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1.悪魔を雇った日③

悪魔vsおしゃべり女性集団

ランチを終えると、店はお茶の時間帯まで、お客が途絶える。(注9)

 カフェ・ベルメールは、カウンターの反対側の壁が、本棚になっている。並んでいる本は、文学、画集、バンド・デシネなど、先代と現在の店主の趣味が反映されている。悪魔は、後ろに手を組んで、本棚をしばらく眺めた後、『春と修羅』を取って店内で一番立派な一人がけ用のソファ席に座って足を組んだ。

 店主は、調理台にもたれて、砂時計を何度もひっくり返しながら、椅子にふんぞり返っている少年を見た。


――こうしてみると、一応、子供だよな……。


 建水の頭に、三年前に両親とともに事故で亡くなった、弟の幼い頃の姿がよぎる。あの指輪は寂しそうな自分に向けて、神様が自分に与えてくれたんだろうか……。だが、彼は自らを悪魔だと名乗った。ひょっとしたら彼は、家族の中で自分だけ生き残ったことに対して感じている自分の罪悪感が作り出してしまった存在なのかもしれない。

 カイムという少年は自分にとって救いなのか、それとも破滅への導きなのか、どうやって判断すべきなのだろうか。それとも何もわからないまま、いつの間にか破滅への道を歩かされるのだろうか。

 悪魔はいつの間にか、本を伏せてソファに寄りかかり、目を閉じていた。そして、ツノと鋭い犬歯を出して微笑んだ。


―笑ってるし……なんか企んでるんだろうか……。


 薄目を開けた時に、雇い主が様子を伺っていることに気づいた悪魔は、慌ててツノを引っ込め、姿勢を正した。

「あ、失礼。あまりにも暇だったから、エッチなことを考えていた」

「……そう……」

「私が悪魔っぽい決め顔をしている時は、大体、エッチなことを考えている時だ」

 そこで、急な欠伸の衝動にかられた建水は、考えるのをやめて、両腕と背中を伸ばした。

「カイム〜。何か面白い話して〜」

 悪魔は、腕を組んで少し考えた。

「……よし、では『形而上学』の中で、アリストテレスがあらゆる存在の第一のものとよぶ『不動の動者』においては、理性、つまり思惟するものと、思惟対象、つまり思惟されるものが完全に一致しているとしたことと、それを彼が善もしくは快楽と呼ぶことについて、今から論じようと思う」

「一分前までエッチなこと考えてたくせに、よくいきなり高尚な話題に切り替えられるよね。もっと気楽に聞けるのにしてよ」

「……では私と友人のクロセルが、知恵の輪一個で五時間盛り上がった際の会話を、今からここで再現しよう」

「……もう……聞く前からつまんないじゃん」

「……そうか……じゃあ、私の好きな宮沢賢治の『春と修羅』について……」



 ドアベルの音。

「いらっしゃいませ…」

 喋りながら入って来た三人組の女性客である。姿が現れた瞬間に、店内を占領する甲高い声。

「山田さんの旦那さん、趣味でけん玉始めたんだって」

「あら〜それなら川畑さんの旦那さんだって、石鹸アートはじめたわよ」

「それで、一個十万円するけん玉買ったって」

「まあ、カステラが五十本買えるじゃないのよ」

 そして笑い声。

 これらの声に消されて、店主の挨拶は通らなかった。マスターのところに水さしを取りに来た店員はささやいた。

「……おい、どうしてカステラに換算したんだ?」

「……知らん……わざわざ俺に聞くな……」


 アルバイトはしゃべり続ける新客の前に、お冷を音を立てておいた。

「注文はなんだ」

 当然、話声に消されて返事はない。

「注文はなんだ!」

 やっと声が通って、一瞬だけ静かになった。

「あら店員さん、いたの?」

「あなた新人でしょ……。なんなのその目の色。カラーコンタクトレンズ? どこの子かしら?」

「私はマスターの親戚で、夜間の学校に通いながら、昼間はカフェで働いている日本人の父とフランス人の母を持つ高校生だ」

 客の一人は、店員を疑わしそうに上から下まで見た。

「あ、そう」

「オリジナルブレンドティーひとつ」

「ほかは?」

「ひとつでいいわよ。カップは三つ頂戴」

「はあ?」

 カフェ・ベルメールでは、紅茶を注文するとポットで提供される。その裏をついた、彼女らの節約術である。

 悪魔が、カウンターを見るとマスターが「いいから」という口の動きをしながら手招きしていた。

「……あのひとたち、週二ペースで来るんだけど、もう色々諦めているんだ……おしゃべりだから、下手に入店を断って、悪評をばら撒かれても困るし……」


 二時間後。

「そうそう、お宅、余ったお大根どうしてる?」

「うちはうすーく切って、ごま油で焼いて……」

「うちはね! うちはね!……」

「そういえば、むかーし息子の学校の上履きにコオロギが入ってて……」

 相変わらず騒ぎ続けるお客を眺めながら、悪魔はマスターにつぶやいた。

「あいつら、心底どうでもいい話を、あのテンションで二時間だぞ。逆になんかすごいような気がしてきた」

「……おまえも知恵の輪一個で、五時間盛り上がった過去があるんだろ……」

「いや、悪魔と人間の体力は違うからなあ。それに我々だって、三十分休憩を二回挟んだし、そもそも話声なんか、あの十分の一くらいだった」

「この前あの声を、騒音計で測ったら、電車が通りすぎるときのガード下と同じだって」

「人間の聴覚に異常をきたすレベルではないか。この店は本当にロクな客がいないなあ。

 あ、あの男性客『春と修羅』を読んでる。この騒音を聴きながら読みたい本じゃないんだがなー。気の毒になってきた」

 悪魔が、この状況で勇敢にも入店した男性客の方を見ていると声が飛んできた。

「ちょっと、店員さん。ぼーっと突っ立てないで、ポットに追加のお湯くらい持ってきたらどうなのよ」

 店員は、ポケットの時計に手をかけた。

「よし、あいつらを私の力で呪い殺そう」

「待て待て待て」

 マスターは慌てて手を伸ばして、バイトの袖をつかんだ。

「冗談でもやめて……」

「何を言っているんだ。私はやる時はやる悪魔だ」

「〈お客さまは神様です〉とも言うし……」

「あいつらが本当に神なら、悪魔の私としては、いよいよこの場で始末したいんだがな…」



 それからさらに一時間後、お客はすべて帰り、ようやくカフェは静けさを取り戻した。マスターはため息をつきながらテーブルを拭きつつ、新人を呼んだ。

「カイム〜。ねえ。……あれ、どこ行ったんだろう」


――しまった……いやな予感。



9 ランチを終えると、店はお茶の時間帯まで、お客が途絶える。


 この客入りで、どうやってこの店の経営は成り立っているのか。その疑問は、惑星の運行と、太陽と月の位置を、形而上学的に考察することで解が得られる。

 また、店自体が、先代からマスターが相続した不動産であるため、テナント料がかからない、という事情を考察することでも、ある程度の解が得られる。



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