4. 壊れていく匂い
コウジは、あれこれ詮索しない人だった。
私の苗字も、実家のことも、聞こうとしなかった。代わりに、他愛のない話を振って笑わせてくれる。
誰かと話して笑うのが、あんなに自然だったのはいつぶりだろうと思った。
バイトが終わると、店の裏で並んで缶コーヒーを飲んだ。
彼はいつも、マイルドセブンに火をつける。
そのにおいは、最初はただの煙だった。制服にしみつくし、咳き込むし、苦手なはずだった。
けれどある夜、私はぽつりと口にした。
「なんか……この匂い、好きかもしれん」
コウジは煙をくゆらせながら、ちょっと笑った。
「なんやそれ」って言いながらも、少しだけうれしそうだった。
それから私は、彼の吸いかけをもらって、休憩中に一、二本だけ吸うようになった。
自分では買わなかった。あくまで、あの時間とあの匂いがセットでないと意味がなかった。
煙は苦くて、喉の奥に刺さるのに、それでも安心感みたいなものを運んできた。
まるで、孤独と不安を包み込んでくれる布団みたいなものだった。
それをぽつんと呟いたときも、コウジは「なんやそれ」ってまた笑った。
私には、それが答え合わせみたいに感じられた。
バイトは思った以上に大変だった。
理不尽なクレームも、ミスをしたときの冷たい空気も、まだ社会に馴染めていない私にはきつかった。
ある晩、レジで大きなミスをした。会計違いで売上に穴を空けた。
深夜の責任者からかなり強く叱られたあと、私はバックヤードの段ボールの隙間にうずくまった。
帰り際、コウジが「今日は大丈夫か」とだけ言った。私は、なんとか笑ってみせたけれど、うまくできなかった。
「……落ち着けへんのなら、ちょっと吸ってみるか」
そう言って、彼はタバコとは違う小さなパックを見せてきた。
私は一瞬だけ、なにかが違うとわかった。でも、その夜は、それ以上に気持ちがぐちゃぐちゃだった。
逃げ場が、どこにもなかった。
それが、最初の一回だった。
何をどう吸い込んだのか、今となってはもう思い出せない。
ただ、しばらくの間、全部の音が遠くなって、重たかった頭がふわりと浮かんだような気がした。
「すぐ抜けるし、残らんて」
そうコウジが言ったとき、私はうなずいた。
うなずいてしまった。
それから、またバイトでミスをした。今度は仕入れ伝票の処理ミス。自分でも呆れるくらい単純なミスだった。
そしてまた、あのパックが出てきた。私はそれを受け取った。
いつの間にか、逃げる手段としてのそれが、“用意されている”ことが当たり前になっていた。
あの夜の匂いは、もうタバコだけじゃなかった。
マイルドセブンの奥に、うっすらと違う刺激が混ざっていた。
でも私は、それを拒まなかった。いや、拒めなかったのかもしれない。
それが“安心感”だったか、“逃避”だったか、今となってはうまく区別がつかない。
ただひとつ言えるのは、
あの匂いを嗅ぐたびに、私はちょっとずつ壊れていったということだ。