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永禄三年(1560年)五月十五日、尾張の国、小折村の上空では、真円に近い月が澄んだ光を放っていた。
村の北端から西へ流れる木曽川の水面にも月明かりが映えているが、梅雨の近づく季節柄、やや雲が多いようだ。
風に流れる黒雲の厚い層が月を覆い、闇の帳に包まれるかと思えば、俄かにその翳りを打ち消す熱気が、下から陽炎のように立ち上っていく。
笛と鼓の澄んだ音色を伴うその熱の出所は村の中央、辺りを牛耳る土豪として名高き生駒八右衛門の屋敷である。
後に砦と化し、小折城と呼ばれる広大な敷地に村人へ解放された一画があり、滑らかな白木板を敷いた仮舞台が設けられていて、囲む篝火が揺れている。
既に深夜であるにも関わらず、村中の老若男女が集い、群がる舞台の広さは、四方がおよそ六間。
能の本舞台と比べると倍近い広さで、囃子方も笛方、鼓方が四方に二名ずつの過剰な編成なのに対し、この時、踊り手はただ一人だけだ。
トンと爪先の白木を踏む音が響く。
真紅の小袖に名護屋帯を締め、唐輪髷風に縛った髪。
たなびく薄絹をまとっているから天女のつもりだろうが、むしろ遊び女に近い派手な衣装で、全身をくねらせ、次の瞬間、幸若舞いを模す静かな所作へと転じる。
囃す演者も、何か決まった曲調を奏でるのではなく、踊り手の動きを注視し、咄嗟の変化に対応している様だ。
まさに即興の妙と言う所であろう。
だが、そんな舞台の熱狂とは異質の、重く、鋭い眼光を放つ男が広場の片隅に立っていた。
六尺を軽く超える巨漢だ。
網代傘を被り、長い錫杖を握る僧侶の旅装をまとっている。
「目通り叶わぬ間、やはりお変わりあそばしたか?」
首を傾げる僧形を目に止め、舞台の方から農民らしき身なりの小男が近づいてきて、気安く声を掛けた。
「おう、来ておったか、利家」
「藤吉郎!?」
巨漢は小男に気付くなり、背を向けて広場を去ろうとした。
でも、小男の敏捷さはその上を行く。巨漢が駆け出す前に正面へ回り込み、行く手を塞いでしまう。
「おい、お主と俺の仲で、何も、逃げ出す事は無かろう?」
「いや、急に貴様の猿面が間近に現れたものでな」
「ふふ、こちらこそ珍しい物を見た。お主程の剛の者も取り乱す事があるんじゃのう」
小男は皺がやたら多い目尻を歪めて、愛嬌たっぷりの笑顔を巨漢へ向ける。
「で、佐々は?」
「ん?」
「佐々成政は何処ぞにおるか?」
「あぁ、あの御人は来ておらん。何せ、根が堅苦しい性分じゃからの。今も清州に詰めておるわい」
僧形の男は安堵し、破顔した。
並んでみると釣合いの悪い組合せだ。背丈は頭二つ分の差で、岩の如き体躯と極めて貧弱な痩せっぽち。口調も軽薄と重厚で著しい差だが、馴れ馴れしく小男が肩を叩く様からして親しき友であるらしい。
「して、久々の御張行は如何?」
小男は、舞台へ視線を戻して問うた。
御張行とは、この場合、対馬五箇村に古くから伝わる民俗芸能・くつわ踊りを指す。
土俗の田楽舞いを原型とし、民間信仰と結びつく形で広く親しまれていて、有力者が人心を掌握するにはもってこいの催しだ。
「のう、利家。相変わらず見事であろう、我らが主の舞い姿」
「左様、相変わらず剽げた女舞いをなさっておる」
「そこが又、良い。かぶき者を気取るお主なら俺より妙味が判るのではないか?」
「さぁな」
巨漢が一層渋い顔になるのと前後し、頭上の黒雲が左右に分かれ、間から月が顔を覗かせた。
その明かりと篝火によって仮舞台の中央へ浮かび上がる踊り手の容貌は、天女の衣装こそ着ているが、鍛え抜かれた上腕が袖から突き出し、如何にも精悍……いや、猛き獣さながらの眼光を放つ男の顔だ。
どれ程、踊り狂ったのやら?
唐輪髷が乱れ、汗まみれの額に長い髪を張りつかせながら、疲れを見せる気配など微塵も無い。
織田信長、この時、二十七才。
ふと動きを止め、月を見上げて不敵に笑う横顔は、まるで悪童がそのまま大人になったかの如き鮮烈な印象を与える。
見詰める二人も又、若い。
巨漢の前田利家、痩せっぽちの木下藤吉郎は共に二十三才であり、信長を生涯の主と認じている。
夜を徹して踊りに興ずる主と武士らしからぬ風体の家臣。余人が見たら、緊張感にかける呑気な姿と映るかもしれない。
少なくとも、彼らが己の身命を賭す決戦をすぐ間近に控えているとは、到底思えぬであろう。
読んで頂き、ありがとうございます。
できるだけ多くの資料を調べ、定説とは違う桶狭間前夜を描いてみました。
楽しんで頂けたら幸いです。