3. 温泉と幻覚①
カフェ・ベルメールでの一日の始まり。
カイムの特殊能力。
フォルカスの登場。
ソロモンの指輪によって現れた悪魔は、モチベーションが低いという事実。
カフェ・ベルメールのオーナーである水屋建水がソロモンの指輪を手にしてから一週間後の朝。彼は、階段の下から居候の部屋に声をかけた。
「おはよー。カイムー、そろそろ起きてよ」
返事がないので、階段を登って部屋の前に立つ。中から音楽が漏れている。ノック。
「おはよう。開けるよ」
部屋の中から大音量の「ツィゴイネルワイゼン」。奥には、素肌に金糸の刺繍が入った黒い艶のあるシルクのガウンを着崩した少年の悪魔が、出窓の窓台にはだけた片足を乗せて座り、腕に二センチくらいの蜘蛛を一匹這わせていた。
「おはよう、建水。爽やかな朝だな」
彼は蜘蛛を眺めつつ、ワイングラスに入ったトマトジュースを揺すった。
「……どこがだよ。その蜘蛛、どうしたの?」
「昨日、この部屋で見つけたんだ。お前が殺生は禁止だって言うから、一晩中、私の身体を好きに這わせていた」
「……虫はいいよ……殺しても……」
悪魔は、驚いて大きな声を出した。
「虫はいいだと!」
彼はしばらく、自分の腕の蜘蛛を見つめた。
「……やっぱり、ずっと一緒にいるうちに、情が湧いたから、しばらく私の背中で飼っていいか?」
「いいけど、お客の前に出さないでよ。そろそろ店に降りて、朝ごはん食べたあと、開店準備手伝ってくれる?」
「そうか、了解した」
カフェ・ベルメール、店の前。降りてきたカイムは、外に出てバスローブのような黒いガウンにスリッパのまま、懐に片手を入れてドアの前で空を眺めている。調理場からそれに気づいた建水は、急いで入り口のドアを開けた。
「おい、そのいかがわしい格好で店の前に立つな。朝ごはん食べたら、さっさと着替えてくれる?」
二人が、店内に戻ると、いつの間にか黒髪長髪、黒い着物で黒白鳥の羽を背負ったクロセルがカウンターに座って新聞を読んでいた。
「えーいいなー。カイムさん、パジャマなんか持ち込んじゃって、居候の準備万端じゃないですか。私も持ってきてここに泊まろっかなー」
「……あんた泊まりこそしてないけれど、初日の夜に来て以来、毎日毎日この店に入り浸ってるよね。朝ごはんまで食べるし、実質泊まってるのと同じじゃん」
「嫌だなあ、朝ごはんと引き換えに、お客が少ない店の賑やかしをやってあげてるんですよ。と言っても、お気遣いなく…私なんか、炊き立てのご飯と、塩じゃけと、味噌汁、それに季節の野菜を使った副菜が二品もあれば、もう十分……」
「いつも通り、卵かけご飯か、目玉焼きサンドだけどどっちにする」
「……卵かけご飯でお願いします」
建水は、カウンターに座ったカイムとクロセルに、それぞれ目玉焼きをマヨネーズで囲ったオープンサンドと、ご飯と生卵のセットを出した。
「で、カイムさん、今日の朝の風は何と言っていましたか」
クロセルは、目をつぶって料理に両手を合わせている銀髪の小さい同僚の方を見た。
「今日の日本の証券市場は、バイオベンチャー銘柄が急騰するそうだ」
「何の話だよ」
「彼の特殊能力の一つは、この世に生起するあらゆる現象の独り言を聞くことができるというものなんです。(注1)……カイムさん、建水さんに言ってなかったんですか?」
「……言ってもしょうがないだろう。能力ではない、欠点だからな。お前だって幻聴だって思ってるんだろう」
「まあ、微妙な線ですね」
「……それで、風が株価予想したと」
入り口が開く音。マスターが見ると、老人が一人立っていた。
「すいません、開店まだなんです……」
「わしがここにいる形而上学的原因は、お前さんであってわしではない。わしはオルロフに属するソロモンの悪魔の一柱、フォルカス。なんか悩みがあるんだったら、じいちゃんになんでも話してごらん。悪いようにゃーせん」
老人は、黄緑の右目と緑の左目を瞬かせて、口を開けて立ち尽くしているオーナーを見た。
「あんたが建水さんかい? 朝飯食いにきたで」
「一週間経って、ここはそんなに居心地悪くないし、ただ飯食べられることが分かったんで昨日、他の連中にも声かけたんですよ」
「余計なことするな」
老人は中国の四神獣が刺繍された白い着物を引きずって歩き、「どっこいしょ」とつぶやきながらカウンターの奥端の席に腰をおろした。そして辺りを見渡しながら、白い顎髭をしごいた。
「あーええ喫茶店じゃー。もう、ずーっとここにいられそうじゃのう、何百年でもこうしていられそうじゃー」
「勘弁してください…」
「ところで建水さん、あんた、わしらやその指輪の詳しい話やらなんやらは、もう聞いたのかい?」
老人はマスターが出した紅茶に頭を少し下げると、杖代わりに使っている刃に奇妙な文字の彫刻の入った槍をテーブルに立てかけ、翡翠の指輪をつけた手でカップを持った。
「聞いてないですよ。聞いたとて、でしょうけれど」
「わしらは悪魔じゃー。人間に召喚されると現れる」
「そうらしいですね」
「召喚には二種類あって、指輪を使っての召喚と、指輪なしでの普通の召喚があります。指輪を使うと十二柱呼び出せますけれど、指輪なしでは一柱だけです」
建水が新客のシワだらけの手に、湯気のたったご飯を渡している間に、クロセルが口を挟んだ。
「違いはそこだけ?」
「一番大きいのは、悪魔のやる気です。物を介さないで一柱だけで呼び出された場合の、悪魔の『この人に尽くすんだ』っていう一途な忠誠心たるや、いたいけなほどです。その一方、指輪を使って十二柱一緒くたに呼び出されて召喚者のために働かされる場合、仕事だからしょうがないっていう、諦念が主な原動力です」
「ただ飯食べといて、よくそういうこと平気で言えるよね」
「言っておきますけど、一柱だけ呼び出した時の悪魔の召喚者に対する思いって、相当重たいですよ。なんと言っても、あの声を聞いてしまったら…ねえ…」
クロセルが横にいる小さい同僚に振ると、彼はナプキンで口を拭ってから話を引き取った。
「我々が一柱だけ呼び出される時、自分にしか聞こえないしかたで、召喚者が自分の名前を呼ぶ声がするんだ。実は、我々の本当の名前を正確に発音するのは、どんな生物の発声器官でも無理だ。我々が普段使っている名前は、似ている音で代用しているに過ぎない。(注2)だがこの時だけは、本当の名前で呼ばれる。自分しか知らないはずの秘密の名前で呼ばれるんだ。召喚されるたびに、毎回ちょっとずつ違う音な気もするんだが、それでもいつも、それが自分の本当の名だと確信する」
「本当の名前で呼ばれた時、我々はどんな気分になると思います? 名を呼んでくれた人のおかげで、自分は今初めて存在しはじめたんじゃないか、みたいな。もう何千年も生きているはずなのに、毎回毎回そう思うんです。その人の声で全身が満たされて、その人のためならなんだってしようって言う気になるんです。この衝動には、絶対にあらがえない。もう、ほとんど恋って言っても過言ではない。
建水さんは、ここにいる我々全員があなたに恋している状態をお望みですか?」
召喚者はあらためて、子供と老人とおしゃべりを眺めた。
「お前らに、やる気がなくて本当によかったよ」
注
1 カイムの特殊能力の一つは、この世に生起するあらゆる現象を、独り言として聞くことができるというものなんです。
カイムは、生き物や石などの個物はもちろん、風などの現象も含めて色んなものの独り言を聞くことができる。全て日本語で聞こえるという突飛なものである上、実証不可能なので、みんなから幻聴であると言われており、自分でもそうかもと思っている。
独り言とは何か。独り言は、それが私にとって意味のある行為であるならば、自分で自分に語りかける状態にある。これは、「話す私」と「聞く私」というふうに分裂状態であることを意味する。さらに独り言は、言葉を使って行われる。言葉はどんなに厳密に定義されたものでも、常にいくつかの異なった解釈の余地を残す。そんな曖昧なものを使って自分の考えを自分で自分に語るわけである。
このように一見、周りくどく無意味に見えるにもかかわらず、独り言を言えるというのは、魂を持った存在の専売特許であり、それを言えるというのがその条件といっても過言ではない。(「私はなんということをしてしまったんだ」と大声で言えるロボットと、誰にも聞こえない声で自分で自分に語るロボットでは、後者の方が人に近いように見える)
以上のことは魂を持つ存在にとって、単一で透明な自己は存在しない、ということを意味している。「話す私」が話さなければならないのは、そうしなければ「聞く私」に伝えられないからである。「私」は、独り言を言うときだけ、二つに分裂するというわけではなく、もともと「私」とは二人ワンセットなのであろう。「私の本当の考え」などというものは、たとえ存在するとしても、いつだってもう片方に隠されていて、それが何なのか言葉にならなければ近づけもしない。つまり、その辺の他人が何を考えているのか予想するのと変わらない。
「私」とは、正体が決して完全に明かされることのない他者としての「話す私」と、その声を聞いて声の主の正体をつかもうとする「聞く私」の対話という、現象の別名である。
そしておそらくは「私」を根拠とする「魂」もまた、根本的な分裂を含んでいる。筆者の考えでは、その分裂は「二つ」ではすまない。
2 我々が普段使っている名前は、似ている音で代用しているに過ぎない。
ソロモンの悪魔たちの名前が、少しずつ音を変えて様々に伝えられているのは、このへんの事情が関係しているのであろう。