九月四日 壱
九月四日
この島、夕日島は本国から船で約三時間。かなり離れた場所にある島だ。
在民は約百数人で殆どが漁師をやっている。
島自体にこれといった名物すらなかったので外から来る人間は殆どいない。
僕はこの島に唯一ある屋敷、如月邸に住んでいた。
三年ぐらい前に如月邸の主、如月忠光に認められ専属の絵描きをやっている。
僕は才能が無かったのに絵を書いてくれと言われた時は本当に嬉しかった。
それ以降、僕は都会を離れ辺境地、夕日島に移り住んでこの屋敷にお世話になっている。
「峻?」
障子がゆっくり開いた。
そこには綺麗な女性が立っていた。
長い黒髪に綺麗なかんざし、顔は小さく端正とも取れる顔。
そしてすらりと伸びている真っ白な足。
彼女はこの屋敷の跡取りのお嬢様、如月緋歌瑠。
僕より三歳年下だった。
「緋歌瑠様、どうなされましたか?」
「仕事中なら…出直しますね…」
ソプラノの綺麗な声が、か細く聞こえ退き返す。
あっと思った。行かないで欲しい。
「緋歌瑠っ! 待ってくれ!」
僕は緋歌瑠様を敬称無しで叫び、呼び止めた。
彼女は僕に背を向けたまま立ち止まった。
「…っ」
言った後に気づいた。
僕はなんて事を。彼女の事を雑に扱ってしまった。
「あの、その… 僕は…」
この如月邸に呼ばれるに当たって幾つかのルールがあった。
一つに、如月邸に住む者の上下関係をハッキリするというものがある。
この邸には忠光様、かぐや様、緋歌瑠様の三人が僕より上に位置する人たちだった。
つまり、この三人は敬称で呼ばなくてはいけない。
そしてこの如月のルールに守れない者は如月の者によって即解雇できる。またはそれ以外に準ずるもので罰する。
僕はそれを了承して此処にいる。
「ひ、緋歌瑠様。」
「……。」
素っ気ない感じがした。
そのまま彼女は僕に顔を見せずに部屋から出て行った。
嫌に空しく波の音が聞こえて来た。
やってしまった。僕の奥底にある欲望が飛び出てしまった。
これで僕はまた貧乏画家に逆戻りなのだ。
其の事を考えると胸が重くなり力の無い溜め息を吐いた。
「ん…これは?」
畳の上に銀色に光るものが落ちていた。僕はそれを拾ってみる。
それは銀のアクセサリーだった。
「緋歌瑠様のもの?」
彼女はアクセサリーのデザイナーをしていて特に銀細工には定評があった。
手の平でそのアクセサリーを良く見る。
銀のロザリオで十字架に茨が撒きついている緋歌瑠様らしいシンプルなロザリオだった。
僕はロザリオを力強く握り締める。
彼女との絆をこれ以上失わないために。
少しでもいい。その温もりを感じたい為に。
少しの間僕はずっと握り締めていた。
そう、僕は如月緋歌瑠を愛していたのだ。
ずっと前から。
二つ目のルールがある。それは如月邸では必ずみんなで食事をとる事だった。
僕は恐かった。
その場で緋歌瑠様が報告、専属絵描きを解雇、そして元に戻る事に。
いやそれより彼女、緋歌瑠様と離れる事を何より僕は恐れていた。
広間にはすでに緋歌瑠様がいた。
僕が広間に入ると彼女とすぐ眼が合った。
「…」
冷たく無言な顔をしてこっちを見た。
心が急に苦しくなった。彼女にはそんな顔をして欲しくは無い。
それは自分のせいであることも分っていた。
僕はそのまま下座に着いた。
「桑野さん、お調子はどうですか?」
丁度お嬢様の母、かぐや様が広間に来られたときだった。
「かぐや様、とてもいいです。」
「そうですか。」
ニコッと笑って緋歌瑠様の隣に座る。
かぐや様は緋歌瑠様と同様にとても美しい方だ。
緋歌瑠様の洋服とは違い、和服がとても上品で清楚な感じをかもしだしていた。
無言な時間が続く。
誰一人喋る事が無かった、沈黙の空間。
「? お父様は?」
緋歌瑠様が遅すぎる忠光様を心配して口をあけた。
「忠光さんは急な用事でお出かけになったわ。今日は戻れないそうよ」
かぐや様が横目で娘を見て静かに言った。
今日の夕食はこの島の山菜と海の魚介を上手く合わせた島特有の料理だった。
料理人の腕がいい成果どれもおいしい。
「緋歌瑠? あなた、今日桑野さんの所に行ってどうしたの?」
僕がお味噌汁をおいしくすすっていた時だ。かぐや様の突然の質問に僕はむせた。
遂にこのときが来てしまった。
僕は緋歌瑠様をみる。
きっと彼女は素っ気なく今日の出来事を言うだろう。
僕が如月の規則を守らなかった事を。
だが、彼女の表情は僕が想像していたものとは違った。
頬を紅く染めていたのだ。
そして顔を下に向けたまま―
「べ、べつに。なにも…」
「?」
彼女は言わなかった。僕がルールを破った事に触れもしなかった。
彼女なら絶対に言うと思っていた。
「そうだわ、あなたの婚約についてなのだけど…」
「!」
緋歌瑠様の表情が急に固まった。
そう、緋歌瑠様には婚約者がいた。本国のお金持ちとの結婚。
はっきり言って政略結婚といって間違いではなかった。
この如月家はこの島の地主だが、本国の富豪と比べればかなりの差がある。
たかが如月家のハクを付ける為の結婚だった。
そしてなにより緋歌瑠様はこの結婚を望んでおられなかった。
「緋歌瑠?」
彼女の箸が止まった。そしてそのまま箸を台に置く。
「私…もういい」
「えっ?」
そのまま彼女はかぐや様に目をくれずこの広間から出て行った。
彼女は沈痛そうな表情をしていた。
「………」
かぐや様が言葉を失う。
為すがままに緋歌瑠様の行動を見ているしか出来なかった。
僕も出て行く彼女を目で追っていた。
たとえ沈痛な面持ちでも其の美しさには代わりが無かった。
見とれてしまう美しさだけは変わらない。
僕とかぐや様はそのまま冷たくなった夕飯にまた箸をつけ始めた。
彼女がいないだけでこの広間は荒んでいた感じがした。
自分の机に置いてある緋歌瑠様のロザリオ。
「………」
僕は知っていた。彼女がこの結婚をどれだけ嫌がっているかを。
一度も島を出ていない彼女が一度も会った事も無い人と婚約をしたのだから。
普通の人から見ればそんなのは絶対嫌というに違いなかった。
白熱灯が僕の部屋を照らしている。一人の部屋。
夜と昼とでは自分の部屋の印象がまったく異なっていた。
今日は虫の音色さえ聞こえない…
僕は緋歌瑠様に会う決心をした。
このロザリオを返す為に、なにより今日の出来事を謝る為に。
机に置いてあった緋歌瑠様のロザリオを手に取ると僕は自分の部屋を後にした。




