3. 温泉と幻覚④
「温泉と幻覚」の最終話。悪魔と誘拐犯の取引き。
店を出た彼が、仲間の足跡を辿っていくと、大きな通りを離れて、次第に道が入り組んだ住宅地に入っていった。ブロック塀ばかりで店もなくなり、人通りもなくなる。行き着いたのは、漆喰と杉の腰板でできた古風な高い塀である。たどると、大きな木の扉。
雨風にさらされて黒ずんだ両開きのそれをゆっくり押して中に入ると、竹林である。くねった細い道が一本。背後で扉が閉じる音。空は密集した細い葉で日の光が遮られ、行手はそのまだら模様の影で薄暗く、外の喧騒は塀と竹に吸収されてここには届かない、葉が風に揺すられる音だけ。黒い長髪の着物姿の悪魔は、頭を掻きつつ辺りをちょっと見渡した後、大股の早足で道を辿り始めた。自分の下駄が草や枝を踏む音を聞きつつ進むと、次第に白い光に照らされた黒い屋根瓦が見えてくる。到着すると、平屋建ての大きい日本家屋である。少しだけ日が差した縁側に、浴衣姿の男性が座っている。
男は突然の訪問客に動じることなく、つぶやいた。
「あんた誰」
「バンドマンです」
「バンドマンが何しに来たの」
「嘘です。悪魔です」
「どこから来たの」
「カフェ・ベルメールからです」
「あんた、さては幻覚だな。実在するにしては綺麗すぎるしな。そういえば一週間前にそのカフェに行った時、新人の店員にジロジロ見られたな。私というか、私が本棚から取った『春と修羅』が気になってたみたいだけど。あの子も綺麗すぎだ。あの子も幻覚だな。あんたの仲間か。あんたの幻覚友達か……まあ今となってはこの記憶も、私の妄想かもしれないが……」
「そいつとは確かにカテゴリーが同じって意味では仲間ですけど、幻覚友達じゃないです。残念ながら二人とも、あなた以外の人間にも認識されてます。あなたの記憶は、おそらく正しいですよ」
クロセルは、ひと呼吸おいたあと、念を押した。
「私はあなたの幻覚では絶対に無いです」
彼は「あなたの」を強調した。
「あんたに太鼓判押されてもねえ。私は物心着いた時から、幻覚や妄想と共存してきたんだよ。だから、何を見ても聞いても触っても、まず現実か非現実かどうか疑ってかからないとならない人生だ。幻覚だろうがなんだろうが、自分が美しいと思えばもうどっちだっていいんだろうと思ったこともあった。だけど、目で見ているものが本当にあるかどうかは、他人の客観的な意見を聞かなきなきゃ決められないけど、それが美しいかどうかは自分で決めてもいいっていう理解自体が私の妄想かもしれないからな。結局、何を経験しても確信なんかもてやしない。それに、他人に確認を取っても、そいつも幻覚かもしれないしな」
「よくわかりませんが大丈夫ですよ。あなたが見たカフェの店員も幻聴が聞こえるみたいなんですけど、割と強気で生きてます」
「逆に言えば、みんなよく自分の経験に対して疑わずにいられるよね。みんな頭の中に誰かいるのかな。迷ったらそいつに聞けば、幻覚と現実を正確に仕分けてくれる、みたいな」
「ところで幻覚でもいいので、黒豹を見ませんでしたか」
「あの豹に私、すっごい見つめられてさ。なんかこっちも親近感を感じるし。あいつも綺麗すぎるし、状況から考えて絶対幻覚のはずなのに、周りの人にも見えてるっぽかったんだよね。…それも私の気のせいかもしれないけれど……思わず連れてきちゃったよ」
「やっぱり、あなたのところに……わたしの知り合いなんで、返していただけますか」
「いいよ。あんた、悪魔なんでしょ。その代わり何かお礼ちょうだいよ」
「わたしができることといったら、温泉に関することくらいですが」
「お、いいね。じゃあ、私の命と引き換えに、最高の温泉をうちの風呂で沸かしてよ」
「いやあなたの命はいらないです。オセさえ返してもらえれば。温泉は沸かしてあげます」
「温泉でもベッドでも、最高に気持ちのいい状態で、眠るように死ぬのが私の夢なんだけどなあ」
「老婆心ながら、死んだら幻覚も見られなくなりますよ」
「本当は見えないはずのものが見えてる気になるのが幻覚だよ。見えてる気になることくらい死んだ後もできるんじゃない」
「できないでしょう。見えてる気になる主体がいなくなるんだから」
「じゃあ、主体の幻覚を見るよ(注5)」
「その通りだとすると、生きているのと変わりないじゃないですか」
「全然違うよ。全部幻覚になるんだから、本物かどうか考えなくてもよくなるじゃないか」
「そんなこと言われてもねえ……。わたしの今度の召喚者は、わたしたちが他の人間を殺生したかどうかとか、その手のことに細かいタイプだって聞いたんですよねえ」
黒い悪魔は、腕を組んでしばらく考えた後、「まあ、いいでしょう……」とつぶやいた。
「よし、じゃあ決まりだな」
浴衣の男は立ち上がり悪魔に手招きすると、先に立って歩き出した。二人が家の裏側にいくと、離れがみえる。主人が立て付けの悪くなった黒ずんだ木の引き戸を開けると、洗面所と脱衣所。主人が下駄を脱いで上がり、奥のすりガラスを開けると、風呂場である。木製の壁に石を敷き詰めた床。奥に地面を掘って作られた同じく石造りの浴槽。正面の壁は一面ガラス張りで、竹林が見える。
そして、石の床の真ん中に寝そべっている黒豹が一匹。
「あ、オセ。……ずいぶん立派な風呂ですね」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
「温泉にも色んな種類があるんですよ。透明で無味無臭の単純温泉、しょっぱい塩化物泉、サイダーみたいに泡が出る二酸化炭素泉……どんなのがいいですか……」
「しょっぱくて、泡が出て、ついでに乳白色のがいいな……人体が溶けやすそうじゃないか」
「……頑張ります……」
数十分後。
「お湯加減どーですか」
クロセルはすりガラス越しに、浴室の家主に声をかけた。
「うん、ちょうどいいよ」
「アメニティセットは、カランの横です」
「ありがとう……で、私はいつ死ぬの」
「そこにしばらく入っていると、だんだん鼓動が遅くなって眠くなります。完全に停止するまで、一時間くらいじゃないでしょうか…」
「わかった、最後に会話をしたのが、あんたみたいに綺麗で話のわかる悪魔でよかったよ。俺はあんたが、実在するって信じる」
「そりゃどうも……」
クロセルは離れを出ると、オセに耳打ちした。
「……あの人に、自分は死んだっていう幻覚を見せてあげてください。ずっと解けないやつです。自他ともに認める死人になった後も、永久に解けないやつです」
クロセルと黒豹がカフェにもどると、建水がノートパソコンの液晶を睨んでいた。
「全然、バイオベンチャー値上がりしてないじゃん。ちょっと買っちゃったのに」
「おまえ、信じていたのか。どうして、風の株価予想なんかが当たると思ったんだろうなあ」
お客のいなくなった店内で、ソファにふんぞり返ったアルバイトの悪魔は、腕に這わせた蜘蛛を眺めながら、少し嬉しそうな顔をした。
注
5 じゃあ、主体の幻覚を見るよ
主体の幻覚を見るのは誰か。当然その人の主体である。この答弁は矛盾しているように見える。
だが、もしかしたら矛盾していないのではないか。もしかしたら、一般的に死んだと言われている状態であったとしても、場合によっては「何かを見ている気になる」ことくらいは可能なのではないか。何しろ、私の死亡を決めるのは、私ではない医者などの、他の誰かである。ということは、私には間違う可能性が残されている。他人から見たら死んでいるにも関わらず、生きていると勘違いした私が、何かを見ている気になってしまうことだってありうるのではないか。
例えば、私が自分としては全く身に覚えがないのに、ある日突然、周囲の人に寄ってたかって「お前は死んだんた。今お前の身体や口が動いているのは、外から電気でお前の神経や筋肉を刺激して操っているからに過ぎない」と説得されたらどうか。少なくとも、その人たちからしたら私は、「何かを見ている気になっている」だけの死人である。
だが、この状況における確かなこととして、私と私を「お前」と呼んだ人の間で、少なくともなんらかの対話は成立した、とは言える。それは、何かの証拠になるのだろうか。