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死んだら行きたかった国の話

作者: 青狐
掲載日:2026/04/18

いつからだったのかは思い出せない。ただ、気づけば彼は、死んだら「流星の国」に行きたいと願うようになっていた。

 現実は退屈で、単調で、じっとりとした湿気のように彼の心にまとわりついていた。朝は来て、夜は来て、それが繰り返されるだけの世界に意味を見いだせず、彼は次第に“強い何か”を求めるようになる。最初は小さな賭けだった。勝てば嬉しい、負ければ悔しい、その単純な振れ幅が、平坦な日々に色を与えた。だが、やがてそれでは足りなくなった。

 金額は膨らみ、場所は増え、手を出すものはより危ういものへと変わっていく。煙の匂いが染みついた部屋、耳障りな機械音、夜を忘れたような明かりの下で、彼は笑い、叫び、そして時に無表情で崩れ落ちた。勝ったときの高揚は麻薬のようで、負けたときの絶望は深い井戸の底に突き落とされるようだったが、それすらも彼にとっては「生きている実感」だった。

 酒も覚えた。甘いものから強いものへ、やがて味などどうでもよくなり、ただ喉を焼く感覚と意識の鈍りを求めるようになる。人との関係も同じだった。刹那的な出会いと別れを繰り返し、名前も覚えないまま、ただその場の温もりや刺激に身を委ねる。彼にとって重要なのは、その瞬間にどれだけ強く心が揺さぶられるか、それだけだった。

 けれど、どれだけ刺激を重ねても、満たされることはなかった。強ければ強いほど、その後に訪れる空虚は大きく、静寂はより重くのしかかる。深夜、すべてが終わった後の帰り道、彼は何度も足を止めて夜空を見上げた。そこには、変わらない星があるだけで、彼の人生のように揺らぐこともなければ、壊れることもなかった。

 そのとき、ふと思うのだ。もし死んだら、あの星の中へ行けるのではないかと。

 流星の国。誰に教わったわけでもない。ただ、彼の中で自然に形を持った場所だった。そこは永遠に夜で、空は黒ではなく深い青に近く、無数の流星が絶え間なく降り注いでいる。音もなく、ただ静かに、光の筋が幾重にも重なって、世界を照らしている。

 そこには、彼と、一人の女性しかいない。

 なぜ一人なのか、なぜその顔がぼんやりとしか見えないのか、理由はわからなかった。ただ、その光景を思い描くたびに、胸の奥にやわらかな温もりが灯る。現実で感じるどんな興奮よりも、穏やかで、静かで、けれど確かに満たされる感覚だった。

 流星の欠片を集め、それを砕いて、溶かして、透き通った飲み物を作る。ほんのりと光を帯びたそれは、口に含むと微かな甘さと、冷たい夜のような清涼感を残す。二人はそれを小さな店で売りながら暮らしている。客などほとんど来ない。それでもいいのだ。誰かが来たときには、少し驚いて、少し笑う。それだけで、その日は特別になる。

 彼はその想像を、現実よりも大切にするようになっていった。

 やがて、現実は崩れ始める。借金は積み重なり、頼れる人間はいなくなり、逃げ場もなくなる。それでも彼はやめなかった。やめられなかったのではなく、やめる理由がなかったのだ。どうせ最後には、流星の国へ行くのだから。

 ある夜、彼はひどく疲れていた。勝ちも負けも、もはやどうでもよかった。ただ、終わりが近いことだけが、ぼんやりとわかっていた。帰り道、いつものように空を見上げる。だが、その夜は違った。

 一筋の光が、確かに、空を横切った。

 流れ星だったのかもしれない。けれど彼には、それが迎えのように見えた。胸の奥で、何かが静かにほどけていく。焦りも、不安も、後悔も、すべてが遠ざかり、ただ一つの確信だけが残った。

 ――ああ、ようやく行ける。

 次に目を開けたとき、彼は見知らぬ場所に立っていた。

 空は、想像していた通りの色だった。黒ではなく、深く、柔らかな青。その中を、無数の流星がゆっくりと流れている。音はない。ただ、光だけがある。地面は白い砂のようで、足音すら吸い込まれていく。

 遠くに、小さな建物が見えた。

 歩き出す。体は軽く、痛みも、疲れもない。風が頬を撫でる。その冷たさが心地よくて、彼は思わず笑った。扉を開けると、そこには一人の女性がいた。

「いらっしゃい」

 どこかで聞いたような、やわらかな声だった。

 彼は頷く。言葉はうまく出なかったが、それで十分だった。彼女は自然な仕草で彼を迎え入れ、椅子に座らせる。カウンターの上には、小さなグラスが置かれた。中には、淡く光る液体。

「できたばかりなんです」

 彼女はそう言って、微笑む。

 彼はグラスを手に取り、ゆっくりと口をつける。冷たくて、ほんのり甘くて、どこか懐かしい味がした。喉を通ると、体の奥に静かに広がる。これまで感じたどんな刺激とも違う。強くはないのに、確かに満たされていく。

 ふと、彼は彼女の方を見る。目が合うと、彼女は少しだけ照れたように笑う。その表情が、なぜか胸に刺さった。どこかで、こんなふうに誰かと目を合わせて笑ったことがあった気がする。だが、思い出せない。

 夜は続く。流星は絶えず降り注ぎ、世界は静かに輝いている。

 店の外に出ると、二人で並んで空を見上げた。言葉はほとんど交わさない。それでも、不思議と気まずさはなかった。風の音も、街のざわめきもない。ただ、時折、彼女の衣擦れの音と、彼の呼吸だけが、世界に存在していた。

 やがて、彼女が小さく言った。

「ねえ」

 彼は視線を向ける。

「ここ、どう?」

 問いはあまりにも単純で、だからこそ答えに迷いはなかった。

「いいところだよ」

 本心だった。何もない。刺激もない。勝ちも負けもない。ただ、同じ夜が続いて、同じ人と、同じ場所で過ごすだけ。それなのに、胸の奥は、これまでになく穏やかだった。

 彼は気づく。あれほど求めていた「強い何か」は、ここには存在しない。けれど、それがなくても、いや、ないからこそ、この静けさは崩れないのだと。

 店に戻り、二人で流星の欠片を砕く。細かな光が指の間からこぼれ落ち、床に散っては消える。単純な作業だった。誰でもできる。特別な技術も、才能もいらない。ただ、同じ動きを繰り返すだけ。

 それでも、不思議と飽きなかった。

 どちらかが少し手を止めると、もう一方が何も言わずに続ける。疲れたら、自然と休む。再び始める。会話は少ないが、沈黙は重くない。そこにあるのは、ただ穏やかな時間の流れだった。

 ふと、彼は思う。もし、あの現実の中で、この感覚を知っていたら、自分はあそこまで壊れただろうかと。

 答えは出ない。けれど、もうどうでもよかった。

 夜は続く。流星は降り続ける。

 ある日、彼は店の外で、ひとり空を見上げていた。背後から足音がして、彼女が隣に立つ。肩が軽く触れる。その温もりが、静かに伝わってくる。

「ねえ」

 また同じ声。

「ここに来て、よかった?」

 彼は少しだけ考えてから、首を横に振った。

「違うな」

 彼女は不思議そうな顔をする。

 彼は続ける。

「ここに来て、やっと気づいたんだ」

 言葉を探すように、空を見る。流星が、ひとつ、ゆっくりと流れた。

「特別なことなんて、いらなかったんだって」

 それは、あまりにも当たり前で、あまりにも遠回りして辿り着いた答えだった。

 彼女は、少し黙ってから、やがて静かに笑った。

「そっか」

 それだけだった。

 風が吹く。冷たい夜の風。けれど、不思議と寒くはない。

 二人で、また店へ戻る。いつものように、流星の欠片を集め、砕き、溶かし、グラスに注ぐ。どちらかが飲み、どちらかが笑う。何も起こらない一日が、また終わる。

 そして、同じ夜が、また始まる。

 彼はその繰り返しの中で、ようやく理解する。かつて軽んじていた「なんてことのない日常」が、どれほど fragile で、どれほど尊いものだったのかを。

 刺激も、興奮も、いらない。ただ、誰かと同じ時間を共有し、同じ空を見上げ、同じ静けさの中にいる。それだけで、人は満たされるのだと。

 流星は今日も降り続ける。

 終わりのない夜の中で、彼はようやく、終わらない安らぎを手に入れていた。

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