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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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幸福の眼球 前編

 声を失ってからおおよそ一年が経過した。──今日は六歳の誕生日だ。

『おやすみなさい』

 我が家にしては豪華な夕食を食べ終えた私は両親に手話でそう伝え、自室に戻った。

 ベッドで横になって天井を見つめる。

 ──眠れない。

 目を瞑って眠ろうとするが、どうにも眠ることができない。掛け布団を被って真っ暗にしても無駄だった。

 仕方がないので布団から顔を出し、寝転がったままベッドの近くにある窓から夜空を見る。

 青白く輝く美しい満月が浮かんでいた。

 ──今までこんなにもまじまじと月を見たことってないな。

 月に見惚れているといつのまにか眠っていた。

 次に目が覚めたのは朝ではなかった。壁にかけられた時計が二時を示している。異様な静寂の空間に時を刻む秒針が響く。

 再び眠りにつこうとするが、僅かに尿意を感じた私は体を起こし、ベッドから立ち上がった。すると寝起きなのも相まって部屋の空気がいつもより冷たく感じられた。扉から入る隙間風がさらに体温を奪っていく。

 壁に触れながらなにも見えない真っ暗な廊下を歩いた。静かな廊下に私の足音が響く。

 自室とトイレの間にリビングルームがあり、そこを通過しようとすると、扉が開いているのに気がついた。部屋にある僅かにある照明が放つ光が漏れ出し、廊下を淡く照らしている。

『パパもママもまだ起きてるの?』

 嗅ぎ慣れない不快な血液の臭いが鼻を刺激する。

 嫌な予感を感じながらも私は恐る恐るリビングルームへと足を踏み入れた。

 部屋の空気はひんやりどころか冷凍庫に入ったかのように冷たく、呼吸をする私の肺を凍りつかせた。肺胞の一つ一つの機能が停止していくような感覚が纏わり付いて離れない。

 寒さから全身の皮膚が粟立ち、思わず私は身震いした。肺が痛むから呼吸を浅く犬のように小刻みにしていたが、吐息が白くなっているのを視認できた。

 薄暗い部屋を歩く。

 鼻を刺激する血の臭いは進むたびに強烈なものになっていく。

 突然部屋に響く乾いた足音が変化した。どうやら柔らかいものを踏んだようで、ぐちゃぐちゃという音がした。

 壊死しそうなほど冷たい手で心臓を掴まれるような恐怖が私を支配する。

 恐怖と寒さから体は硬直し、首の上下の可動域が狭まっている。それでも私はゆっくりとぎこちない動きで足元を見た。

 ──!

 悲鳴を出すことなく私は後ずさりした。足が絡まり尻餅をつき、臀部をしたたか打った。

『……ママ』

 床にあるのは頭と四肢がもがれ、腹が引き裂かれている母の無残な死体だった。傷口から腸と思われる臓器が溢れている。

 急に吐き気が込み上げ、私はその場で戻した。夕食に胃に入れたものはとっくに消化されており、出てくるのは胃液ばかりだった。

 食道が焼かれるように痛む──だがそのようなことが感じなくなるような出来事が起きた。

 部屋の奥から物音がしたのと同時に私の瞳に人影が映る。それはゆっくりと立ち上がり、こちらを見た。

 それは──人ではなかった。否、見て呉れは人間の形をしているが、本能はそれを否定しているのだ。

 人の形をした異物は、痩身の僅かに老いた男性の風貌で、美しいトルコ石のような色の瞳をしていた。髪は白髪混じりの灰色、銀縁の細い長方形の眼鏡をかけている。そして左目の下には[Chokhmah]と印されていた。

「こんばんは、お嬢さん」

 コクマーが口を開いた。彼の手が掴んでいるのは父の頭部だった。父は死に際に大変苦しんでから生き絶えたようで、苦悶の表情のまま固まっていた。

 私は戦慄した。両親が惨殺されたこと以外に。

 目は見開いていた。コクマーから視線は一切逸らしていない。それなのに──近づいてくるのに気がつかなかった。

「このような夜更けに起きていてはいけませんよ。さあ、もう眠りなさい」

 コクマーが私との距離を一瞬で詰めて私の頭を撫でた。その手は頬へ降りてきて、次の瞬間──。

 ──私の眼球を抉り取った。


「おやすみなさい」


 視界が墨汁を塗りたくられたように真っ暗になり、なにも見えなくなった。

 叫ぶことなく激痛にのたうち回る私の耳に入ったのはその声だけだった。

 そして意識を失った。

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