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5. 帰郷の夜

それは、雨の夜だった。

バイトはとうに辞めていた。連絡もせずに辞めた。コウジとも、いつの間にか言葉を交わさなくなった。

最後に吸った煙のにおいが、何の匂いだったのかさえ、よく思い出せない。


部屋には生活の匂いがなかった。

空き缶と、濡れたタオルと、しめきったカーテン。

それらが交じり合って、鼻をつく。けれど、もう“臭い”とも思わなくなっていた。

私は、においに鈍くなっていた。

何を食べても、何を飲んでも、同じような味しかしなかった。


気づけば、手持ちの金も尽きかけていた。

携帯のバッテリーも切れたままだった。連絡を取りたい相手も、思いつかなかった。


あの夜のことは、はっきりとは覚えていない。

気づいたら、電車に乗っていた。

誰かに会いたかったわけでも、謝りたかったわけでもない。ただ、行き場がなかった。


最寄りの駅に降り立ったとき、足が震えた。

タクシーに乗るほどの距離でもない。だけど、歩くには少し遠い。

でも私は、黙って歩き出した。夜風が、肌に冷たかった。


実家の前に立ったとき、玄関の灯りはついていなかった。

ポケットの中で手を握ったまま、チャイムを押すこともできずに立ち尽くしていると、玄関のドアが、静かに開いた。


母だった。

驚いた顔をして、何か言いかけたが、すぐに黙った。

そのまま、何も聞かずに玄関を開け放ち、私の靴を見つめた。


私は靴を脱いで、何も言わずに中へ入った。

リビングの明かりがつくと、昔のままの家具と、少しだけ古びた空気が目に入った。


そして、キッチンの方から、ふわりと漂ってきた。


あの、におい。

カレーのにおいだった。

あの頃、私はそれを「臭い」と思っていた。

逃げ出したくなるような、家の重さの象徴だった。


でも今、それはなぜか、泣きそうになるほど、あたたかかった。

煮込まれた野菜の甘さと、スパイスの刺激と、焦げつく一歩手前の香ばしさ。

こんなに複雑で、優しい匂いだっただろうかと、戸惑った。


「カレーしかないけど、食べる?」

母が言った。

私はうなずいた。

うまく声が出なかった。喉が詰まったように、言葉がこぼれなかった。


でも、うなずくことだけは、ちゃんとできた。

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