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利家が曲者の存在を警告したにも関わらず、信長は警護の兵を一人も連れずに生駒屋敷の裏手へ出た。
干し草が積まれた柵に飛び乗り、てっぺんに腰かけて利家を見下ろす。
それは、利家には懐かしい姿である。
初めて信長に仕えた頃、まだ餓鬼大将の雰囲気が濃かった主の命で、良く合戦の真似事をした。
今考えると、あれは実際に戦を指揮する為の予行演習だったのかもしれないが、指揮を少しでも違えると、信長はすぐ手近な物を投げつけてくる。
紐で腰にぶら下げていた柿の実などならまだ良いが、馬糞のついた藁を頭から浴びせられた事もある。
あれだけは堪らんのう。
利家は一人ごち、主の周囲に馬糞が落ちていないか、見回した。
もっとも信長の方はあくまで厳しい表情を崩さずに利家を詰問し、ここ暫く利家が尾張の隣国を回っている間に見聞した旨の報告を聞く。
「頼まれもせんのに、物好きな奴よ」
一通り話を聞き終え、信長は冷たく吐き捨てた。
「必ずや、いずれお役に立つと信じておりましたので」
利家は怯まず、言い返す。
「役に立つとは、俺に、と言う事か」
「はい」
「何の役に立つのだ」
「今川との決戦に必ずや」
「ふん、俺が今川と刃を交えるか否か、誰にも腹を明かしておらぬのに」
「某、戦を確信しておりました」
「何故じゃ」
「某が身柄を預けられた熱田神宮の社殿にて勉学に励んでおった時の事。詣でる百姓どもが漏らす殿の良からぬ噂を耳にしたのです」
「はて、如何なる噂か」
「夫を失ったばかりの年増に惑い、その屋敷に入りびたって、牙を抜かれたと」
信長は唇を歪め、笑った。
利家の隣に控える藤吉郎は気が気でない。冷笑を浮かべるのは信長の場合、激発する一歩手前である事が多いのだ。
「されど某、本日まで噂を信じた事はありませなんだ。この屋敷の主・生駒殿は川並衆を統べておられる。そこへ足繁く訪れ、悪しき噂が流れるのをそのまま放置しておられるのは、つまり」
「むしろ、俺が何やら図り、自ら噂を広めておる、と」
即答をせず、深く頭を下げる事で肯定の意を利家は表した。
「ふむ、その物言い、面白い。俺が知るそなたは、武にこそ優れておっても思慮の浅い猪武者であった。隠された人の思惑、見抜ける様に思えなんだ」
「それは」
少し戸惑いの表情を見せ、思案顔で利家は答えた。
「学んだせいにございましょう」
「謹慎の身になった後、独学を重ねた成果と申すか」
「はい」
「なら、俺が今川との決戦に臨むと踏んだ、その根拠を言うて見せい」
「左様、それは一通の手紙にござる」
「ほう、手紙とな」
「お心当たりがお有りか?」
「さあ、な」
信長の反応を伺いつつ、利家は考えを整理する短い間を取った。
「ちょうど三年前の事にござる。今川家重臣の中でも特に学問へ秀で、諸国の地の利を熟知しおるが故に重用されて、義元の妹を妻とするに至った戸部新左エ門政直という男が死に申した」
戸部、と聞いた途端、信長はふっと目の奥を光らせた。
「織田側と通じている、そう義元に疑われ、誅殺されたそうだのう」
「左様、新左エ門が今川を裏切ると約束した旨、記した書状の下書きが駿府で見つかったとの事で」
「お前、それを直接、駿河で調べて参ったのか」
「駿府まで足を運ぶ要はありませなんだ。巷で噂が飛び交っておったのです。何せ裏切りの証拠となった手紙が、あまりに唐突な見つかり方をしたものですから」
「ほう、如何に露見した」
「府中で売りに出された古い刀の鍔が、その書状の下書きで包まれており、今川家中の者の目に偶然留まったというのです」
「異な事があるものじゃな」
「もし本当に偶然としたら、ですが」
「不審な点でもあるのか」
「こんな形で陰謀の手紙が世へ出れば、誰しも中身を疑うものでしょう。
しかし、文字の筆跡を新左エ門の記した書類と比べてみると違わず、俄かに増した巷の悪評で背中を押され、義元は新左エ門の命を取らざる得なくなった」
信長の冷笑は不穏さを高めている。
藤吉郎は利家に、喋りすぎじゃ、もういい加減にせい、と口を動かし、目くばせまでするが、利家の方は気にも留めず、
「あまりに出来過ぎの話と、殿は御思いになりませぬか」
そう言い放ち、顔を上げて、主君を正面から見つめる。半ば挑戦的とも思える不遜な態度で、だ。
読んで頂き、ありがとうございます。
信長が今川家へ仕掛けたトラップについて、次回から実在の資料に基づき、描いていきたいと思います。