愛の需要と供給 前編
アンジェラの拳がわたしの左頬を抉り取るように捕らえた。衝撃から思わず数歩後ずさりしながら距離を置いて体勢を整えようとするも、すかさずアンジェラは間合いを詰めてもう一発わたしの顔面を殴り飛ばしてきた。今度は鼻面を捕らえられ、鮮血を散らしながら大きく仰け反った。
「痛いなぁ! もう!」
この程度のことでへこたれるわたしではない。すぐさま反らせた上体を起こすと──。
「いい加減学んでくださいよ」
──とアンジェラの強烈な後ろ回し蹴りがわたしの顎に直撃した。衝撃は顎だけでは止まらず、頭にまで及んだせいで脳が揺れ、意識が正常に保てなくなる。
崩れ落ちそうな体を根性で立たせ続けるが、足取りは覚束ない。脳震盪が解消されるまでの時間が稼げればいいと思っていたが、その考えは甘かった。間髪入れずにわたしの首に腕が回され、一気に絞めあげられた。
混濁する意識の中でさらに負荷をかけられて無事なはずもなく、わたしは簡単に無力化された。体の力が抜け、アンジェラの腕の中でだらしなく四肢を垂らし、意識を失った。
「おはようございます。お目覚めはいかがですか?」
アンジェラの心中を決して読ませないとばかりに浮かべる微笑は、彼女の高すぎず低すぎずの柔らかな声色を悪い意味で引き立てた。
──わたしはこいつが嫌いだ。偽善ぶってわたしをあの日助け出して。助けてくれなんて頼むことは疎か、願ってすらいないのに。恩を押し売りして……クーリングオフできるものならとっくにしている。その代償でわたしが死のうが問題ないのに……。
一瞬の間に色々とこれまでに起きた出来事を反芻した結果、わたしの口から出た言葉は、
「……最悪」
だった。それも心底鬱陶しそうに、そして唾棄するように吐き捨てたが、そのようなわたしをアンジェラは気にすることもなく、
「それはきっと彼女らも同じでしょうね。──それで、それ以外でなにかありますか?」
と重ねて訊ねた。
「……なにもない。あいつらはわたしのことを馬鹿にしたから、殴り飛ばしただけ。だからわたしは悪くない。一ミリグラムだろうとな」
そう答えると、アンジェラはほぅ、と息を吐いてから小さく息を吸い、その新鮮な冷たい外気を口の中で氷を転がすように遊んだ後、さらに少しの間を置いて、
「…………全治一週間が三名、三週間が一名、集中治療室行きが一名、死亡したのが一名の計六名ですよ。さすがにこれは損失が大きすぎるので、そろそろ加減してください。全治三日程度の喧嘩なら私も見なかったことにしますから。多感な時期である以上、同年代とのいざこざの一つや二つはあるでしょう。しかし、相手を再起不能にしてはいけません。‘やりすぎない程度’にやってくださいね」
──また説教かよ。お前だってわたしとそれほど年は離れていないのに、あたかも保護者みたいに達観して物事を語りやがって、図々しい。まったくもって癪に障るやつだ。
「いいですか? 再起不能にしてはいけませんよ? 分かりましたね? 次はありませんよ」
一切声色を変えずに淡々と話すその姿に少々不気味さを感じながらも、わたしは学習することなく一週間後にまた同じような問題を起こした。結果──。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしない! もうしないから! 許して! 許してください!」
裸にひん剥かれた挙句、四肢を背中の辺りで拘束されて天井からロープで吊るされていた。それだけならまだしも、アンジェラは容赦なく特殊な能力を行使してわたしに躾をしていた。
「最初からそう言えばいいんですよ。物分かりが悪いですね。これで少しは彼女らの気持ちが分かりましたね? 理不尽かつ圧倒的な暴力に晒されることへの恐怖を」
「わ、分かりました! もうしない! もうしないから! 本当に!」
「──どうですかね。一体、その言葉にどれほどの価値があるのでしょうか。私にはその場凌ぎで出たようにしか思えないのですが……」
心底軽蔑したような眼差しをわたしに向けたかと思えば、わたしの耳たぶを口に含んだ。舌に唾液をたっぷりと絡ませて、ぐちゅりぐちゅりと音を立てながら舐めている。舌の先端部の硬いところが耳の裏を舐め上げるたびに全身の皮膚が粟立ち、嫌な汗が噴き出した。
──もうすぐだ……。
わたしが泣き喚いて謝罪するに至った出来事を思い出す。まさにそれは悪夢であった。アンジェラは宙吊りになっているわたしの足の指を小指から順に唾液を絡めていったのだが、それは当然のようにわたしは悪趣味に思って顔を歪ませていた。しかしそれで済むのならどれほど良かっただろうか。唾液が付着した皮膚は煙を出しながら溶けていったではないか。指先からは血を流し、部屋に設置された換気のための機械から吹く柔らかな風に晒されては痛みに喘いだ。
先ほどは唾液が付着してからおおよそ二十秒ほどで痛みを感じた。そして今、その時間に達しようとしている。
わたしは生唾を飲み込んで痛みに備えるが、今回はなかなか訪れない。心中で一つ、二つ、と数え、それが二桁になったところで変化はない。
するとアンジェラは口を離し、
「──なんてね」
と小悪魔のように僅かに歯を見せて笑った。普段は見せない、薄い唇の隙間から見える白い歯がとても魅力的であった。
「もういいですよ。ただし──次はありませんからね」
そう冷たく言っては宙吊りのわたしをようやく解放した。不思議なことに足の指の傷は癒えており、手首や足首などのロープで縛っていた部分に腫れなどは一切なく、綺麗なままだった。
──アンジェラって何者なのさ……。
ふふーん、と鼻歌を歌いながらわたしに背を向けて片付けをしているアンジェラを見て思った。




