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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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出会えたこの幸運に 前編

「エスター! エスター! エスター! お願いだから! 耐えて! 死んじゃやだ! お願い! お願い……!」

 白い髪が揺れる。

「私の分裂阻害薬、中身が漏れてて……ごめんなさい、私が弱いばかりにあなたに無理をさせて……本当にごめんなさい……」

 アンジェラは腕の中にある小さな白い物体を抱きしめ、涙をこぼした。声はかわいそうなほど震えており、それを聞いている人間は心臓が締め付けられるような気がするものであった。

「……アン……ジェ……ラ……」

「エスター!」

 普段の脊髄反射で暴力を振るうドーベルマン気質とは打って変わって弱々しく、いかにも見た目通り白皙で典型的な病弱そうな女の子になっていた。

「エスター……ごめんなさい……私のせいで……ごめんなさい……ごめんなさい。私がもっと強ければ……こんなことには……ならなかったのに……」

 アンジェラは懺悔するように言う。

「……そん……な……謝ら……ない……で……アン……ジェラ……の……せい……じゃ……ない……だから……もう……なみだ……流さ……ない……で……いつも……みたいに……笑って……いてよ……」

 エスターは震えながら手を伸ばしてかすめるようにアンジェラの目元を拭った。

「……わた……し……もう……死ぬ……みたい……」

「そ、そんなこと言わないでよ! エスター! きっと……きっともう少ししたらリストアやインテリゲンツィアが来るから! 分裂阻害薬を持って! だからあと少しの辛抱で……!」

「……ダメだ……よ……わた……し……の……から……だ……わた……し……が……よく……知って……いる……から……」

 ゆっくりと瞬きをする。その時間は酷く長く感じられて、閉じたときにはそのまま永遠に開かないのではないかとある種の恐怖をアンジェラに与えた。

「……もう……から……だ……自分の……じゃ……ない……感じ……が……する……なん……か……ほかの……人……に……奪われ……て……」

「分かった! 分かったからもう喋らなくていい! エスター、私は完全に同化しかけたことがないから、今どういう状態なのか分からないけれど、とにかく奪われないで! 頑張って抗ってよ! ……そうだ、エスター! 私にできることならなんだってするから! なんでも言って! 血液でどうにかならないかな……」

 アンジェラは溶けて爛れている上腕に爪を立てて強く引っ掻いた。爪の間に桃色と赤色が混じった肉片が混ざり、引っ掻いてできた傷口からはポツポツと水疱のような形で血液が滲み出てきた。

「……もう……いい……アン……ジェラ……だって……」

「だってじゃない! なんとしても私が助ける!」

 それからアンジェラは自身の舌を噛み切った。取れた先端を近くの床に吐き捨てると、エスターに口づけようとした。

「……お……前……だっ……て……怪我……軽く……ない……んだ……だ……から……そっち……治す……のに……専念……して……」

「私のなんて時間をかければすぐに治る! もう敵はいなくて安全なんだからいくらでも時間は使える! だから……!」

「……もう……わた……し……は長く……ない……だから……最後に……聞い……て……」

「な、なに?」

「……わた……しは……アン……ジェラ……に……出会え……て……よかっ……た……」

「ちょっと、なに死に際のセリフみたいに言ってるの!」

「……つぎ……また……人間に……なれ……たら……その……とき……わた……しが……おと……こ……だっ……たら……」

 エスターのまぶたがスローモーションのように閉じられていく。

「……結婚……して……くれ……ます……か…………?」

「…………そ、そんなの……たとえ異性でなくても、人間でなくても、ゴキブリやミジンコであっても! そ、それこそ──細菌やウイルスでも! 私はあなたと一緒にいたい!」

 視界が歪むほどぼろぼろと涙をこぼしながら必死に言葉を紡ぐ。

「次はもっと平和で、死体を踏んで進む必要のない、悲しみのない世界であなたに──エスターに会いたい!」

 号哭の中でアンジェラが、だらりと四肢を垂らすエスターを抱きしめた。

「…………」

 返事はない。

「…………」

 エスターの体から温度が失われていく。

「……………………」

 アンジェラがそっと温もりを共有するように唇を重ねた。数秒の間を置いて、先ほどよりも心なしか質量が増した、人形のようなエスターだったものを床に寝かせた。

「…………愛してる」

 ねっとりと、しかし語頭、語尾は乾いた感情を押し殺したような声調で囁いた。口角が僅かに上がり、それとは対照的に眉は下がっており、薄幸な笑みを浮かべていた。

「──と言うのには少々……遅すぎましたね」

 目を細めて心中を黒色の布で覆い隠すように──否、普段通りに笑って言った。


 そしてまもなく夜明けが訪れ、それと同時に数十人のリストアと武装した職員十二名、非武装の職員一名の計十三人のインテリゲンツィアの職員が騒々しく突入してきた。リストアは数人の班に分かれて周辺住民へこの出来事について虚偽の情報の流布、観客らの保護及び建物の清掃に当たった。インテリゲンツィアは武装した職員がエスターの元に駆け寄り、銃口を向けた。近くにいたアンジェラはそれを分かっていたかのように立ち上がり、そそくさとその場を離れていたが、非武装の職員を見つけると、その人に話しかけた。

 数発の銃声が空間に響いた。それに共鳴するようにアンジェラがその場に崩れ落ちる。

 しかし無慈悲にも職員はテキパキと後片付けをして撤収していった。血まみれで体のいたるところが損傷したエスターは黒色の不透明な袋に雑に入れられて運び出されていった。

 残されたのは、体の動かないセシリアとそれを見てあたふたするばかりのナスチャ、それからへたり込んで両手で顔を覆い、哀惜の念に駆られるアンジェラだけだった。

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