5.No demon,no life.(Because,he gives you death.)②
火事の後の顛末。
主人公にかけられた呪い。
(及び、どこかの誰かが、自分に取り憑いた何かにかけた言葉)
あの火事は僕の父が築いてきたもののほとんどを奪うものでした。僕がいた自宅だけでなく、それぞれ離れたところにあった父の経営する養鶏場、卵を加工する工場、すべてが燃えてしまったからです。それにもかかわらず、新聞はこの火事を単なる火の不始末と報じました。大量の鳥は、最初から存在しなかったことになっていました。
あの火事によって僕は両親と生まれた家を失いました。両親どころか、たくさんいた使用人も、乳母も亡くしました。喪失感や彼らに対する哀悼はもちろんありましたが、あまり涙は出ませんでした。僕を育ててくれたのは、忙しい父母ではなく頻繁に入れ替わる乳母でしたから。何より、両親は明らかに、僕よりもずっと優秀で跡取りでもある兄を大切していました。結局、僕に対する両親の愛情は、最後まではっきりとしないままでした。突然のことで、実感が追いつかなかったのもありますが、この時よりも、どちらかと言ったら縁日で買ったヒヨコが死んだときの方が、対外的に見れば大騒ぎしていたと思います。
僕のことを見ようとしない両親と、何らかの絆が結ばれる前に代わってしまう乳母たち。彼女らが一番愛する家族は、いつも別のところにいるのです。僕は人生において、ついぞ誰かの一番になったことはなく、彼らの最も愛しい視線は常に、他の誰かに注がれていました。
彼らの無関心をいいことに、次第に僕は、例の土蔵遊びをはじめとした、空想や妄想の世界に遊ぶようになりました。僕が本を参考に作ったお化けや妖怪は、半透明の幽霊のまま、形を変えながら僕の世界を漂い、誰とも共有されることがありません。彼らに囲まれていると、いつの間にか自分も半透明になって、誰にも気づかれないまま、変形を始めるようでした。
一体、この世界のどこに、半透明の僕が、すがれるような確かなものなどあるのでしょうか。僕の世界は、僕の経験の積み重ねでできています。そして、経験ほど不確かなものはありません。
経験は、常にそのときの気持ちとごちゃ混ぜになって生起して、通りすぎたあとでもう一度その経験を思いだそうとすると、今度は思い出そうとした時の気持ちが混ぜられてしまって、別のものに変形してしまいます。
しかもそれらは、生起している最中ははっきりせず、それがどんなものだったか解釈できるのは、いつだって少し後になってからです。つかみどころのなさは夢と変わりありません。
「私の経験」「私の気持ち」という所有権の主張。「私の」という刻印を押せば、それらに普遍の形を与えた気にはなれますが、実際には、「私」とやらの手元に残り続けるものなど何もないのです。
それにそもそも、一分前の「私」と今の「私」が同じだなどと誰が保証してくれるのでしょうか。一分前の私が何を見て何を感じたのか、もはや永遠に、曇った膜を通して外から眺めることしかできない以上、彼はすでに完全に他人ではありませんか。一体誰がその二つの「私」の結びつきを保証してくれるのでしょう。半透明である僕に、そんな貴徳な人が現れるわけないのです。
さらに言ってしまえば、「今の私」だって本当にあるのか知れたものではありません。何しろ経験は、少し後にならなければ判然としないのです。捕まえたと思った時には、つねにすでにそれは「過去の私」、つまり他人です。
そんな片時も形をとどめない僕の残骸たちが通りすぎるだけの世界の中で、例の出来事だけは僕にとって違うものでした。記憶にいつ襲われても、はっきりしていて普遍で、いつも同じようにそこにあるのです。顔に触れる熱気も、自分に注がれる視線も、あの子のまつ毛の本数もいつも同じだし、思い出すたびに、背中が冷たくなることも、ひどい動悸がすることも、膝から下の感覚がなくなることも、涙が滝のように流れることも同じです。彼と見つめ合った、あの祈りの瞬間ばかりは、世界が彼と僕のものだった。あの死が与えられそうになった瞬間だけ、僕には、僕から奪われようとしている世界が、それが無に帰した後と明確に線引きされ、完璧な形で浮かび上がったのです。
この時僕は、生まれて初めて、主役として世界に君臨することができた。数多の幽霊たちでしかない僕が、自分で自分を顧みることができる一人の存在として、文章が書けているのも、この祝福か呪いの瞬間に回帰し続けることによってなのです。
しかしこの記憶を反芻し続けない限り、世界はまた曖昧で千変万化する有象無象に変わってしまいます。僕の持ち物を管理しているのは、きっと僕ではなく、僕の生殺与奪の権を握っている何者かでしょう。
以上を踏まえて、僕が信じられるのは一つのことだけです。それは「この世界は、僕以外の誰かの夢である」というものです。これを証明することが僕の一生の仕事です。一つの真理と思われるものにすべてを捧げるのは、大半が蒙昧で死だけが鮮やかな世界の中で、正気を保って人生をやり過ごすための、とても良い方法だと思うのです。
これを教えてくれたのは、僕の天使です。比喩ではありません。本当に本物の天使です。彼の名はレミエルと言います。
しかしレミエルとの出会いを語る前に、火事の後の顛末と、僕にかけられた呪いについてお話ししなければなりません。
「私の今度の妻が、お前を雇いたいんだそうだ。男娼としてな……最悪だろう? 悪魔と寝たいだなんて。私ですら、お前に手を触れないように気をつけているのにな」
火事の後、結局僕は、子供のいない叔母夫婦の家に身を寄せました。新しい同居人たちは、僕が寂しがっているのではないかと心配してくれました。しかし、家族と呼ばれる人々に対する寂しさは、すでにありません。
兄は、たまたま仕事で家を離れており、難を逃れました。前述の通り、父の会社の施設もほとんどが焼けてしまいましたが、他の会社の株式や所有している不動産の権利書などの財産は、かなり銀行に残っていました。
兄は、会社を倒産させて残った財産を兄弟で分け合ってはどうかという、周囲の意見を押し切り、会社を再建させる道を選びました。
「父さんと母さんを取り戻せなくても、二人のすべてだったものは取り戻せる。これが残された私の使命なんだろう」
まだ学生である、僕には関係のないことです。いざ就職に困ったら、お世話になれるという保証があるのは、ありがたいことですが。
「お前が怒るのも無理ないよ……怒ってるんだろう? カイム……自分の空虚さを埋めるために、悪魔のお前まで利用しようとしてるんだからな……あの妻には、私も困っているんだよ……会社のお金もだいぶ横取りされてしまったし……どこに隠したんだろうな……」
こうした僕を取り巻く環境の諸々の変化よりも、もっと僕の人生に決定的な影響を与える出来事がありました。僕にかけられた呪いの発覚です。
あの火事の数日後、僕の入院先に、二人の警察官が来た時のことです。彼らは、唯一の生き残りである僕の証言を取りにきたのです。一人が、手元のメモ帳に視線を落としたまま聞きました。
「あの晩見たもので、何か覚えていることはある?」
――見たもの……大量の鳥の死、銀髪の少年。
あの時の光景が、一度に僕を襲いました。心臓の音がだんだん大きくなってきて身体の中で暴れているようでした。背中が冷たくなる。息が止まって何かがのどに詰まっているようです。ようです? いや、実際に何かがある。何か生き物のようなものが口と鼻の中をくすぐっています。懐かしい家畜の臭い。
僕が音を立ててむせると、茶色い塊が口から出て、ほぐれて白い布団に散らばりました。
鳥の羽です。あの時火の中に吸い込まれていった彼らが、散らしていったものと同じものです。
自分が吐き出した唾液まみれの生物の痕跡を見ると、膝の裏あたりをを起点に、爆発的な恐怖と嫌悪感が身体中を駆けました。明らかに取り乱して、むせるのも構わず、口と鼻の中に指を突っ込む僕を見ると、警察官は顔を見合わせて「具合悪そうだから」と言いながら、そっと席を外してしまいました。
――これは呪いだ。
よだれと、嗚咽で流れた涙を布団に落としながら思いました。
――あの子はやっぱり悪魔だったんだ。僕は、悪魔に呪いをかけられたのだ。
この呪い、つまりあの時の記憶を言語にしようとすると同時に、呼吸器官に鳥の羽が湧いてくるという呪いの発覚後、僕は人に例の件について話すのを諦めました。
「あいつは、自分から悪魔に取り憑かれてしまったのかもしれん。いっそ死んでしまった方が、妻のためになるんだが…まあ、それができるのは、籠絡した本人である当の悪魔でなければ無理だろうが……」