九月十六日
九月十六日
今日は絵を描きに如月邸の外に行く。
僕の一番好きな風景がある場所。
何度も何度もそこの風景を描き続けていた。
そのための準備をしていた時だった。
「峻?」
其の声に僕が振り向く。
この声は間違えようがない緋歌瑠様の声。
「どうしましたか?」
出来るだけ僕は素っ気なく答えた。
つい先日の事に話が及ぶのを恐れていた。
なるべく自分の気持ちを知られたくは無かった。
「…? どこかに行くの?」
僕が持っている画板や鉛筆類、画用紙に絵具を緋歌瑠様が見た。
「夕日ヶ岬へ、絵を描きに。」
じっと僕の絵描き道具を見つづけ緋歌瑠様が顔を上げた。
そして一言。
「私もついて行っていい?」
僕の心臓が杭に打たれたような痛みを感じた。
ヒカルサマトイッショ?
聞いてみたい。僕と一緒でいいのかと。
でもそれは出来ない。
僕は少し考えた後、諦めの溜め息をつき、「はい…」と答えた。
夕日ヶ岬は如月邸の西方向にある。
歩いて約一時間。
この岬は夕日が水平線に沈む所を壮観に見られるため、島の住民達の穴場である。
岬から見る一面の海、そこに沈むオレンジ色の夕日。それを見て感動しないわけが無い。
如月邸を出たのはお昼過ぎだった。
緋歌瑠様…
彼女は白のワンピースに白の帽子、そして銀のアクセサリー。
一見子供っぽくも見えるが、彼女が着ると大人っぽく見えた。
僕が前に返した銀のロザリオもちゃんと掛けていた。
これ以上、清楚の白が似合う人がいるだろうか。
「峻は、どうしてココの絵を描くの?」
夕日ヶ岬に着くと、緋歌瑠様は僕にそう聞いた。
そうですね、と僕は呟いて岬から見える海を見渡した。
微風が潮の香りを匂わせる。
そして一言。
「好きですから。」
「えっ、それだけ?…」
「僕は自分がこれだと思った絵を描きたいんです。それなら例え下手でも気持ちだけはこもっているのですから。」
自分が描く構図を決め、画材の準備をし始める。
まずは紙と鉛筆で下書き。
「じゃないと、やってられませんから。」
そう言って僕ははにかんだ。
「…私も、好きな事をやっていたい。でも、そんなこと出来ないから。」
緋歌瑠様がハンカチを下に引いて僕の隣に座る。
足を組んで顔を膝に埋めた。
「婚約なんて…」
「嫌なんですか?」
僕は緋歌瑠様の代わりに答えて緋歌瑠様の方に向いた。
彼女も僕と目が合ってそのまま視線を下に向けた。
「私だって、お父様の言っている事はわかっているわ。でも、もう少し私の気持ちを考えてくれてもいいんじゃないのかなって…」
そうだ、後悔だけはしてはいけない。僕みたいに幸せを奪ってしまってからでは遅いのだ。
なぜ、僕はこの人を好きになってしまったのだろう。
愛しても僕には幸せに出来ないのに!
「でも自由だけが…その人の幸せとは限らないんだ…」
「えっ?」
本音が飛び出でしまった。
僕は緋歌瑠様に幸せになって欲しいのだ。不幸なんかにさせたくない。
例えそれが、不幸でなくても。
特に僕と同じめにだけは絶対に。
「なんて言ったの?峻」
「いいえ、何でもありません」
僕は緋歌瑠様から眼を逸らして下書きに集中する。
だが、其の下書きが順調に進むはずが無い。
「……緋歌瑠様。忠光様は絶対に貴方を絶対に幸せになって欲しいと思っているはずです。」
「……」
波の音がいやに静かだった。
緋歌瑠様が立ち上がった。そして岬の先端まで歩いてゆく。
風で白のワンピースの裾が揺れた。
「お父様に言ってみるわ、私の正直の気持ち。」
くるりと僕のほうをむいてニコッと笑った。
正直、僕には複雑な気持ちだった。
彼女を慰めて僕にとって何の為になるのだろうか。
ただ上っ面でしか言葉を言えない僕はこんな風でいいのだろうか…
「あっ!」
強い潮風が吹いた。結果、緋歌瑠様の白い帽子が風に持っていかれそうになる。
彼女は帽子を飛ばされないように片手で帽子を抑えた。
(………これだ)
そこには僕が描きたかった構図があった。
岬から見える水平線に沈む夕日。そして帽子を片手で抑える白いワンピースの女の子。
僕に背を向け、夕日を見て黄昏る。
これ以上、描きたいと抑えきれないものがあっただろうか?
僕の心へ、書きたいという思いが抑えきれなくなっていた。
この絵を必ず描きたい。
「峻、そろそろ帰りましょう?」
「動かないで下さい!」
ビクッと緋歌瑠様が驚いて、唖然とした表情を見せた。
僕は急いで鉛筆を取り出して下書きに取り掛かる。
よどみなく僕の手が動く。これほどスムースに動く事なんて無い。
僕はどんどんと絵の下書きを完成させていった。




