表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
深淵の少女  作者: 高城ゆず
185/196

ティファレトの記憶 後編

 なにが起きたのか理解できなかった。なぜ俺は老夫婦を食べてしまったのか、なぜ俺は無性に人間を食べたくなるのか、なぜ俺はまた舞台に立っているのか。なぜ俺はここまで美に執着しているのか。

 いずれもまったくもって理解できなかった。自分が何者なのか、あの日あのときあの男になにをされたのかも分からないまま、俺はただ本能のままに生きていた。

 そして今日もまた舞台に立つ。ある日突然妙な力が使えるようになったおかげで、劇場の設営、シナリオ、演出、集客、すべて自分でこなせるようになった。それが一体、どのような原理で起きているのか俺に知る術はないが、使えるものはすべて使わなければもったいないと思い、最大限活用した。

 すると不思議なことに少しずつだが人が来るようになった。そしてその観客をつまみ食いしているうちに俺は強くなり、いつしか俺はティファレトという名をとても偉い方からいただいた。

「やったァ、ようやく俺にもスポットライトが当たるようになったァ。なァなァ、ゲブラー? 見たァ?」

 俺は目の下に印された文字を指差して、ゲブラーの顔を覗き込みながら言った。

「うるさいですね。君がティファレトを襲名したのは十分知っていますから、少し黙ってくださいよ」

 ゲブラーは面倒くさそうにこちらを一瞥した後、膝の上で開いているいかにも難しそうで分厚い本に視線を戻した。

「えェ? 君は変わらず今も昔も酷いなァ」

「…………」

 本に落とされた視線が不自然に動く。

「それにしてもォ、君は本当にファッションセンスがないよねェ。もっと気を使ったらァ? あァ、でもその髪や目の色はいいと思うよォ。情熱的な赤色をしていてェ」

「結構です。僕は医者ですから、君と違って無駄に着飾る必要性はありません」

「無駄ってなんだよォ、その言い方ァ、ちょっと傷つくんだけどもォ? 舞台ではこれくらいしないといけないんだってばァ。なにもしないとォ、小道具以下になっちゃうよォ?」

「はいはい、分かりました」

 大きなため息をついた後、少しの間を置いて、

「……じゃあ今度、選んでくださいよ」

 とポツリと言った。

「いいともォ! やっぱそうこなくっちゃねェ」

 俺は目を細め、不敵に口角を上げて笑った。

「ところで君の名前はァ?」

「……またそれですか。僕はゲブラーです。君に名乗る名前はそれしか持ち合わせていません」

「ちぇ、つまんないなァ」

 俺は思い通りにならないことに腹をたてる幼い子供のように頬を膨らませるが、

「…………本題に入りましょうか」

 と俺の行動に触れることなくゲブラーは膝の上で開いていた本を机に置くと、近くの棚に置いてある一本の薄っすらとした桃色の小瓶を手に取っておもむろに栓を開けて、一気に飲み干した。

「……腹立たしい。このような下等な行為をしなければならないなんて、我ながら甚だ滑稽ですよ」

 額を押さえて数回深呼吸するとモノクルを外し、俺に吐息がかかるほど近づいた。ゲブラーの潤んだ瞳を余すことなくねっとりとした視線で見つめる。

「でも君はァ、そうやって薬を飲んでまでするんだよねェ?」

 俺はゲブラーの紅潮した頬に手を当てた。心なしか普段よりも温かいのが感じ取れた。

「……痛いのは嫌ですから」

「ふーん……そうかァ……」

 俺は自分よりも小柄なゲブラーをひょいと簡単にお姫様抱っこすると、診療室へと運んだ。ひんやりとした硬いマットレスの上に寝かせると、

「それじゃあお医者様ァ、治してくださいよォ」

 と俺はこれ以上ないほど下劣に笑って見せて、ゲブラーの衣服を剥いだ。


 昔──俺とゲブラーは非常に仲が悪かった。それもそのはず、俺を吸血鬼にした──厳密に言えばその仲介役だが──のはこの男だったからだ。だから老夫婦を俺が食べてしまったのも、埋葬してやれなかったのも、こいつのせいだとずっと思っていた。

 しかし劇場の運営がうまくいくようになってからはその感情は日に日に薄れていき、いつの日か老夫婦のことも記憶から消えつつあった。

 そして俺は憎いはずのこの男といつしか体を重ねるようになっていた。吸血鬼同士がするそのような行為に意味はないし、同性ではなにも生み出さない無意味な行為だとも知っている。しかしそれと同時に合意を得ないその行為が人の尊厳を奪うのに最適だということを俺は知っていた。だからことに及んだ。向こうはもちろん、俺としても男に欲情する趣味なんてものはないのだが、目的のためには手段は選んでいられない。

 階級が上とは言えその差は高々一つだから、体格的に有利かつ日々トレーニングを欠かさない俺が、デスクワークのみの不動の医者に負けるはずはなかったが、それでも組み敷いたときに得られたあの名状しがたい至高の高揚感は、今でも思い出すたびに心が躍る。俺の下で目に大粒の涙を浮かべながら、「やめてください、やめてください」って懇願する様は実に最高だった。

 あの日、ことに及ぶ前に勃起不全の治療薬が欲しいと言ったら、ゲブラーは怪しみながら使用目的を訊ねてきたから、俺が演劇で知り合った同業の女の子にそういうことをしたいとせがまれたが、勃たなくて困っていると言ったら快く提供してくれた。

 貰った薬をありがとうと言い終わらないうちに使用して、ゲブラーが呆気にとられたところを押し倒して強引に挿入したとき、なにが起きたのか理解できないと言った顔を見せた後、痛みに顔を歪めてもがく姿は非常に扇情的であった。自分の深層に埋まっていた嗜虐心が刺激され、薬などに頼らずとも問題ないように思えたし、当初の目的も達成された。違法薬物を使用したときのように一瞬だけれども晴れやかな気分になり、ゲブラーに対する恨み辛みが僅かに減少した。

 しかしそれを繰り返していくうちに、俺が憎悪でゲブラーの体を貪ることはなくなっていった。挿れる前には丁寧にほぐすし、極力痛みを感じないように顔色を伺うようになっていたのだ。

 ──違う、こんなのは俺がしたかったことじゃない。

 今日も俺の下で余裕なさげにぐったりとして体をマットレスに沈めているゲブラーの頭を撫でた。

「なんでかなァ。君のことは嫌いなはずなのにィ」

 後処理もすべて俺がして、自分の身なりを整えて診療室を後にしようと立ち上がり、扉に手をかけると、

「待ってください」

 とゲブラーに呼び止められた。

「ん? なァに?」

 振り返ると、ゲブラーは覚束ない足取りでこちらに来て、そっと首にキスをした。それはとても長く、唇を離したときには鬱血痕ができあがっていた。痕を愛おしそうに撫でるゲブラーがポツリと言う。

「ヴィタリー」

「…………そっかァ、良い名前だねェ」


 観客たちの体に分散させた細胞が崩壊を始め、意識が遠のいていく。

 ──結局名前を呼んであげられなかったなァ。ごめんねェ、ヴィタリー。それに……俺の名前も言いそびれちゃったなァ。呼んでほしかったなァ。いっつもティファレト、ティファレトって。まァそれは事実なんだけれどォ、ちゃんと俺の名前、呼んでほしかったなァ。例えばァ……余裕ないときや懇願しているときに…………まァもう考えるだけ無駄かなァ。俺は死んじゃったんだしィ。……君はちゃんとレオン様の命令を遂行してからこっちに来てくれよなァ。それまで待っているからさァ。俺も君もどうせ地獄に行くんだしィ、一緒に手を取り合って下に歩んでいこうなァ。

 真っ暗な無の中に入れられた俺の前に、二人の影が見えた。

 ──誰だろォ……。

 目を細めて必死に見ようと努力するが、その姿は紙に水を滲ませたようにぼやけたままで、鮮明には見えなかった。

 しかしそれは突如としてはっきりと視認できた。接近してきた人影が俺の腕に触れたとき、視力の低下した人間が眼鏡をかけた瞬間のように、鮮明に見ることができた。

「爺さん、婆さん……」

 人影は消えかかっていた記憶の中にあった二人であった。老婆が体調を崩す前の、二人とも元気な状態で、柔和に俺を包み込むように笑った。

「一緒に行こうなあ」

 老人が俺の右側に立ち、手首を掴んだ。

「ようやく来てくれたねえ」

 老婆が俺の左側に立ち、手を両手で包み込むようにして持った。

「……ずっと待っていたんですか?」

「そうじゃよ。遅すぎて待ちくたびれたわい」

「……でも俺は……」

「一緒には行けないのかい?」

 二人が俺の顔を心配そうに覗き込むが、俺は自分の足元を凝視したまま視線を動かすことができずに、

「…………ごめんなさい」

 と絞り出すようにようやく言葉を発した。

「……分かっておる。だが気にするでない」

「一緒に行きましょうねえ」

「……そ、そんな……あなたたちはなにも悪いことをしていないのだから……! それに俺はあいつに寝返ったも同然……恨んで、憎んで、罵詈雑言を浴びせたって文句は言えないくらいのことを俺はしたんですよ!」

「家族だからなあ」

「一緒に償いましょうねえ」

 老人はハンカチを俺に差し出し、老婆は俺の背中をさすった。

 体中の水分が涙として出てくる。涙なんてものは吸血鬼になって以来、ここ数百年流さなかったから、この現象に戸惑ったが、まだ自分にも人間だった頃の感覚が残っていることに安堵した。

 ──ごめんな、やっぱり俺はこの人たちと逝くよ。君といた時間よりもよっぽど短い、それこそ俺の人生で言ったら小説の一ページにも満たない時間だったかもしれないけれど、それでも俺はこの人が大切だったんだ。家族だって言ってくれたからさ。

 そして俺は、大罪を犯したティファレトという存在は消失した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ