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「利家……貴様、俺を疑っておるな?」
友の言い草を聞く度、生きた心地がしない藤吉郎を余所に、信長は一見穏やかな表情を保っていた。
だが、その目の奥が燃えている。
何ら感情が伺えない、能面でも被っている様な怜悧さの裏でたゆたう激情が如何に恐ろしいか……百も承知の上、敢えて利家は顔を上げた。
死を賜るならそれも良かろう。再び、戦場へ出る事が叶わぬまま、只、生きながらえて何になるのだ?
それだけの覚悟と熱を声にのせ、ゆっくりと問い返す。
「某の見立て、間違って居りましょうか?」
「ふん、猪武者が生意気に、のう」
「三年前と言えば、殿がこの生駒屋敷へ通い始めた時期と重なり申す。
そして、生駒八右衛門殿の他、森可成殿、蜂須賀小六殿を重用。乱波どもを用い、流言をばらまく策が使われ始めたのも同じ頃だと聞いております。
即ち、その全ては信長様が今川家打倒を目指した故であり、戸部新左エ門を敵家中から取り除く策へ繋がっているのでは無いか、と」
「証拠の手紙が、戸部の筆跡であった点はどうじゃ」
「殿お抱えの祐筆の中に、絵心のある器用な者がおりましたな」
「ふむ」
「川並衆が戸部の家臣へ近づき、新左エ門が書いた文の一部を手に入れさえすれば、そっくり真似て偽の書状を作れましょう。
世に出す細工を仕込んだ上、それを市中で売り、噂を広める事なぞ造作もない」
一転、信長は破顔し、声を上げて笑った。
「良く言うわ、この猪が!」
決死の賭けは取り合えず功を奏したらしい。利家は藁が散乱した地面へ頭を擦り付け、平伏した。
「されど、それが何故、義元との決戦を俺が今と定めた証左になる?」
「何処で戦を御仕掛けになるか、某なりに考えた末の結論でござる。此度の戦、今川方が数においては遥かに上」
「うむ」
「丸根、鷲津、さらには清州と、籠城戦を重ねて敵の消耗を強いる策では敵いますまい。織田に勝ち目があるとすれば、敵の隙をついて先手を取り、一気に義元の首を取る策が最善でござる」
「敵も馬鹿ではないぞ。そう易々と隙は突けぬ」
信長の指摘に、利家はぴしゃりと膝を打って見せた。
「仕掛け所が策の要じゃ。されど、攻め手には泣き所がござる。実際、今川勢が尾張へ兵を進める間、奇襲をかけるとしたら、考えうる場所は一つしか有りませぬ」
「尾張と三河、その国境に横たわる桶狭間の辺り、か」
惜しげもなく、あっさり信長は胸中の秘を口に出す。
「あの窪地の辺りは丘が延々と連なり、大軍を動かす場合、その狭間を突き進む一手のみにござる」
「やや開けた地……桶狭間へ敵軍が至った時、攻める側が丘の上へ陣取っておれば、少ない数でも優位に立てるかも知れんな」
「はい」
「半面、そこを今川勢が通り過ぎてしまえば、最早、攻め手に欠く」
「後は清州までずっと平地が続いております故、敵に身を晒さねば襲えません」
「そこしかない、となると、普通は奇襲にならぬ」
「それをなお、奇襲となすのが殿の策の内ではないか、と」
利家が仄めかした事に気づき、傍らで藤吉郎が息を呑んだ。
桶狭間周辺は確かに高低差のある丘陵で挟まれており、底の窪地には敵が気づかぬよう手勢を伏せておくだけの隠れ場所は無い。
清州城から一気に馳せて速攻を仕掛けようにも、窪地周囲の視界が良過ぎて接近するまで敵に気づかれ易い。
有利な点があるとしたら、梅雨に近い季節である為、悪天候による索敵の難しさを逆手に取れる事くらいであろう。
つまり、普通のやり方では奇襲は成立しないのだ。
それでも相手の隙を狙うなら、とことん油断させる必要がある。
織田勢が完全に抵抗を諦めたと思い込ませてしまう事……即ち、今川が尾張の領地を通過する際も攻めて来ないと見せかけ、妄信させる方策を整えておく以外、手はあるまい。
生駒屋敷へ通い詰めたのも、村人を集めて夜の宴に興じているのも、味方の砦へ援軍を送る姿勢を見せないのも、全て信長の攪乱工作であり、奇襲への布石。
そして、その仕上げこそ戸部新左エ門を罠に嵌め、死へ追いやった偽手紙の工作に違いない。
今川家重臣の内、最も諸国の地形に詳しい戸部は、桶狭間から今川の拠点・鳴海城、大高城へ至る道筋を熟知しており、地図を見ずとも行軍の最適な進路を義元へ進言できる程だったと言う。
丘の上へ伏せた兵を見つけるなど造作もあるまい。
奇襲を奇襲として成立させる為、この男だけは何としてでも今川進軍の前に潰しておく必要があったのではないか?
そう利家は仄めかし、主・織田信長へ真相の在処を問いかけているのである。
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