みんな腹の中 前編
突如として目の前が真っ暗になった。狭まっていた瞳孔を目一杯広げるが、なかなか順応できない。
「アンジェラ? アンジェラ?」
わたしの手は虚しく空を切る。ひんやりとした空気が皮膚を包んだ。
「面倒だなァ、ホロコーストが追加されるなんてェ」
男性の声がした。しかしそれがどこからしているのか、特定はできなかった。一方向からの音ではなく、まるで全体からわたしのところへ集中しているようで、今までに体験したことのないものだった。それに加えて強烈な吸血鬼特有の匂いが漂っているにもかかわらず、あたかも鼻腔に膜が張ってあるかのように感じられ、特定することはできなかった。
──畜生、どうすればいいんだよ……。
思考を巡らせて熱くなった脳を冷やすかのごとく、わたしは大きく息を吐いた。
──精神を乱されては正しい行動ができない。落ち着け、落ち着け、落ち着け……。
「それもォ……彼女とは違ってェ、メンタル強そうだしィ……」
吸血鬼は一々癪に障る口調で言う。
──お前のはらわた全部出して、腸で縄跳びした後、眼球を抉って口に詰めた挙句、晒し首にしてやる。アンジェラに酷いことをしたことは絶対に許さない。絶対にだ。
意識せずとも双剣を握る手に力が入る。
「……まァ、ちっちゃくて可愛いからいいけどォ」
吸血鬼が言い終えた次の瞬間、わたしの体がくの字に折れ曲がった。それから間髪入れずに暴風に晒された木のようにいとも容易く吹き飛んで、綺麗な放物線を描いた後、一度床に叩きつけられて弾み、何度か転がってようやく止まった。
直撃する前に気配を察知して後方に飛んでいたが、威力が高すぎるせいでまったくもって意味がなく、内臓が抉り取られたような虚無感を腹腔内に覚えながら激痛に悶えた。
──反応はできた、できたが体が追いつかなかった。
すぐさま立ち上がり双剣を構える。今すぐにでも家に帰ってお風呂に入って、温かい布団を頭からかぶって眠りたくなるほど、痛みから戦意が削がれているが、それを感情の瓶の深層に押し込んで現実に立ち向かった。
わたしの前に吸血鬼が姿を現した。
「やァ、こんばんはァ。ご機嫌いかがかなァ?」
右の手のひらを見せ、ひらひらと動かしながら吸血鬼は言った。顔には人を小馬鹿にしたような心底腹立たしい表情を貼り付けている。
「気分は最悪だ。セシリアとアンジェラを返せ」
「んーつれないなァ、それェ。いきなり本題に入っちゃ面白くないよォ。ほらァ、まずは自己紹介してあげようかァ?」
吸血鬼の耳から離れない、ねっとりとした声がわたしの神経を逆撫でした。
「いらん。お前がセフィラだということは分かっている」
言い終えると同時に床を蹴り、吸血鬼の首を切り落とそうと双剣を振るった。しかしそれは虫を払うように片腕で遮られた。しかも刃は前腕の半分も切れずに止まり、それ以上は進まない。
わたしは刃を抜こうと引っ張るが、傷の内部から剣身が圧着されているかのようで、なかなか抜けない。
──ああ! もうっ! なんで抜けないのさ!
「ちゃんと固有名詞で覚えて欲しいなァ」
引き抜こうと躍起になるわたしをよそに吸血鬼ははつらつとした笑みを浮かべて言い、鬱陶しそうにわたしの腹部に前蹴りを放った。
臓器が押し潰されそうな衝撃と共に刺さっていた剣が抜けて、わたしは後方に大きく吹き飛んだが、すかさず体を捻って猫のように足から着地し、次の攻撃に備えた。
「俺はティファレト。第六のセフィラだよォ。よろしくねェ、お嬢ちゃん」
ティファレトと名乗ったそれが発する気配が急激に重く、冷たいものに変化した。まるでわたしにかかる重力が何十倍にも増したかのように、その場から動けなくなる。
「それじゃァ、早速本題に入ろうかァ。──なんだっけェ? 君のお友達の話だっけェ? ああ、そうそう、そうだった、そうだったよォ。確かァ……アンジェラだァ。あの綺麗なブロンド髪の女の子だよねェ。いいよなァ、あんなにも綺麗な髪をしていてェ。羨ましい限りだよォ」
ティファレトはコクコクと頷きながら、
「まァでもォ……もう少し時間をかければ彼女も吸収できそうだからァ……いいけれどもねェ……」
と続けた。
「しかしまァ、しぶといよねェ、彼女もォ。なんだかんだでェ……どうだろォ……もう……丸二日くらいはずっとあのままになっているんじゃァないかなァ……あのけったいな特異体と同化しているせいでェ、なかなか吸収できないんだよォ。まったく困ったものだよねェ」
両手をひらひらと動かして呆れたようにティファレトは言った。しかし態度からは余裕が見て取れた。
──同化した隊員二人を相手にしても余裕……さすがは中層のセフィラだけあるな。……こちらも気を引き締めていかないとアンジェラの二の舞になりかねない。
「……言いたいことはそれだけか。だったらさっさと消え失せろ」
わたしは語気を強めて不快感を露わにして言い、双剣を持ち替えて刃の向きを変えた。カチャリと音がしたのを皮切りに空気が一気に極寒の地のごとく冷えて緊張が走った。
「……やる気だねェ。その不快さが滲み出ている不服そうな顔、最高だよォ。こんなにも良い顔するのならァ、首を切り落として部屋に飾るのもいいなァ。俺はエンバーミングが得意なんだよォ、だから任せて。完璧に美しいまま残してあげるからァ」
ティファレトは目を細めて不敵に笑いこちらに手を向けた。
「異能力──道具『英雄』」




