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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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ティファレトの記憶 前編

 俺に舞台役者の才能はなかった。あるのは人を惹きつける世間を超越した整った容姿と黒子としての才能だけだ。それに気づいたのは、役者を志して間もなくのことだった。多感な十代、その現実を突きつけられたときは気が狂いそうだった。

 劇団の傘下にある養成施設に所属して、劇団の役者として活躍すべく日々練習していたが、上達しない。セリフは完璧に、そして誰よりも早く覚えた。俺は人一倍記憶力が良いようで、一度読めばすべて記憶することができた。だから浮いたその時間を演技の練習に使ったが、先輩曰く、まるで見れたものではなかった。

 それでも絶え間なく練習を続けていたある日、劇団から養成施設に役者の求人が届いた。もちろん俺はそれのためにより一層練習に精を出した。睡眠時間を削って一生懸命に演技を学び、見栄えを良くするために体型をショーウィンドウのマネキンのようなプロポーションへと鍛え上げたのだ。

 そして迎えた当日、俺は普段とは比べ物にならないほど優れた演技をした──と思っていた。しかしそれは劇団から来た審査員の目には止まらず、落選した。

 その日は眠れなかった。せっかく食べた夕食もすべて戻してしまい、一人自室で布団をかぶって泣いた。声を押し殺していたせいで喉が締め上げられるような痛みがしたが、その程度の痛みで心の痛みを超えることはなく、翌日もずっと陰鬱な思いであった。

 その日が境だっただろうか。それ以来俺はろくに食べ物を嚥下することができなくなったのだ。だから日に日に衰弱していき、ベッドから起きられない日が続いた。そのような様子の俺を同志が心配してくれる──というような感動の物語などあるはずもなく、揃いも揃って俺のことを嘲笑っていた。

『あいつ、まだやめないのかよ』

『そうそう、才能がないんだから、さっさとやめちゃえばいいのに』

『邪魔だよな』

『本当それ』

『でもさ、あいつは演出に関してはちょーうまいよな』

『なんだかんだで一流の人間と遜色ないから、もうそっちで食っていけばいいだろ』

『演技の才能を全部そっちに振ってるのに早く気づかないかな?』

『もったいないよなー』

『あとさ、あいつってプロポーションもいいよね』

『男の俺でも惚れるわ、あれ』

『男娼でもやらせてみる?』

『はは、それは面白そうだな。案外ナンバーワン取れたりして』

 彼らの言葉は俺の心臓を抉り取った。だから俺の体には何もない空間ができあがり、俺はそれを満たすのに必死になった。

 ──演出以外……そう、演劇で成り上がってやる……俺にはお前らにはない美貌があるんだ……誰もが羨むこの容姿で……必ず……。

 思い立ったが吉日。俺は荷物をまとめるや否や日の出の待たずして養成施設の寮を後にした。行くあてなんてものはないが、とりあえず遠くを目指した。

 列車に揺られて十数時間、それを繰り返して辿り着いたのは、一つの小さな街だった。その頃には手持ちのお金は底を尽き、空腹を満たすこともできずに裏路地で壁に動かない身を預けて座り込んでいた。

 息を吐けば白く、それは天へと昇っていった。気がつけば細かな雪がしんしんと降ってきて、一層寒く感じられた。体の芯が急速に冷凍されていくような気がして、俺は生きた心地がしなかった。

 寒さと空腹から思考は大した働きを見せず、俺は対面の路傍を虚無感に支配されたまま凝視していると、

「おや? あんた、ここらでは見ない顔じゃあないか。どうしたんだい、そんな死にそうな顔をして。それにそんな薄着じゃあ寒いだろうに」

 と好々爺が話しかけてきた。

 俺が訝しげに老人の顔を窺うと、

「クリスマス精神も足りておらんようだし……ほら、おいで。お腹が空いているんじゃあないかい? 今日はクリスマスだ。婆さんが二人では食べきれないほどの料理を作っているだろうから、一緒に食べようじゃあないか」

 と手を差し伸べた。

 俺は疑いながらもその手を取った。老人の手は酷く乾燥して皺々で、手袋もせずに外気に晒されていたから俺とほとんど同じくらいの体温だったが、それが今の俺にはとても温かく感じられた。

「さあ、行こうか。婆さんが待っておる。きっと今年も七面鳥を三羽も焼いて、スープもガロンで作ってしまっているだろうから」

 半ば引きずられるように俺は老人に連れていかれた。

 ──まずい、この爺さんは俺にがっつり食べさせようとしているじゃないか。ここしばらく俺はろくに固形物を食べていないんだぞ。そんないきなりたくさん食べられるわけがないだろう。……ああ、まずい、どうにかいい感じに嫌な思いをさせないように言って回避しないと……なにか良い言い訳はないものだろうか……。

 俺は必死に思考を巡らせた。

 ──スープ、スープだけならいけるか? っていうかガロンで作るってなんだよ、頭おかしいのか。話を聞く限りこいつは二人家族なんだろう? それなのにそんなアホみたいな量作ってどうするんだよ。

 考えることをやめ、俺は内心で罵倒を始めた。

 ──大体さあ、七面鳥を三羽もまあまあおかしいからな? 俺の家族だって…………。

 老人が足を止めた。そこには街から少し離れ、人気のない雑木林の中にある一軒家だった。煙突があり、そこからは白煙がもくもくと上がっていた。

「ほら、着いたぞ」

「…………」

 嫌な記憶が蘇る。今までずっとずっとずっと深層に埋めて隠していたものが姿を見せた。そしてそれは涙となって表層に現れる。

「どうしたんだい、少年。大丈夫かい? クリスマス精神はもちろん、栄養も足りておらんようだし……」

 突然泣き出した俺に老人は少々慌てた様子を見せたが、すぐに家の扉を開けて俺を家の中に入れると、

「婆さん、婆さん、この少年に温かい飲み物を出してやってくれ」

 と言っては俺をリビングの食卓テーブルにある椅子に強引に座らせた。俺は拾われた猫のように怯えながら部屋を見ると、注視せずとも部屋中がクリスマス仕様になっていることが分かった。

 ──そういえばクリスマスの時期か。それにしてもこの街はクリスマスという文化がよく根付いているものだなあ……。俺の家じゃツリーを飾って七面鳥を焼くのが精々……だ……。

 老人は俺の向かいの席に腰を下ろした。しばしの沈黙の後、

「ああ、これはまた綺麗な男の子じゃあないか。爺さん、この子を一体どこで拾ってきたんだい?」

 と、これはまた人の良さそうな老婆が湯気が出ているマグカップを三つ載せたトレイを持ってテーブルにやってきた。マグカップをすべてテーブルに置き終えると自身は老人の隣に座り、俺の顔を一瞥して言った。

「ほら、そこの路地でへたり込んでいたからなあ、あまりにもかわいそうで。あのまま放っておいては死んでしまいかねなかったからのう。だから連れてきたんじゃ」

「そうだったんですねえ」

 老婆は老人に相槌を打つと再度俺のほうを見て、

「なにがあったかは話さんでもいいから、とりあえずそれを飲みなさいな。体が温まるからねえ」

 と言って柔和に笑った。そのときにくしゃくしゃになる皺だらけの顔が、この人の人の良さを表していた。

 脈が上昇していく中で俺はマグカップを手にして、少量を口に含んだ。それは熱々のコンソメスープで、クルトンが浮かべられていた。

 俺はスープと一緒に入ってきたクルトンを噛み砕き、決意すると液体と一緒に嚥下した。すると食道を熱が通り抜け、胃が熱せられた。外側はもちろん、内側も非常に冷えていたのをここで始めて気がついた。

「……美味しい」

 言葉が漏れる。

「口に合ったかい? それは良かったねえ。まだまだいっぱいあるから、たんとお飲み」

「は、はい……」

 俺はマグカップを覗き込み、スープの水面に映る自分を見つめた。痩せこけて頬骨が薄っすらと見え、皮膚はビタミンが足りていないのか赤くなったり、皮膚が剥がれていたりした。それに加えて顔は青白く、サナトリウムにいても違和感のない不健康さが滲み出ていた。

 ──ああ、俺はもう限界だったんだ。

 何故だか俺はこのとき、ようやく諦めがついた。もう演劇はやめよう。これからは静かに暮らそうと。



 この後、これまでの出来事を一通り吐き出して落ち着いた俺は、老夫婦によってしこたま料理を食べさせられた。もういらないと首を横に振っても、次から次へと皿に盛られ、『若いんだからもっと食べなさい』と口を揃えて言われ、無理やり食べさせられた。

 当然、そのあとに俺は猛烈な腹痛に見舞われたことは言うまでもない。上から出てこないように気合と根性でどうにか抑えてその日は眠りについた。

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