3. 温泉と幻覚③
おかしな人が店にやってくる。
温泉の悪魔だからといって、入浴の頻度が高いとは限らない。
その後、ランチの忙しい時間帯を挟み、お客の数が落ち着いた頃。
「お客様、頭に鳥の糞がついております」
「ああこれ、なんか最近、職場の美容院から出るたびに、鳥の糞が降ってくるのよ。今日は定休日なんだけど、忘れ物を取りに行ったらこの様よ。あまりにも毎日だから、もう気にしないことにしたのよ」
レジの前に立った女性客は、お会計を済ませるとドアノブに手をかけた。
「今日いただいたダージリンファーストフラッシュ、バダンタン農園のだっけ。おいしかったわよ。次は他の農園のをいただくわ」
マスターとアルバイトの悪魔は、それぞれの思いを抱いてお客を見送った。
「……あの人……美容院につとめてたのか……」
悪魔はほうきを動かしていた手を止めて、入り口を眺めていた。
「あの人は、最近反省して一人で来て高い紅茶も注文する。品行方正な客になったから、緩い呪いに書きかえてやってもいいな。例えば、今後は一定以上の山に入るたびに、必ず五種類以上の野鳥が頭上を横切ることになる呪い、とかにな。これならバードウォッチャー以外には、実質、かかってないのと同じだからな」
「……あいつの呪いって全部、鳥がらみなのな……」
マスターのつぶやきに、カウンターに座った悪魔が答えた。
「彼は鳥類だからです。正確にはツグミです。オズと別に仲が悪いわけではないけど微妙な関係なのもそれが原因です。とって食われそうだからです」
「……あいつも動物なのかよ……クロセル、あんたは何の動物?」
「わたしは、動物じゃないです。火山と水です。もっと正確に言えば温泉です」
「温泉……」
ふとマスターが窓の外を見ると、道の真ん中に立って微動だにせず店の建物をぼんやり見上げている男がいる。まばらだが、車も通る道である。
「またどうせ、悪魔でしょ」
ほうってもおけないのでドアを開けると、彼はゆっくり店主に顔を向けた。
「すいません、ここは桃源郷ですか」
「違います」
「じゃあ、なんか焼肉のタレとか作っている宮殿ですか?」
「焼肉のタレとか作ってる宮殿じゃないです。つかぬことをお聞きしますが……あなたはその……人間ですか」
「え……どーだろ、強いて言えば『開栓後要冷蔵』かな……」
建水がゆっくり後ろを振り返って、店内の悪魔ども(注3)を睨む。声を出さずに「仲間か?」と口を動かすと、彼らは首を振った。
再び不審者の方を向くと、すでに彼はいなかった。
「なんだったんだ……今の人……」
店が落ち着いた頃、カウンターの天井付近に設置してある、無音のテレビをみんなで見ていると、次のような字幕が映った。
〈速報です。本日、東京都◯◯市に黒豹が出現したとのことです。多数の目撃情報が上がっております。動物園から脱走したとの報告は入っておらず、無許可で飼われていたものが逃げ出したと思われます〉
「近所じゃん」
熱々の鉄板の上でザラメとバターの香りをたたせている、余りもののスコーンで作ったラスクを、アルバイトのおやつ皿にトングで乗せながら、マスターは声をあげた。
「オセじゃろーなー」
老人は、ずっとしゃぶっていた梅干しの種を吐き出した。
「オセでしょうね」
クロセルは着物の袖に気を遣いつつ、カウンターから手を伸ばしてティーカップを調理台に置き、無言でお代わりを要求した。
「あいつ猫じゃないの? 豹なの」
「私は猫科とは申し上げましたが、猫とは申しておりません」
「あー、確かにクロセルは猫とは言わんかったなー。確かに言ってない」
「何、そのどうでもいい結託」
「ちなみにオセは、幻覚を見せるのが得意な悪魔です。得意というか、幻覚作用のあるフェロモン的なものをずっと撒き散らしながら生きています。彼の人間の姿と豹の姿、どっちが本物でどっちが幻覚なのか、わたし達も知りません。ま、ほっといても人間をとって食ったりはしないでしょうから大丈夫ですよ」
「本当だろうな……そういえばさっき、一時的にみんなおかしくなったよなー。悪魔は排泄しなくていいはずなのに、フォルカスがトイレ行きたがったり、俺もお会計の計算がおかしくなったり……変な人もきたし……それが原因か」
「あーでもあのウォシュレットっちゅうのは、気持ちええもんじゃのー。初めて使ったー。休憩時間に帰って来たカイムが、興奮して話してたのは、これだったんじゃな」
腕まくりをして、床に散らばった黒羽をほうきでかき集めていたカイムが、ふと手を止めた。
「おい、なんかずっと臭いと思ったら、私の刀が発生源だったということに今気づいたんだが……」
「クロセルが朝、孫の手として使っとったなー」
「……クロセル……おまえ、温泉が専門なのに、自分は風呂に入ってないのか」
「まー三日に一回くらいかなー」
「時計に変えて胸ポケットに入ってるから、今まで私は一人でずっと臭かったってわけか……原因がわかったら、ますます気持ち悪くなってきた……」
ほうきを落とす音と共に、白い顔をしたカイムが、口と鼻を片手で塞いでその場にうずくまった。
「……あいつのサファリパークだけは、幻覚じゃなかったのか……」
「嗅覚のギアを変えればよかったのに。人間並にしてたんですか?」
「紅茶の香りを覚えたかったから、犬並にしてた……」
「じゃあ、わたしの三日熟成させた羽毛と背脂のにおいは辛いですね」
「カイムは妙なとこ真面目じゃからのー」
さらに数十分後。
〈〇〇市に現れた豹について、新たな情報が入ってきました。現場に居合わせた『リアス式海岸』を名乗る女性によりますと、黒豹は話しかけるように接触した四十代くらいの男性についていったということです〉
「あいつ、なんか誘拐されてんじゃん」
「まずいですね」
「まずいのう」
「でも、オセは何で逃げないんですかね。幻覚を見せて隙をつけば簡単なのに。よっぽどその人が気に入って、自分でついていっちゃたんでしょうか…。
まあ、私が探して連れ帰ります。こう見えても私も悪魔ですし、においでも残っていれば辿れるでしょう」
一度羽を引っ込めたクロセルは立ち上がり、自分の黒い花柄の羽織りに袖を通し、また勢いよく羽を出した。(注4)
カウンター席で休憩していたアルバイトは、背後で何かが舞う気配を感じて立ち上がった。
「……ほうき取ってくる」
注
3 店内の悪魔ども
読解力の高い読者の皆様は、ここで「悪魔ども」が指しているのは、カイム、クロセル、フォルカスの三人だと理解していることだろう。しかし実際には、もう一人オロバスという悪魔がカウンターに座っていた。彼は物語の外側でひっそりと、カフェを訪れていたのである。オロバスはこれから先も、物語中一切登場することはなく、キャラクターたちが彼と交わした会話や、彼についての言及はすべて省略されているが、彼は確かにたまにその場に存在している。
4 また勢いよく羽を出した。
数千年にわたって、羽の生えている悪魔や天使たちは衣服に苦慮してきた。
古くは、たっぷりとした布を適当に体に巻き、腰を紐で縛り、布のヒダの中に羽用に開けた切れ目を隠すエンシェントグリークスタイルが一般的であったが、やがて人間の世界にきちんと仕立てた衣服が普及するにつれて、彼らも服装を変える必要に迫られた。
しばらくは羽を消している時に、切れ目から肌が見えてもおかしくないように、背中を服と同じ色の絵の具で塗る時代が続いたが、やがて切れ目位置を少しずらした同色の服を二枚重ねで着用し、背中を塗らなくても目立たないよう工夫されるようになった。しかし、これだと羽を出した時に内側の服の生地が突っ張ったり、逆に皺が寄ったりしてしまうのが悩みである。
現在はアンドレアルフスが開発した、非常に薄手で伸縮性のある生地が服の裏地に採用され、表地と切れ目の位置をずらしても、快適に羽の出し入れができるようになっている。