋歌瑠様と僕はかなり打ち解けたように見えた。
以前みたいに素っ気なく、冷たく見られる事は少なくなっていた。
自分の気持ちは言わないけどそれだけでも十分だった。
「絶対に、私は嫌ですからっ!!」
忠光様の部屋から突如、怒声が聞こえてきた。
そしてすぐ目の前の障子が開いた。
「きゃっ!!」
緋歌瑠様が僕とぶつかり、よろりと体勢をくずした。
急いで彼女を支える。
そして気付いた。
「……緋歌瑠様?」
彼女が僕の顔を見上げた。
彼女に眼には透明の液体。それに僕が気付くと緋歌瑠様は顔を下に向けた。
「………」
下を向いたまま何も言わなかった。
「どうしまし…」
言いかけた時、緋歌瑠様は突然僕を跳ね除けた。
そして眼を合わさず僕の横を通り過ぎ、走り去ってゆく。
「!」
緋歌瑠様が心配だ。忠光様と何かあったのだろうか?
そう思いながら、僕は悩む。彼女の後を追いかけられなかった事に。
ただ、愛する資格が無い、と。心の鎖に締め付けられて。
「失礼します」
「桑野君か、すまぬな。こんな夜が更けてから呼んでしまって。」
忠光様の部屋に入ると、和服姿をした忠光様が上座に座られていた。
堂々とした雰囲気に威厳を持ち合わせ、冷静沈着。
それが、僕が初めて見たときの忠光様の第一印象だった。
「それで、お話とは?」
僕は下座に座った。
忠光様が自分の顎をゆっくりさすった。
「うん、君に緋歌瑠の事について聞いておきたい。」
「えっ??」
予想外だった。僕になぜ緋歌瑠様の事について聞かなくてはいけないのだろう?
「最近、緋歌瑠はよく桑野君の所に行くと聞いてな。頼みがあるのだ。実は緋歌瑠の婚約についてなのだが、あの子がどうしても了承しないのだ。それで、できるなら君が緋歌瑠を説得して欲しいのだ。」
「!」
なんだって? 僕が緋歌瑠様を説得?
「どうだ?」
僕の視線が泳いだ。僕が見ているのは唯の壁。
冷たくて何も質感がない唯の壁。
どうして僕に説得できるだろうか?
彼女を慰める資格さえないのに、それなのに僕は自分の愛の為に慰めてしまったのだ。
今度は彼女を傷付けろ、と。そう言っているのか?
僕には彼女を裏切る事が出来ない。これは彼女の人生なのだから。
何より、僕は今まで築いてきた彼女との関係を壊したくないんだ!
「出来ません。」
「何故だ?」
「僕に彼女を説得できるはずが…」
そう言葉で言っていたが、僕はなんて無責任なんだ。
なんて忌々しい人間なんだ。
心の奥底では、僕はそんな事を言いたくないと思っている。
だって!!
彼女を愛しているのだから!!!
それを分っていて、僕は彼女との関係を壊したくないと嘘をついている。
本当の気持ちを言わないで。
「わかった、すまぬな。」
「すいません…」
数秒の空白の時間が流れた。
「………君が緋歌瑠を説得したのか?」
「……っ」
僕は答えられない。
そして、そうか…と忠光様が言葉を漏らした。
「道理で、緋歌瑠が婚約を破棄してくれというはずだ。あの子は決してそんな事を言わない子だったのに。」
「どういう意味です?」
なんでも親の命令に逆らわないということなのか。
ふっと忠光様の顔が暗くなった。
なにかの絶望を味わったような表情。
そしておもむろに口を開いた。
「ついさっき、緋歌瑠が私のところに来て婚約について話し合った。だが、私は破棄してくれという緋歌瑠の言葉に耳さえ傾けなかった。」
ついさっきの怒号はそれの事だったのか。
「そして、私は言ってしまったのだ。」
オマエハ、キサラギノハンエイノタメニイルンダ。
ジユウナンテ、オマエニハイラナイ。
「!」
今、あんたはなんて言った?
緋歌瑠様になんて言ったんだ?
「私はあの娘の事を考えて…」
「ふざけるなっ!!」
あの娘の幸せを考えてだって?
どこが幸せなんだっ!
金持ちと一緒になって確かに富は手に入る。
でも、それが幸せとは限らない。
抑えきれない怒りが僕の身体を駆け巡る。
僕は忠光様をにらんだ。睨む事しか出来なかった。
「………っ」
僕は我慢できず、席を立つ。
怒りで何をしているのか良く分らなかった。
「まて、まだ話は終わっていない。どこに行くつもりだ?」
「緋歌瑠様のところへ。」
彼女はあなたを信じていたんだ。僕の言ったあの言葉を信じて。
それなのに彼女の苦しみも理解しないで、彼女の気持ちを踏みにじって。
どれだけ辛いと思っているんだ!
本当に最後の希望だったんだ。あなたなら、きっとどうにかしてくれると。
「おまえは、緋歌瑠のことを愛しているのか?」
僕は忠光様に背を向けたまま答えない。答えたくも無かった。
怒りで手が震えていた。
「だが、お前に緋歌瑠は愛せない。」
!!!
「私はお前の過去を知っている。だからこそ、おまえには緋歌瑠は愛せない。」
そんな事言われなくてもわかって………
わかって……
わかっているんだ。
「……失礼します。」
僕はそのまま忠光様の部屋を後にした。
僕は勘違いをしていたのかもしれない。
緋歌瑠様はもっと、ずっと苦しんでいたのかもしれないと
それならば、あの時僕に言ったのは助けて欲しかったから?
それとも希望にすがりついていたかったからか。
だとしたら彼女は…
急いで僕は彼女の部屋に向かった。
彼女の部屋は、明かりがついていない。そして人の気配さえしない。
僕はゆっくり障子を開ける。
部屋の中は嫌に閑散としていて闇に包まれていた。
あけるとすぐ前に緋歌瑠様がいた。僕に背中を見せて座り込んでいた。
「緋歌瑠様?」
ゆっくりと彼女がこっちを振り返った。
瞳の中からとめどなく涙が頬を伝っていた。
「―――――」
絶望の淵に立たされたような泣き方だった。
希望はもう闇の中。
遥か先にあるのは束縛という名の婚約。
「こ、来ないで…」
緋歌瑠様が震えながら、か細い言葉で言った。
そして彼女の手に。あるモノがあった…
(緋歌瑠様?)
「来ないで――っ!」
銀色のナイフ。鈍色のナイフ。
目を疑った。これが、夢ならどれだけ良いことか。
すでに彼女の左手にはいくつもの切り傷が見られた。
彼女は! 死のうとしたのだ!!
其の傷は何度も何度も死のうとして切ったものだ。でも、うまく切れてはいなかった。
そして、もう生きていても仕方がないと。そう心の中で決め付けてしまったのだ。
「緋歌瑠様、やめてください。それを離してください!」
僕は彼女に促すがそれは彼女の為ではなく、自分の為に言っていた。
そう、僕の為に。彼女には死んでもらいたくは無い。
彼女の婚約なんてどうでもいい!
そう思っている自分がいた。
「うそ… 嘘つきっ。お父様に言えば分ってくれるって言ったじゃない…」
そう…言ったじゃないっ!! と彼女の叫び。
この言葉が僕の心を打ちぬいた。痛々しいまでの心の叫び。
「でも、お父様は私のことなんて愛していなかった! あの人の頭には如月の事しか頭に無かったのよっ!! ううぅっ――」
彼女の涙が数滴畳に落ちて滲んだ。
緋歌瑠様が首を横に何度もふった。
「私を…愛してはくれなかった…」
!
アイシテ…イナカッタ?
「誰も、私を愛してはくれなかった!!」
泣きながら緋歌瑠様はそう叫んだ。
もう誰も彼女の涙を止める事は出来ない。
そして誰にも彼女の心を癒せるものなどいない。
僕には何も出来ない。
(違う…)
「帰ってっ! ――お願い」
そう言っても彼女は其の手に持つナイフを離さない。
離してくれ、緋歌瑠…
「それを離せ…」
「聞こえないのぉっ!! 早く帰ってよっ!!!」
「それを離せっ!! 緋歌瑠っ!!!」
ばしっ
僕の右手が彼女の頬を打った。
一瞬の沈黙が広がった。
「っ………僕は、ある人の幸せを奪った。」
「…?」
僕の一番大事な人の幸せを。
「だから、僕に言う資格なんて無い。君を慰める事も出来ない。」
でもそれも違った。
君の為に僕は…本当にどうにかしようと一生懸命だったんだ。
「それでも言える。誰も君を愛さないなんて…」
僕は言葉を切って、渦巻く感情に体を震わせた。
「峻…」
「そんな事言ったら、ぼくだけ…カッコ悪いじゃないか…」
僕も我慢できなくて泣いていた。
君の事がこんなにも好きなのに。それなのに自分を否定するなんて。
「そんなの辛すぎるよ……」
「…」
「もう、辛い思いなんてさせない。僕が君を支える。」
「!し、峻…」
だから、もう死ぬなんて言わないでくれぇっ…
「えっうぅぅうっ― 峻!」
彼女が僕の胸に飛び込んできた。僕もそれを一生懸命支える。
離さない。離してたまるか。
彼女が僕の胸で大声を出して泣いた。僕も泣いた。
まるで今まで耐えてきた悲しみを分かち合うかのように…
また、僕にも大切な人が出来た。
「ありがと… 峻。」
僕達はそのまま二人ベッドの上に崩れた。
二人で愛す為に。
どちらも、誰かが愛してくれている事を確かめる為に。
僕達は肌を合わせた。
もう、緋歌瑠には悲しい思いをさせない。
絶対に。




