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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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ティファレトの記憶 中編

「行ってきます」

 そう老夫婦に言うと、俺は斧を持って家の近くの森に向かった。

 この人たちに拾われて既に一ヶ月が経過した。毎日規則正しく就寝、起床を行い、栄養のある食事をした俺はすぐに健康的な状態に戻り、はつらつとしていた。体の芯からエネルギーがみなぎるようなこの感覚は今までに味わったことのないものだった。

「今日もやるか! あの人たちの役に立たないと!」

 そう一人で鼓舞する俺は手頃な木に斧を振り下ろす。それを何度か繰り返すと木は簡単に倒れた。

「よし、後は運ぶだけだな」

 俺は倒木に駆け寄ると、運べる大きさになるようにもう一度手斧を振り下ろす。バラバラにしたらそれらを籠に詰めて家へと運んだ。すると老夫婦は口々に、「助かるなあ」「ありがとうねえ」と言う。俺としてはこの程度のことで感謝されるとは思ってもいなかったから戸惑った。やはり役者を目指していただけあって俺には筋力、体力自体は人並み以上にあり、この程度のことは造作もなかったのだ。

 そして今日もお茶目な老婆の作りすぎる料理を俺が平らげる。

 ──ああ、幸せだなあ。もう夢とかどうでもいいや。あいつらは恨んでいるけれど、これがずっと続くのならそれで十分だ。

 そのようにして過ごしていたある日、俺のところに最悪の出来事が訪れた。

 いつも通り暖炉に焼べるための薪を森から取ってきたときのことだった。その日は朝から老婆が体調を崩しており、俺は街から医者を連れてきていた。そのせいで日課の伐採は午前中には行えず、午後になってしまった。

「……結構暗くなっちゃったな。急がないと。あの爺さん、婆さんに全部家事任せているせいで料理が下手なのは薄々気づいていたが、まさかあそこまでとは思わなかった。俺が作らないと俺の胃袋はもちろん、婆さんが危ない」

 ほぼ毎日通っているおかげで辺りが真っ暗でも走って下山ができた。

「ただい──ま……」

 家は真っ暗だった。ガス灯は消えており、微かに血の臭いがした。

 俺はそっと扉を開けて家に入る。

「……爺さん? ……婆さん?」

 暖炉でパチパチと音を立てて赤々と燃えている火が印象的だった。その僅かな明かりに照らされて、地面にべったりと付着した赤色を認識した。それは寝室のほうへと続いていたが、暗いせいでどうなっているのかは見えなかった。

 俺は急いで玄関にかけてあるカンテラを点灯させて寝室へと向かった。

「爺さん! 婆さん!」

 嫌な予感がする。血の臭いがどんどん濃厚になっていき、俺の鼻腔にこびりつく。心臓はうるさいほどに脈打ち、肺はもっと息を吸えと命令し、筋肉は硬直して動きが鈍った。

「そんな……」

 寝室の扉は開いており、老婆はベッドで、老人は床で倒れていた。

 カンテラが地面に音を立てて転がる。

「嘘だろ……」

 足がもつれながら俺は床で倒れている老人に駆け寄った。

「大丈夫か! なあ! 返事してくれよ!」

 抱き上げて顔を見る。

「……なあ……ああ……あ……」

 言葉が出てこない。

 老人の顔はかろうじて原型をとどめているが、片方の眼球がこぼれ出しており、筋肉で眼底と繋がれているだけだった。それからいつも自慢していた歯はところどころが溶けてぼろぼろで、見るも無残な状態となっていた。

「ああ……ああぁ……」

 一応確認のため首に手を当てるが、既に老人は息を引き取っていた。体からは死臭が漂っていたが、それだけではなかった。

「……なんで……冬眠し損ねた熊の仕業か……? 違う、これは人為的なものだ……体はほとんど食べられてはいない……じゃあ強盗? だったらもっと簡単な方法……それこそ撲殺してしまえばいいじゃないか……わざわざ……薬品なんか使わなくたって……」

 俺は老人の匂いを集中して嗅いだ。本能が拒む死臭が鼻腔を刺激するが、それ以外のものをどうにか嗅ぎとろうと努力した。

「……嗅いだ……なんだっけ……この匂い……思い出せない……」

 俺はとうとう諦めて床にそっと老人を寝かせると、ベッドの上で横たわっている老婆の様子を確認しようと立ち上がった。

「…………」

 気配を察知する。俺は脊髄反射で振り返り、後方に跳躍して距離を置いた。

「やあ、こんばんは。お気分はいかがかな?」

 俺の前に立っているのは、全体的に赤色で、すべてにおいて平均的な男性だった。左目にはモノクルを付けて目の下には[Gevurah]と印され、膨張する赤色を纏めるように白衣を羽織っている。その男の手には熱湯で満たされたマグカップと白い粉が入った小瓶、それから指で挟むように注射器があった。

「そちらの男性は失敗してしまったが、女性のほうは上手くいっているみたいですよ。ほら、見てごらんなさい。じきに動き出しますから」

 男性の言う通り、俺は怪しみながらも一瞬だけ老婆のほうを見たが、いまいち変化は見つけられなかった。

「な、なんなんだ……なんなんだよ、一体……なにをしたって言うんだ!」

「強いて言えば、借金の取り立てですかね」

「借金? そんなまさか、この人たちがしているわけが…………でも……。じゃあお前はその取り立てで臓器を奪いに来たんだな!」

「いや、別に書面で契約したわけでも、実際に金を借りたわけでもないですし、そもそもこのような老人の臓器に金銭的価値があるわけないでしょう。常識的に考えてください」

 男性はピシャリと言った。

「えっ……じゃあ……なんで……」

 口をパクパクとさせて必死に考える俺を置いて、男性はベッド近くのサイドテーブルに持っていた物を置き、片手で顔を覆うようにゆっくりと拭った。

「これなら分かりますか?」

「…………は?」

 俺は言葉を失った。なぜならその男性の顔は、今日の午前中に連れてきた医者であったからだ。黒髪で清潔感のある、人当たり──それこそどが付くほどの田舎の老人受けが良さそうな典型的な好青年だ。

「……分からない……俺には一体、なにがどうなっているのか……」

 男性は慣れた手つきでマグカップに白い粉を溶かして注射器に吸わせ、

「……まあいいですよ」

 と一点を見つめて面倒臭そうに言った。それから続ける。

「君はかわいそうですから、全部教えて差し上げます。僕は見ての通り医者です。目の前で病に倒れる人々を見るのはもう十分ですから、僕が治してあげるんですよ。しかしながら慈善活動をしているわけではないから、代金はしっかりとお支払いいただきたいのですが……中にはそれを持たない貧乏な方もいらっしゃるんです。ですから──」

 男性は言葉を区切り、注射器を老婆の首に刺した。

「──このようにして体で支払っていただくんです」

 恍惚とした表情でこちらを見て、ねっとりとした耳にこびりつく声で言った。

「……そ、それに関しては俺がなんとかするって……それであんたは了承したじゃないか!」

 老婆を診てもらったあと、医者に診察代を請求されたが、今の俺たちでは即座に支払える額ではなかったから、俺は額を床に擦り付けて分割にしてもらえるように頼み、医者はそれでいいと返答していたのだ。

「嘘だったのか! 人でなし!」

「……はあ、君がなんと言おうが構いませんが、まだ取り立ては終わっていないんですから、あまり舐めたことを言うのは控えたほうがよろしいかと」

 言い終えた男性の気だるそうな視線が老婆を包み込んだ。

「……ようやくか」

 ポツリと言ったかと思えば、男性は新たな注射器を取り出して自身の首に刺した。するとみるみるうちに中は血液で満たされた。

「君で最後にします。よかったですね、これで取り立ては終了ですよ」

 瞬きよりも僅かな時間で男性は俺に接近し、血液で満たされた注射器を刺して中身を注入した。刹那、そこから燃えるような激痛と芋虫が這うような悍ましい感覚を味わい、のたうち回って悶え苦しんだ。

「うむ……やはり人間でなくなるというこの過程は、気持ち悪いですね」

 程なくして俺はその場に倒れ込んで意識を失った。


 次に意識が戻ったとき、俺の前には老夫婦のバラバラになった原型をとどめていない死体があった。

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