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重要機密

作者: 雉白書屋

 社長室から出たおれは、ぶるっと身震いした。

 武者震い……いや、正直、半分は不安と恐怖。だがそれも仕方のないこと。重大な任を与えられたのだ!

 亀のように愚鈍でオドオドし、でっぷり広い腹の社長だが中々に見る目がある。ああ、課長とは大違いだ。

 ま、それはいいとして、この胸に抱えた茶封筒。重要な書類だから家に帰るまでは中を決して見るなとのことだ。 

 恐らく、そこでもまた新たな指示があるのだろう。パソコンのアドレスとかかもしれない。秘密のサイトへアクセスし、とふふふふ。

うん。そうに違いない。容易くコピーされないためにUSBなどではなく、書類でというのが事の重大さが窺い知れるというもの。

 と、いつまでも社長室の前で立ち止まっているのも変だ。他の者に怪しまれる。そう、もう任務は始まっているのだ。早々に家に帰らねば。ん?


「あ……」


「ああ、どうも」


「えっと、あ、まだ、ここにおられたんですね……」


「ああ……」


 社長室のドアを開けて出てきた女秘書に、おれはそう受け答えした。

 彼女は先程のおれと社長の会話を聞いていたから、おれの任務のことを知っている。無論、この封筒の中身までは知るはずもないだろうが、事の重大さにいてもたってもいられず激励に出てきたのだろうか。

 ……しかし、さすが社長秘書というだけあってかなりの美人だ。もじもじと身じろぎし、照れているのだろうか、なにか言いにくそうにしている様が可愛らしい。

 ……ああ、もしかしておれに惚れているのではないか。秘密エージェントのこのおれに。

 そうだ。この任務が成功すれば昇進は確実。ゆくゆくは社長だろう。この女もあんな太った中年男の秘書よりも、おれのような若い男に仕えたいに決まっている。

 そうなったら社長室で毎日可愛がってやる。彼女はおれの肉体を求めてい……そうか。そうだ、求めている。今、彼女はおれを求めているのだ! あの目。くねらせる体。間違いない。スパイ映画にそういうシーンあるだろう。エージェントとヒロインが……。


「――あの、聞いてますか? だから」


「ああ、抱いてやろうか?」


「は、はい?」


「濡れてるんだろう?」


「し、失礼します」


 おれを押しのけるようにし、ツカツカと廊下を歩く彼女におれは少々面食らったが、ちらと振り返り、こっちを見たあの目つきで、おれは全てを察した。 

 ……思った通りだ。女子トイレに入った彼女。ここでやろうというわけだ。


『きて、こっちへきて』


 ああ、行くとも。そしていかせてやる。


『欲しいの、あなたのモノが』


 ああ、くれてやる。くれて……待てよ。欲しい、だと? そうだ。彼女が狙うモノがもう一つあるではないか。

 この重要機密だ。そうだ。こんな、そこそこの大きさの会社の社長にあんな美人秘書など前からおかしいと思っていたのだ。

 彼女はスパイ。美人スパイだ。


「きゃっ! なにするの! やめて! やめ――」


 黙れ女狐。何度か殴りつけてやると女は気を失い、便器に凭れるように倒れた。

 このまま便器の中に顔を突っ込ませ、尋問してもいいのだが今はこれでいい。仲間と連絡を取り作戦の失敗を伝えることも、おれの後を追って来ることもできまい。

 トイレから出たおれはオフィスに向かう。中に入ると、一瞬、時間が停まったかのように全員がおれを見て、そしてまた目を逸らし業務に戻った。

 妙な空気感だ。もしや、情報が漏れているのかもしれない。ボンクラ社長め。

 が、さすがおれ。見逃さなかった。彼女は大丈夫、敵じゃない。おれは唯一、おれに背を向けたままの同僚の女の肩に手を置き、そっと顔を耳元に寄せ囁いた。


「タクシーを一台、会社の前に呼んでくれ」


 彼女はヒッ、と声を漏らしたあと頷き、受話器を手に取った。

 少々、殺気が漏れていたのかもしれない。反省しなければ。詫びの気持ちを込めて彼女の背中を撫でつつ、周囲を警戒をする。この中のどいつがスパイかまではわからないが連中はちらちらと視線を送るのが精一杯で近づくこともできず、おれは無事、会社から出ることができた。


「自宅まで頼む。住所は――」


 ……うかつであった。乗り込んだはいいものの、そうだ。タクシーの車内は運転手のテリトリー。停められ、ドアをロック。銃を向けられては詰んだも同然。そう気づいたおれは転がるようにして車内から飛び出し、駅に向かって走った。

 ちらと振り返ると運転手の鋭い眼光はおれに向いていたが、ざまあみろ。悔しさ混じりであった。

 電車ならば問題ない。連中も強硬手段には出ないだろうとおれは思ったがしかし、失敗であった。

 まだ帰宅ラッシュ時ではないが乗客はそこそこ。自宅駅までにはまだ何駅か通過しなければならない。

 ああ今、おれの隣に座った女。鞄を漁っている。まずい、銃を隠し持っているのかもしれない。

 あの鞄の中で銃口をおれに向け、ああ、今、おれの前に立った男。あのベルトには銃が。ああ、今おれとすれ違った女。毒針使い。今、おれとおれとおれとおれと……。



 ようやく家にたどり着いたおれは玄関ドアの鍵を閉め、チェーンロックをかけ、さらに侵入者がいないか家の中を隈なく捜索した。


 ……問題なし。任務完了……ではない。ここからだ。この封筒の中の指示書に従わねば。

 おれは震える指で封筒を破いた。そこに書かれていたのは



【本日をもって君を解雇処分とする。

社に置いたままの荷物等は追って送るのでもう二度と来てはならない。

警備員を配置するので、もし来た場合はそのつもりで。

なお先日、君が課長に対し暴行を加えたことに対し警察を呼ばなかったのは社の評判と君を想ってのことである。

くれぐれも、意に背かないように。

昔、君に命を救われ、社に迎え入れたがもう限界だ。二度と会社には近づかないように』


 と、動揺し、目が滑ったが大体こんな感じだった。

 昔、おれが社長の命を救ったというのは混みあった駅のホームから社長のやつが転落し、おれが真っ先に助けにいったというものである。

 君は命の恩人だ。何か御礼がしたい、というので就活が上手く行ってなかったおれは職の世話を頼んだのだ。

 尤も、社長が駅のホームから落ちたのも混雑にイライラしたおれが誰を狙ったわけでもなくふん! と体当たりしたためだが、まあ、今はそれはいい。

 

 おれは笑った。大いに笑い、頭の中で課長のおれを罵る声や悲鳴が蘇るとまた笑った。そしてふと鏡を見て、また笑った。

 鏡には映るおれの髪はすっかりと真っ白に、老人のようになっていたのだ。

 

 ……さあ、社長の意図は読めた。結果的に変装もできたわけだし、今すぐにでも社長を救いに向かおう。これは暗号。社長からのSOSだったのだ。それに気づいたおれは、やはりエリートエージェントなのだ。

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