1.悪魔を雇った日④
「悪魔を雇った日」の最終話。悪魔がついに恐ろしい呪いの力を示す。
その頃、黄昏時の人通りの少ない道で、カフェ・ベルメールから出てきた女性達は、日本刀を持った銀髪の少年に行き先を阻まれていた。
「誰? この子」
「カフェのアルバイトじゃない? このネクタイ」
「銀髪だったっけ?」
「ちょうどよかった。おつりが三十円足りないんじゃないかって話してたのよ」
カイムは、しばらくじっと彼女らを見つめた。男の子の恐ろしいような冷たいような尋常ではない視線に当てられて、女性たちが硬直したところで、悪魔は日本刀を両手で前にかざし早口で呪文をささいた。
「いろはにほへと ちるぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみし ゑいもせす」(注10)
男の子は日本刀を下ろすと同時に姿を消し、しばらくすると遠くから大量の鳥の声が近づいてきた。
「ただいま」
「どこ行ってたんだよ」
「安心しろ。もうやつらは二度とこのカフェに来ることはないぞ。呪いをかけた。まもなく、私の声に応じて世界中から光速で飛んできた大量のツグミに襲われて骨も残らず食い尽くされるだろう。店から出れば、もう客でも神でもないんだから問題なかろう」
「いやいやいや、イラッとさせられたぐらいで、呪い殺すとかありえないから」
「そうか? しかし、これだけは言っておかねばならない。悪魔にとって、最優先事項は、召喚者の精神衛生だ。(注11)その目的のためであれば、他の人間の命などいくら犠牲にしてもかまわん。お前が地球上の人間が絶滅してくれなきゃやだって言うなら、その通りがんばる。まー、私一人だと根絶やしにするのに、百年はかかるなー。だが、我々全員がワン・フォア・オールの精神で、一致団結すれば十年ぐらいでどうにかな。今は核兵器やらなんやらが世界のところどころに設置されてるから、そこを集中的に攻撃すれば効率的に地球を壊滅させられるしな。そういうのがない頃は、我々全員でがんばってやっと……」
――我々全員?
建水に、一瞬疑問が生じたが、それどころではないことを思い出した。
「わかったわかった。とりあえず呑気に話している場合じゃないから。確かにあのひとたち、クソ見たいな客だけど、殺さないで!」
二人そろって店を飛び出す。赤い空にはすでに、たくさんの小鳥の影が声を上げながら横切り始めている。悪魔と召喚者は、鳥たちの後を追って走り出した。
「呪いは取り消すことはできないから、書き替えねばならない。書き替える呪いは…」
悪魔は、走りながら腕を組み目をつぶって考えた。
「今後彼女らは、スーパーで鶏肉を買うたびに筋っぽい部位に当たり続ける、ということでいいか」
運動不足の人間は、息を切らしながらどうにか返事をした。
「……そんなことしたら……ハア……近所のスーパーの……ハア……悪評がばらまかれる……」
「お前、疲れてるのか?」
悪魔はちょっと考えた後、恥ずかしがってるように下を向いた。
「……建水? 出会って二日でこんなこと頼むのも、アレなんだが……」
「何?」
頭が酸欠で、相手の態度に不審を抱いている場合ではない。
「もしよければ、その……私の手を握ってくれないか?(注12)」
「ああ?」
「いや、手をつないでもらえれば、私の光速移動という能力を使って、二人で一瞬にして現場に急行できるのだが」
「ハア……早く言え」
公園で彼女たちの影を遠目に確認できた時、梅雨の晴れ間の夕焼け空は、すでに小鳥たちの影と甲高い鳴き声で、覆われていた。その下には、急降下で体当たりしてくる小鳥たちから両腕で身を守っている人間の影。一人は立っていられずに、しゃがんで顔を伏せている。
建水は、自分の右肩を掴んで悲鳴を上げた。
「腕が抜けるように痛い」
「光速で引っ張られたんだから、しょうがないだろう……本当は抱っこさせてもらうのがいいんだが、知り合って日が浅いのに、いくら何でもそれは照れちゃうからな……」
「それどころじゃない、早く、早く」
建水は少年の腕をつかんで揺すった。
「ま、急がなくても、そうそうは死なんだろう。ちょっとは痛い目に合わせた方が、今後の店のためにもなるしな。呪文……なるべく長いやつ……まあ、いろはかるた作戦(注13)しかあるまい」
「ギャー」
頭上で鳥の声がした瞬間、突然悪魔は一瞬にして日本刀を抜き、一振りで何かを叩き落とした。建水の足元に落ちたのは、一刀されたツグミの死骸である。
悪魔は日本刀を鞘におさめると、息を呑んで自分にしがみついてくる召喚者をちょっと見て嬉そうにしつつ、もったいつけて両手で掲げた。そして咳払いの後、詠唱を開始した。
「いー、犬も歩けば棒にあたる。ろー、論より証拠、はー、花より団子…」
「何その呪文……」
召喚者があっけにとられている中、悪魔の詠唱は長々と続いた。
「ぬー、盗人の昼寝、るー、瑠璃も針も磨けば光る、をー……え? を?」
「はやくして……」
「をー……をにに金棒」
悲鳴のような声を上げながら、一匹のつぐみが再び二人に向かって正面から突進してきた。薄暗がりに煌く日本刀。悲鳴が途絶えて二つに切られた何かが下に落ちる。悪魔は刀を再びかかげた。
「……どこまでやったかな……えっと……るー、瑠璃も針も磨けば光る、をー……え? を?」
「それ今やったとこ!」
建水は叫んだが、もはや恐怖と焦りで、何がなんだかわからなくなっていた。
遠くでは小鳥たちの影が急上昇と急降下を繰り返しながら、よろめきつつ移動する三つの人影に向かっていく。一人がついに、つまづいて倒れた。
「もうなんでもいいから、お願い早くして……死んじゃう、死んじゃうよ」
見ていられなくなった建水はバイトの制服のベストをつかんで、それに涙を染み込ませつつ叫び続けた。
「……のー、喉元過ぎれば熱さを忘れる、おー……えーと、お……おにに金棒……」
取り乱した建水にとっては、永遠とも思える数分が過ぎた。
「……せー、急いてはことを仕損じる、よし、次で最後だ。すー……えーっと、す……ここまできて思い出せん……す……す? もういい……すし屋の牛丼!」
呪文が終わった悪魔が刀をおろすと同時に、地面から空に吹き上げるような風が起って、鳥が騒音とともに四方八方に逃げて行った。後に残ったのは、赤く焼けた空と地面に散らばった小鳥の死骸。
「……やっぱり、たまにやっとかないと忘れるな」
建水は、自分の周囲に落ちた血塗れの羽毛の塊やら、中空を見つめる、つぐみのちぎれた頭などを呆然と見つめていたが、急に崩れ落ちて四つん這いになり少し何かを吐いた。
「おい……どうした。大丈夫か」
「大丈夫じゃないっ」
自分の怒鳴り声でどうにか正気を取り戻した彼は、震える足で立ち上がり、動物の亡骸を踏まないように、三つの人影に近づいた。大泣きした後な上に、全てがオレンジ色でよく分からないが、皆立って動けるようである。彼は影に向かって、聞こえるか聞こえないかくらいの声をかけた。
「……どうも、カフェ・ベルメールです。……どうかこれからは、皆さんでまとめて来ないで、一人づつバラバラにご来店ください……ご自身のためにも……」
子供の悪魔と男は、灯り始めた街灯でできた長い影を落としながら、並んで帰路についた。長い沈黙ののち、先に口を開いたのは建水である。
「ロプロプ様って、やっぱりお前のことなんだな……」
少しの間。
「あの編集者たちが話していた、そいつの目撃情報を聞く限りでは、七割ぐらい身に覚えがあるな」
子供はさらに間をおいたあと、続けた。
「……建水、これだけは言っておかなければならない……悪魔を召喚してしまったということは、お前は好むと好まざるとにかかわらず、呼吸ひとつで他人の生命を奪うことができるようになってしまったということだ。しかも自分の手を汚さずにな。完全犯罪などやりたい放題だ。もはや、お前は人間社会の道徳に従う必要はないし、他の人間どもと同じようにはそれを破るのを恐れることはできない……それが、お前の精神にどういう影響を与えるのか、私には分からない。我々の願いは、召喚者の安らかな人生だ。さっきも言ったように、私はそのためにすべてを犠牲にしてもかまわない……だが、私は召喚者が本当は何を願っているのか、いつも読み間違える……前回も大失敗した……」
――どう答えたらいいんだろうか。
悪魔の方を見ると、寂しそうな、申し訳なさそうな顔をしており青い瞳が少しうるんでるように見える。召喚者はため息をついた。
「まあ、おいおい考えていけばいいよ。とりあえず俺の害になるからといって、人間であろうと、動物であろうと、無闇に危害を加えないように」
言い終わると建水は急に立ち止まり、子供に片手を差し出した。
「これからよろしくな」
人間の手を見た悪魔は、一瞬目を丸くしたが、すぐに少し笑顔になって、手をとった。
「ああ、よろしくな」
「ところでさっき、結局どういう呪いに書き替えたの」
「今後彼女らは、美容院から出るたびに、毎回頭に鳥の糞が落ちるようになる、という呪いだ」
「……まあ、いいか」
店のドアを開けると、カウンターに誰かが座っていた。店主は、お客だと思い込んだ。
「お待たせしてすみません……」
黒髪の長髪で、美しい年齢不詳の男性である。赤い半襟が見える黒い着物に、黒い羽織りもの。羽織りものの裾付近には、ハスの花の派手な刺繍。そして、背中には漆黒の翼を二枚背負っていた。
新客は、黒い右目と緑の左目で、マスターに流し目を送った。
「私がここにいる形而上学的原因は、あなたであって私ではない。私の名はクロセル。オルロフに属するソロモンの悪魔の一柱。あなたの疲れた心と身体を癒します」
「言ってなかったかもしれないが、お前の指輪は七十二柱のソロモンの悪魔のうち、オルロフに属する十二柱の悪魔を自由に呼び出せる。ま、呼ばなくてもみんな勝手に来たり、帰ったりするが。ずっと張り付きになるお守り役の私以外はな」
「さっそくですがコーヒーをいただけますか。こちら喫茶店とうかがったのです」
「……こんなのが十二匹(注14)も……」
注
10 「いろはにほへと…」
この物語における、呪文のいいかげんさについて、考察してはならない。それは、高度な形而上学を理解できる、高次元体にのみ許された領域である。
11 悪魔にとって、最優先事項は、召喚者の精神衛生だ。
悪魔にとって価値あるものの序列
第一位 召喚者(指輪によらない)
(超えれらない壁)
第二位 召喚者(指輪による)
第三位 自分
第四位 仲間の悪魔、いい感じで接してくれる人間、懐いてくる動物
(超えられない壁)
最下位 その他の人間、虫けら、社会
悪魔にとって、召喚や会話等によって、直接関係を結んだ人間と、そうでは無い人間の価値は、まったく違う。これを言い換えれば、二人称で呼び合う関係か、その他大勢として、三人称で言及されただけの関係かの違いと言える。
ちなみに、作者の考えるところでは、この二人称による直接の呼びかけこそ、神が人間に対して魂という虚像を吹き込んだ手口と多いに関係している。
12 私の手を握ってくれないか?
悪魔にとって人間との身体的接触は特別な意味を持つ。相手が召喚者ならば、尚更である。
そして我々の主人公は、悪魔の中でもとりわけ感じやすい方である。
13 いろはかるた作戦
いろはかるた作戦とは、とある事情によって、詠唱時間を稼ぎたい悪魔が、いろは歌を一文字唱えるごとに、その文字からはじまることわざや慣用句を言うことによって、時間を引き伸ばす作戦である。
主に、悪魔と対峙した勇者たち(自称)の類が、出会い頭に半殺しにされた仲間の遺言を聞いている間や、やっと看取り終わったと思ったらこちらに振り返り「俺の剣を受けてみろ……この剣には亡くなった仲間の魂と、平和を願うすべての人々の思いが……」等の決め台詞を延々と吐き始めた時など、「この時間にさっさと殺ればいいんだけど、なんとなく、邪魔しないほうがいい気がする」という悪魔なりの気遣いから、欠伸を封じ、悪役としての決め顔を維持するために、小声で使用される。
14 12匹
日本語において、悪魔は自分たちのことを、一柱二柱(ひとはしら、ふたはしら)と数える。しかしこの通り一般への浸透率は、いまいちである。