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しばし記憶の海を漂う利家の沈黙を、藤吉郎は怒りが激発する前触れと早合点したのであろう。少女と彼の間へ、慌てて割り込んできた。
「ま、待ってくれ。その娘は、わしの連れなのじゃ」
「藤吉郎の縁者か」
「お、おう」
「もしや、妹御?」
ブンブンと音がする勢いで、藤吉郎は首を横へ振った。
彼は百姓の出で兄弟なら沢山いると聞いたが、あまりに顔立ちが違う様だ。眉目秀麗の少女と藤吉郎が並ぶ姿は、さながらに美女と野獣。
「いや、妹ではない。杉原定利殿の娘御で、今は浅野長勝殿の養女となられたねね殿と申す」
「ほう、浅野殿の」
利家は改めてねねという少女を見つめた。
浅野家は尾張織田家に代々使える譜代の家臣であり、今も弓衆を束ねる要職にある。その浅野当主の庇護下にある娘ならば、利家に物怖じしない気丈さも頷けた。
「今宵、わしがねね殿を連れて、この屋敷へ参ったのじゃ」
「では、まさか貴様の」
藤吉郎は猿面を真っ赤に染め、すぐ俯いてしまった。
「こうして今日、お主と会えたのは、まぁ都合がよいと言えば、都合が良い」
柄にもなく照れながら、藤吉郎は詰まり詰まり、言葉を吐き出した。
「利家、前にお主と交わした約束、覚えておろうな?」
「はて、見当もつかん」
「ほら、お主がまつ殿と所帯を持った際の事じゃ。ろ……ろくに立会人も立てぬ急な縁組で、わしが間に立ったわなぁ」
利家は怪訝そうに首を捻って見せる。
「あの時に誓ったであろ」
「ますます良う判らん」
「えぇい、わしの嫁取りの話じゃ。お主の方から言ったろうが。わしが所帯を持つ時は、お主とまつ殿が仲人じゃと」
途端に利家が拳を叩く。
「おう、そう言えば」
「全く、薄情というか、友達甲斐が無いと言おうか」
「つまり、そのねね殿は」
「い、許嫁じゃ、一応」
「一応、なぁ?」
「まだ浅野殿に正式な許しを頂いておらぬ。断られてもおらぬから、俺の中では決まったものと思っておるが」
「ほ~お」
ねねに否定する素振りは無い。はて、愛嬌勝負の猿面が名家の乙女と如何に出会い、如何にして口説いたものやら?
見染めて、振られて、また見染め……気の多い友から良く女絡みの愚痴を聞かされたものだが、こうも切羽詰まった面持ちは記憶に無い。
こやつ、この小娘に本気……いや、命がけで惚れておるな。
利家の不躾な眼差しが藤吉郎とねねを交互に見据え、今度はねねが気丈なそうな面持ちを、ほんの少しだけ赤らめた。
「だとしても解せん」
「何がじゃ?」
「剽げた振る舞いなら織田家中でも一二を争う貴様が、宴にも踊りにも加わらず、許嫁と遊び呆けておるとは」
「失敬な。呆けてはおらん。これは殿の勧めでしておる事じゃ」
「信長様が何故に?」
「わしがねね殿から良い返事を中々得られぬ事……どういう具合か、殿の耳に入ってしもうてのう。踊りは良いから今宵は共に過ごしおれと」
利家はしばし唖然とした。
家臣の私事にまで興味を示し、温情を示すとは、ますます彼の知っている信長像と相容れない。
「やはり、あの女子に誑かされ、殿は変わってしまったか」
思わず呟くと、しばらく黙っていたねねが反応し、鋭く声を上げる。
「類様の事を悪く言わないで下さいと、先程、申し上げたではないですか!」
「では信長様と類殿の事、俺より存じておると言うのか?」
利家の声に怒りが混じると、藤吉郎が再び間に入る。
「信長様はとにかく、類様の事はよく存じておろう。織田家中の女たちは意外と結びつきが深い」
「まつ様の事も存じております」
「何っ!?」
「しばらくお会いしておりませんが、お輿入れの前は仲良くして頂きました」
若干、利家の気持ちが怯む。
女同士の結託、特に気の強いまつと、如何にもしっかりした気質にみえるねねが藤吉郎の嫁となった後で手を組むとなると、あまり怒らせない方が上策かと思える。
そんな友の躊躇いを、藤吉郎も感じ取ったらしい。
そそくさと利家の背を押し、信長のいる方角へ進ませようとするが、ねねを置いて白木の手前に来た所で、うんともすんとも動かなくなる。
利家が舞台上の、ある一点を睨み据えているのだ。
(注)
この物語は、桶狭間の合戦時(1560年)に斎藤道三の妻・小見の方が亡くなっていると言う前提で成り立っていますが、これは通説と違っています。
美濃明智家の領主・明智光継の娘であり、帰蝶の母でもある小見の方が亡くなった時期には諸説あり、1551年に病死したと言う説、1569年まで存命で信長と面会したという説の二つが有力ですが、どちらとも断定できず、どちらも違っているかも知れません。
又、生存説によるとしても、死に至るまで、彼女が何処にいたか良く判らないままです。
織田家へ身を寄せたとの資料はありません。
だとすると、美濃の何処かにいたと思われますが、美濃明智家は斎藤義龍の手で追い詰められ、滅ぼされてしまいますので、その領地にいた場合、戦火に巻き込まれていた可能性が高くなります。
織田家が美濃明智家を積極的に守ろうとしなかった事からして、そこに秘められた「何か」があったのではないか?
それがこの物語を考え始めた原点になっています。
読んで頂き、ありがとうございます。