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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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みんな腹の中 後編

 高波は容赦なく僕を呑み込んだ。それは心臓が止まるかと、そして四肢の末端が爆発に巻き込まれて一瞬にして吹き飛んだかのように感覚がなくなったかのように思えるほど、限りなく温度がマイナスに近い水だった。

 ──いきなりこんな水温のところに入れるとか、心臓が止まりかねないだろ! ふざけんな! 殺す気か!

 体を温めようと本能が皮膚を粟立たせて強引に体温を上げようとしたが、あまり役には立たなかった。その間も激しく空間を掻き混ぜる水に僕の体はされるがままに流され、翻弄されていた。

 酷く冷たい海水に揉まれたせいで、水中に入れられて早々に酸欠になり、悶え苦しむことになった。まずは気道が、内部の圧力が低下したストローのようにきゅぅと吸い込まれるような苦しみを発した。次に喉が締め付けられながらも胃に入っている内容物が込み上げてくるような気がした。それから思考が綿に包まれたかのようにぼんやりとしてきて満足に働かなくなった。さらには体の末端はあたかも微弱な電流が流れているかのように感じられ、上手く力が入らなくなった。

 ──まずいな、これは。エスターはいないし、ナスチャもどこかに行っちゃった。それに肝心のアンジェラは見当たらない。……異能で空間をいくつも作り出して隔離された挙句、脱出する方法が容易に想像できそうにないのでは、勝ち目がないじゃないか。

 口角の隙間から気泡が漏れた。

 ──現に体は動かない。……いや、動く。動かそうと思えば動くが、それをしたら最後、僅かに残っている酸素を使い切ることになるな。仮にそれを実行して脱出口を探したとしても見つかるという確証はない。そうなったら最悪だ。僕はここで溺死することになる。それは勘弁だ。

 体の末端の感覚が失われ、四肢がまるで自分のものではないような気がした。金属が胴体に吊るされているようなもので、重くて仕方がなかった。

 ──どうするかな……あいにく僕には難局打開の妙案なんてものが思い浮かぶほど優れた頭脳は持ち合わせていない。しかしここでなにもできずに死んだら、皆の期待を裏切ることになる……。

 ただでさえ出来の悪い頭脳に酸欠が加わった不明瞭な思考が良い案を出せるはずもなく、水の中をどんどんと終わりなく沈んでいくばかりだった。

 ──未来を選択するのに懸けるか? いや……発生しうるものでないと選べないから、助かる見込みがない今は自滅に過ぎない。ならば陰は? ……これもダメだ。切ってどうこうなる問題じゃないだろう。

 気泡が漏れる。

 ──ああ……もうダメだ……万策尽きた。

 我ながらこの程度で策が尽きるとは恥ずかしいことこの上ない。

 全身の力が抜ける。もう体は限界が近かった。しかし意識が朦朧として、体の感覚が失われつつある中でもしっかりと苦痛だけは感じられたから、それから逃れるためにできることならば喉が裂けるほど絶叫したかった。

 気泡が漏れる。

 自分のものではないように思える体が底に着いた。それはあたかも自分が人形で、床に転がったようなものだった。

 ──沈むのが止まった……?

 脳は指令を出した。かろうじて動く指先をすりすりと動かして底が本当に存在するのかを確かめると、確かにそこは底であった。

 それから僕は目だけを動かして底を見る。滲み、歪み、不鮮明な視界には延々と海底へと続く絵が映っていた。

 ──生み出せる空間には限りがある……ってわけか。……まあ、気がついたところで今さらって感じだけれどな。

 気泡が漏れる。

 既に体には意識はなく、苦痛からは解放されていた。このまま氷像になってしまいそうなほど体は冷えて、本来の柔らかさを失っていた。

 体に残っていた最後の空気が口から零れた次の瞬間、氷のように冷たくなった体の芯が突然カッと熱くなった。それはガソリンに着火したかのように瞬く間に胴体へと広がっていき、僕を強引に覚醒させた。酸素が足りないせいで脳の大半が仕事をしないが、それでもまだ死んでいないという事実を知れたことは良かった。

 内臓が焼けるような、そしてそれを紛らわせるために搔きむしりたくなるような不快な感覚に反吐が出そうだ。

 ──ああ、このクソったれが……やっぱりこうなるんだよな……。

 陰が腹部からじゅるりと触手となって姿を現した。

 ──一体この状況でなにをするっていうんだ……? 打開策なんてないだろう……僕も……お前も……。

 触手が二、三メートルほど伸びた刹那、先端を無数に分裂させて僕の体を突き刺した。手足、前腕、上腕、ふくらはぎ、太もも、みぞおち、胸、首、眼球、耳、といった具合だ。

 陰による突然の攻撃を僕はただなにもせずに呆然とした態度で受け入れたが、一呼吸置いて全身に張り巡らされた痛覚が警鐘を鳴らした。

 刺されたときの痛みはもちろんのこと、血管が無理やり押し広げられたかのようで、耐え難い激痛が全身を駆け巡った。それに加えて体内へズルズルと名状しがたい悍ましさを伴って侵食していくせいで、芋虫が体内を這っているかのような莫大な恐怖と不快感を味わった。

 ──やめろ、やめろ、やめてくれ、僕の体を侵さないでくれ……!

 しかしその地獄も束の間、僕は呼吸できない苦しさからは解放された。全身を、指先までもを芋虫が這いずるような皮膚が粟立つ感覚こそ払拭はできていないが、それも今となっては気にはならない。それ以上に、あたかも体に酸素が供給されているような今の状態が幸福に感じられたからだ。

 ──なんだ、これ……一体どうなっているんだ……?

 思考が明瞭なものになり、普段の処理能力と遜色ないものとなった。

 ──まるでスマートドラッグを摂取したようなものだな……まあ……聞いただけで、やったことはないのだけれども……。

 全身の血流が良くなり、細胞の一つ一つが魚の水を得たように活性化して、思うがままに体に力が入るようになった。

 抱えていたことにより落とさずに済んだクレイモアを握りしめて、再度思考する。

 ──ここが異能の空間の終わり……。

 指先で底をつついた。どこまでも深く深く続いている景色を眺めて。

 ──仮にそうだとして、この先はどうなっているんだ……? なにもないのか……? それとも元の空間に繋がっているのか……?

 透明度の高さとは裏腹に、床は硬度の高い金属のようにとてつもなく硬くて強度があり、簡単には破壊できないことは容易に想像がついた。

 ──クレイモアで何度か切る……っていうか、叩けば破れるか……? しかしそれによって変な空間に飛ばされて永遠に帰って来られないとかなったら、それはそれで洒落にならないよな……。

 嫌な想像が異様な加速度で膨張していった。いくらポジティブに考えようとしても、それをすぐにネガティブな考えが覆ってしまい、無駄になってしまった。

 ──どうしよう……どうしよう……どうしよう……。

 僕の頭の中では同じような考えが堂々巡りするばかりだった。

 ──進むことによって事態は好転するかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし道は前にしかない今、進むしかない。退くことは許されない。

 腹をくくってクレイモアを握る手に力を込めると、大きく振りかぶった。

 ──砕けろぉぉぉォォ!

 高い硬度を保つ物体が衝突し、鈍い音を発した。それを何度も何度も、幾度となく繰り返してこの状況を打開できるのを祈ってクレイモアを打ち付けた。

 ──クソ、やっぱりそう簡単にはいかないか……。

 心中で吐き捨てるように言った次の瞬間、クレイモアに巻きついていた黒色の包帯のようなものがシュルシュルとほどけていき、僕の両腕に絡みついた。

 ──なんだ……?

 一拍置いて体が僕の支配下から外れたように、意図しない動きを始めた。厳密に言えば目的の通りの動き──砕こうとクレイモアを振り下ろしているのだが、それがまるで自分の脳からの伝達で動いているのではないような気がした。

 自分が自分でなくなるような妙な感覚の中でクレイモアを振り下ろし続けて一分も経たないうちに底には放射状に亀裂が入り、中心から粉々に砕けていった。

 ──陰、陰、一体なにをしたって言うんだ!

 僕の腕に絡みついた黒色の包帯のようなものは再びクレイモアに巻きついて、何事もなかったかのように元の状態へと戻った。

 ──うわぁ……特異体の装備って本当、特殊すぎるだろ……。

 少々顔に不快感を滲ませていると、砕けたところは徐々に穴が大きくなっていき、一気に海水が抜けていった。当然その前にいる僕も尋常ではない力で吸い込まれていった。


 ──暗転。

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