1. 悪魔を雇った日①
ご覧いただき、ありがとうございます。
本作には注がついております。
おすすめの読み方といたしましては、まず注は気にせず本編をお読みいただき、その後、忍耐力の許す限り、まとめて注にお付き合いいただくというやり方でございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
西暦二千xx年 日本。
閉店直後のカフェ・ベルメール。東京郊外にある、紅茶専門店である。
最後のお客が帰った後、経営者の水屋建水はいつも通りテーブルを拭いていた。接客から調理、後片付けまで一人でやっていると流石に疲れる。とはいえ、人を雇うほど忙しいわけでもない。
――ちょっと手伝ってくれる、友人のような人がいるといいんだけどな。仕事中に話し相手も欲しい気もするするし。…そりゃ、家族だったらなお良いけど。
ふと、考え事に気を取られて、ナプキン入れを落としてしまった。木製品の音に混じって、するはずのない金属を落としたような音がする。床にかがむと、指輪である。金色の太い指輪で、かなり重い。年代もののようで、表面は細かい傷で光沢がなくなっており、角はすり減っている。天辺に一筆書きの変わった六芒星が彫刻されており、それを押すと台座がひっくり返って、半球型の緑色の宝石が現れる仕掛けがついていた。
彼は何となく、これを人差し指にさした。
――いつから、こんなところに入っていたんだろう。誰かの忘れ物だよな。
指から外して裏返すと、そこにあった刻印を見てゾッとした。
「KENSUI MIZUYA」
自分の名前だったからである。
絶対に自分が手に入れたものではない。こんなものを買って忘れるわけがない。たまたま落とした人が、同姓同名だった? そんな偶然にすがっていいのか? 冷や汗が背中を伝うのを感じながら、恐る恐る物音一つしない店内を見渡す。レジ、カウンター席、自宅へ続く階段、高価なティーカップ用の飾り棚、お客用の本棚。異変はない。とりあえずホッとして、落ちた紙ナプキンを拾い始めると背後で声がした。
「わたしがここにいる形而上学(注1)的原因は、お前であって私ではない。私の名はカイム。オルロフ(注2)に属するソロモンの悪魔の一柱。お前の中に巣食っている消したい感情は何だ。私がすべて引き受けよう」
「ギャアアアアアー」
建水は、声と同時に叫んだため、声が何を言ってるのか全く聞いていなかった。
ゆっくり振り返えると十四、五歳くらいの少年である。銀髪、瞳の色は左が黄色で右が青、左耳には瞳と同じ色の青い宝石のピアスと孔雀の羽のピアス、右耳にもたくさんの小さいピアス、孔雀の羽が刺さったシルクハット、地面に鞘ごと突き立てた派手な日本刀。
色々とおかしいが、とにかく一応子供ではある。華奢だし、人間の子供ならいざとなったら勝てそうと予想した成人男性は、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……誰ですか」
「日本語しゃべるんなら、わかっただろう。聞いてなかったのか。私は悪魔……」
男の子はシルクハットを取って、頭を少し下げると、額の少し上に二本の青い角を生やして見せた。
「ギャアアアアアー」
人間ではない。それなら、話は別である。
「魂は取らないで」
「とにかくもう一度落ち着け」
悪魔は角を引っ込めて、再びシルクハットを被った。
「私は魂は取らない。そもそも、私は魂の存在にどちらかと言ったら懐疑的なのだ。(注3)時として、我々が英語でspiritsなどと呼ばれることについても、慎重に考えねばならんと思っているくらいだ」
「じゃあ、何取りにきたの」
「何も取らん。お前が渡したくないものは、髪の毛一本取らないし、危害も加えん」
「じゃあ、何しにきたの」
少年は再び、日本刀の柄の頭に両手を重ねて、顎で人間の手元を指した。
「その指輪だ。その指輪で、お前が私を呼んだんだ。お前の責任だ。だからお前はこれから一生、責任を持って私の衣食住その他の面倒を見なくてはならん」
建水は、涙目になりながら呼吸を整えた。
「え、どういうこと。なんで俺、悪魔の扶養義務を負わされてるんの」
その後、男の子が全く帰る気配がないので、とにかく一度詳しい話を聞くことにした。オーナーが急な客をカウンター席に案内すると、悪魔は重そうな黒いロングコートとシルクハットを脱いで、一つの席に置き、そこに日本刀も立てかけ、隣の席によじ登って座った。
――敵意はないみたいだけど、殺傷能力の高そうなあの日本刀だけは注視ししておこうっと。
建水は紅茶のキャニスターを開けつつ、派手な日本刀を、横目で確認した。
ホーロー製の白い鍋にお湯を沸かして火を止め、アッサムの丸い茶葉を入れてふたをして蒸らす。葉が開い頃、ふたを開けると、独特の甘い香りが昇った。再び火をつけ牛乳を入れる。茶色と白のまだらになったお茶をスプーンでかき混ぜ、細かい泡が立ってきたところで火を止める。それからまたふたをして、砂時計をひっくり返す。
オーナーはその慣れた作業と並行して、相手の言い分に耳を傾けた。
彼が拾った指輪は、「ソロモンの指輪」と呼ばれる悪魔を召喚(注4)する道具であること。呼び出す条件は、裏側に自分の名前を彫って、指にはめること。条件を満たすと、自動的に一人出てくるので、そいつの扶養義務が発生する。そいつは、召喚者が死ぬまで帰れないからである。そのかわり悪魔は、召喚者に絶対の忠誠を尽くす。
「と言っても、我々には一日一時間の休憩と年間十日の休暇は認められているので、その時は帰らせてもらうがな」
建水が、厚手のマグカップにミルクティー注いで出すと悪魔は「ありがとう」と言って、目をつぶりしっかり両手を合わせてから、丁寧にカップを持ち上げた。そして、牛乳と紅茶の香りの湯気が立つ、やさしい色の水面をしばらく眺めた後、慎重に口をつけた。男の子が、とても美味しそうにお茶を飲むことに、喫茶店オーナーは目を細めて気を良くした。
「ねえ、君、カイムだっけ? 悪魔って何食べるの?(注5)作れそうなものだったら、作ってあげるよ」
「私が好きなのはりんごを使ったお菓子だな。アップルパイとかな。できればフランス産のリンゴと発酵バターを使って、生地は七百二十九層に仕上げたやつが……」
「……いや、もっと簡単に作れそうなものにしてくれるかな……。悪いんだど、リンゴは今無いんだよ。甘いもの好きなの? パンケーキ作ってあげるよ」
建水は、使い込んで油が染み込んだ鉄製のフライパンをコンロに置いて、調理台の下から粉を出した。
「pan cakeだと!」
悪魔は、なぜか急に大声で叫び、身を乗り出した。
「いやーついにその英単語が日本でも普及するようになったかー……ここ、日本でいいんだよな? 私が百年ほど前に日本に来た時はホットケーキとか言ってたもんだが。ひょっとしてあれか、今ホットケーキとか言うと、おじいちゃんみたいとか笑われちゃうやつか? あーよかった」
「……いや、別にどっちでもいいと思うけれど」
建水は、薄茶色に膨らんだパンケーキを皿に移すとバターを乗せて少し溶かし、艶が出たところでメイプルシロップの瓶を開けた。
「あ、シロップかけすぎるなよ。ちょっとでいいぞ、ちょっとで……あーあー、かけ過ぎかけ過ぎ。私は甘いものは大好きだが、甘過ぎるともたれる方なのだ」
「……お前、舌はおじいちゃんだな」
建水はカウンターに手をついて、男の子が再び手を合わせてから、食べ始めるを眺めた。
「前回、召喚されて日本に来た時に、一回だけ食べたんだが、一番おいしかったな」
「これはどう?」と聞くと、相手は口を動かしながら真剣な顔で「うんうん」とうなずいたので、一瞬ほだされてある種の愛情を感じてしまったが、すぐに相手の正体を思い出して、複雑な気分になった。
店主が流しに置いたフライパンをたわしで擦り始めると、男の子は急に手を止めて、あらためて彼を見た。
「……お前、どこかで見たことあると思ったら、思い出した。前回、私が日本に来たときに、私にホット……pan cakeをごちそうしてくれたやつに似てるな。お前のその人相は、悪魔にpan cakeをおごる運命を背負った人相なのかもしれないな……」
「偶然だろ」
「しかし、指輪で呼び出されたのなんて、何百年ぶりかなー。実は、指輪なんかなくても、人間は悪魔を呼び出せる。前回もそうだった。指輪なしで呼び出した人間は、色々深刻なことが多いからなー。私が現れて正体がわかるとすぐ、大体いつも物を投げつけられるとか、出てってほしいと土下座されるとか。その後一生かかって、打ち解けられるかは、まー五分五分だな。
だから最初にちょっとお前が騒いだとはいえ、出会って数十分後には、こうして呑気にpan cakeなんかご馳走になってる、この展開には多少戸惑うな」
フライパンを洗い終わったら、水気を拭いて火にかける。
「……で、その悪魔様は、わたくしめに対して一体何をしてくださるんでしたっけ」
悪魔は一瞬沈黙して、驚いたように召喚者を見た。
「……何って……お前が「近くに美味しいソバ屋さんある?」って聞けばがんばって探すし、「何か面白い話して」って言えば、がんばってするが」
「いや、残念だけど今は、そういうのできるやつあるから……」
建水は急に名案をひらめいて、空焚きしていたフライパンから手を離し、右手の拳で左手を叩いた。
「そうだ、カイム。この喫茶店で店員として働いてよ」
注
1 形而上学
アリストテレスの著作に由来する言葉。
科学、数学、心理学、哲学、言語学などで断片的に語られている世界の真相について、包括的に探究する学問を指す。つまり宇宙の始まり、生とは死とは何かから、膝の裏がかゆくなる原因まで、あらゆる疑問がこれ一つで解決されるような、統一理論の構築を目指す学問である。
また、自信のない文脈で用いることによって、その語感から深遠な雰囲気を演出し、泥沼になりそうな問題をうやむやにできる言葉でもある。
2 オルロフ
ソロモンの悪魔は全部で七十二柱いると言われているが、この物語ではそれが十二柱ずつ六つのチームに分かれている設定となっている。チーム名はそれぞれ、ホープ、コ・イ・ヌール、リージェント、サラスバティ、オルロフ、殺生石である。
3 私は魂の存在にどちらかと言ったら懐疑的なのだ。
この悪魔が存在を疑っている「魂」とは、以下のような信念に基づくものである。
「人間には、肉体とは別に魂なるものが、宿っている。この魂は、成長等で肉体がいかに変化しようとも、生まれてから死ぬまで変わらずそこにあり、あわよくば、死んで肉体が滅びた後も、そこから抜け出て単体で存在し続け、次の肉体に宿り、転生をはたす。
しかし最悪の想定では、肉体の消滅と同時に、魂も霧散し、無に帰す。これこそが、我々が恐れるべき本当の死(=無)である」
この信念で問題となるのは、肉体から抜け出て魂だけになった際(たとえ実際には分離できないとしても、肉体と魂が別のものである限り、魂を単体で想像することはできる)、見た目や声で区別することができない数多の魂どもについて、どの魂が誰なのか、どうやって判断するのか、という点である。そして、この問題を考える時、人は以下のことを前提にする。
「たしかに、他人の魂については、どの魂が誰なのか、まったく分からないかもしれない。しかしたとえ魂だけになっても、それが個別に存在する限り、私の魂がどれだかは、決して間違えない。たとえ魂だけになっても、私は今、ここにいる。これだけは、誰がなんと言おうと真理である。そしてそれさえ分かっていれば、他の魂どもの正体が分からなくても、一番大事なものは守られる。
だからこそ私は、私にとってのすべてである『今、ここ』の消滅と、それと同意義の私の魂の消滅、すなわち本当の死を恐れる」
我々の主張するところでは、これはまったくの偏見である。
「私は、今、ここにいる」
このようにつぶやく時、多くの人は自分の判断能力について、一定の自信を持っている。それゆえ、自分にとっての「今、ここ」は明晰判明で、他者の裏付けなどいらないと思い込んでいる。
しかし、ある人が正しい判断能力を持っているかどうかを決めるのは、常に他者でなければならない。もし、本人が正しい判断能力を持っていなければ、自分の能力についても正しく判断できないはずだからである。
では一体、この人が感じている魂の明晰さはどこから来るのか。おそらく彼(女)の背後には、神がついている。神が彼(女)の判断能力に保証を与え、「私は今、ここにいる」の担保となっているのである。
本作は悪魔たちとともに、神を疑い、神が人に示した、「私」の同一性に関する嘘を暴くものである。
そして、魂についての新しい解釈と、これまで我々が正反対のものだと思っていた生と死は、実は紙一重の違いしかない、という事実を示す。
詳しいことは、物語の進行にともない少しずつ議論される。
4 召喚
正確に言えば、「召喚」とは霊的な存在を自分自身に降ろす魔術のことを指し、本作のように、悪魔を外部に顕現させるの魔術は「喚起」魔術と呼ばれる。しかし、この物語では混乱を避けるため、一般的に普及している「召喚」という語を使用している。
5 悪魔って何食べるの?
基本的に人間と同じものを食べられる。
補足として、主人公のカイムには、人間が地面に落とした食べかすや、木の実等を拾い食いすることで、心身をとてつもなく満たすことができるという秘技があり、プライドを捨てることによって、多くの場合に飢えをしのげる。
ちなみに排泄はしない。
しかし物語で語られる通り、一部の悪魔はウォシュレットを好む。