5.No demon,no life.(Because,he gives you death.)③
天使の登場。悪魔が暮らす部屋。
再び日常が帰ってきた後も、僕には、もともと分裂していたこの世界の現実感は相変わらずでした。はかない色彩の世界と、気づいた時にはすでに失われている音の世界。だってそうでしょう。音だって景色だって、実際起こっている時と、それを僕が認識する時とでは、どうしたって時差がある。つまり僕が見たり聞いたりしているものは、すでに失われたものばかり。こんなものしか認識できないのに、地に足をつけて生きているなんて言えたもんじゃない。そもそも地面そのものがあるんだかないんだか。
僕は、このはっきりしない世界の中で、自分の手足やら口やらが勝手に動いて、色々と仕事をこなしていくのをぼんやりと眺めているだけの日々を送りました。
しかし今の僕には、呪いと死があります。現実の味けなさに耐えられなくなると、僕は部屋に引きこもって、鳥の羽を吐きました。そして鮮明な悪魔の姿を認識した直後だけは、世界の輪郭がくっきりするような気分になれるのです。
こうした傾向も大学の入学試験が終わるまではまだましでした。それにどんな意味があるのかはともかく「合格」という明確な目標があるうちは、それに向けて行動を律するというだけで、何か一つのものを手にしているような気分になれました。ところが目標の達成によって、それが終了してしまうと同時に、いよいよ全てが霧散してしまったのです。
ここでようやく、僕の天使の登場です。
大学入学とともに、僕は一人暮らしを始めました。ある時僕は、母の真珠の結婚指輪を手の中でもてあそびながら、開けた障子の外を眺めていました。この指輪は火事の後、僕が入院している最中、いつの間にか僕の枕元に置いてあったものです。おそらく誰かが、形見として置いてくれたのでしょう。その親切な人の意思に反し、僕は指輪を、自分と母の思い出としてではなく、悪魔が自分に投げて寄越した死の象徴として大事にしていました。その時の僕は久々にとても穏やかでした。相変わらず世界は分裂し続けているものの、それで別に構わないじゃないかと思えたのです。世界なんて誰のものであっても構わない、世界がこの薄紙を何枚も重ね続けてるような幻想でできているとしても、受け入れる用意が自分にはできている、そう思えたのです。あるいは、死ねないことに疲弊していたのかもしれません。
心地よいぼんやりが頂点に達した時、背後で声がしました。
「喜ぶがいい。いるだけで尊い私がここに現れたからには、お前の人生は幸福が約束されたも同然だ。私の名は大天使レミエル。今後お前は、私の指示にしたがうことだけ考えて生きればよい。簡単なことだ」
振り向くと、腕を組んで背中を逸らした男の子が、こちらを見下ろしていました。背中には、真っ白な白鳥のような羽を二枚背負い、白い平安貴族のような衣装。髪だけは黒く、今風の短髪でした。僕は驚いて声を上げました。
「あーちなみに、私は、一度呼び出されたら、お前が人生を終えるまで帰ることができない。衣食住その他の面倒はよろしく頼む」
この唐突の出来事に対して、僕の順応は早かったと思います。それは、彼の瞳が、黄色と青だったからです。つまり、あの悪魔と同じ色だったからです。
東京の一等地に建てられた屋敷。レンガづくりの建物に、噴水のある大きな庭。ある、たまご製品を扱う会社の経営者が住む屋敷である。その企業は今や、日本一の市場占有率を誇る。その家の最上階の角部屋に、銀髪の子供の姿をした悪魔が住んでいた。
ベッドとクローゼットと書き物机という最低限の家具。それからなぜか蓄音機とレコード。この部屋で彼は、出窓の窓台に片足を立てて座り、庭の噴水を眺めていた。
――関係は悪くなる一方。私はよくやっているつもりだった。これまでにおまえが言外に示した希望は、すべて汲み取ってかなえてきたつもりだった……ちょっと、やりすぎだったかもしれないが……
屋敷自体は広いにもかかわらず、彼は十年以上この最上階の角部屋だけで生活し、この部屋と隣接している主人の書斎以外、入ったことはなかった。
――ジュリエット……結局、私はおまえといる地獄だけで満足せずに、別の地獄を求めて悩んでいる……いや、許さなくていい……おまえに許されたら、私は一人になってしまう……
さすがに、この屋敷の使用人たちは、彼の存在を知ってはいたが、雇い主から「親を亡くした子を預かった」としか聞かされていなかった。そしてそれ以上の質問は、暗黙のうちにしてはならないことになっていたため、皆、この国籍不明の少年のことを見て見ぬふりをしていたのである。
――人間が本当は何を望んでいるかなんて、私には永遠に分からないんだろう。だっておそらく、本人だって分かってないんだろうからな。おまえは最近、私の顔すら見なくなったな。そんなに、私は怖いんだろうか。私は、おまえの嫌がることなど、絶対するつもりはないんだがな。
そこで彼はふと、何かを思い出したのか顔をしかめた。
――そういえば今日、街中で物陰からこちらを伺っていたあいつ……面倒なやつを見つけてしまった……こちらとは何の利害関係もないだろうし、関わりたくはないが……あいつら……割と、かまって欲しがり屋だからなあ。