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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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忘れ去られるまで生きている 前編

 起き上がることができない。体に力が入らない。体は脳からの指示を受け付けないのだ。印刷物を水に浸して滲ませたかのように思考は不鮮明なものになってきた。

 ──そうだ、俺はノエルに致命傷を与えられたんだ。脳幹をあのレーザーで撃ち抜かれてもうすぐ死ぬんだ。

 床の冷たさを感じながら呆然と床の一点を眺めていると、視界が水中に潜っているかのようにぼやけてきた。

 ──ああ、結局あの人の役に立てなかったなぁ。ここであの女を殺せていれば、あの人は俺に第九セフィラの座を与えてくれるって言ってたのに……頑張れなかったなぁ。

 刻一刻と迫る自分の死に対してどこか他人事のように思いながら今日の出来事を思い返す。

 ──まさかノエルがあそこで乱入してくるとは思わなかった。完全に想定外だったなぁ。あの女を殺してからゆっくりと建物内を探してノエルを連れて帰ろうと思っていたのに……。

 指先の感覚が薄れていく。

 ──それにしてもまさか俺の異能を克服してくるとは……あの方の言っていた情報とかけ離れていたじゃないか……鳥がいなければ彼女が持つ強運以外、大したことないって……。

 四肢の感覚も失われていく。

 ──でもまぁ最期にノエルに会うことができてよかった。あんなに大きくなって……それに……。

 体に力が加わり、動かないはずの体が持ち上がる。視界の隅に入る自分の手足はほとんど消失しており、それはまもなく胴体に到達しようとしていた。

 ──案外死ぬときはあっけないものだな。このまますべて消えてなくなる、なんて生きた事実が残らないのは少し寂しいなぁ。しかしまぁ……痛みを伴わないのならいいか。

 自分の死を実感する。ざるで砂漠のサラサラとした砂をすくったかのようにこぼれ落ちていくように、体は自分の魂から抜け落ちていった。──否、魂が体を抜けて上昇していっているのだ。

 ──でも、死ぬときの快感って性行為で得られるものよりも多いはずなんだけれどなぁ……あんまり気持ちよくないや。……早く脳内から分泌してよ。

 そのようなことを考えていると、

「お兄ちゃん、やっと会えたね」

 と俺を抱き上げているノエルが口を開いた。目から大粒の涙を溢れさせ、赤く腫らしていた。

 ──こんなにも綺麗になって……お前は昔から綺麗な顔立ちだった。近所でも評判の美人だった。だからきっと良い人を見つけて幸せになれるはずだった。それなのに……俺が吸血鬼になったせいで……こんなことになってしまって……。

「……ごめんな、ノエル」

 俺の口から言葉が漏れた。するとノエルは少し驚いた後、困惑を顔に滲ませて、

「お兄ちゃんのせいじゃないよ」

 と作り笑いを浮かべて言った。

「……俺が吸血鬼にさえならなけれお前は……お前は幸せになれた……はずなのに……本当にダメな兄でごめんな……」

 するとノエルの目から大量の涙が溢れ出した。まるでダムが決壊したかのように止めどなく流れ、頬を伝って滴り落ちていく。

「すべて……すべて……あの男が悪いんだよ。だから……お兄ちゃんは悪くない。それに……」

「それに……?」

 俺が首を傾げると、

「私、案外この生活が楽しくてさ。死にたくなったり、実際に死にかけたり、生死の境を彷徨い歩いたり、辛いことはいっぱいあるけれども、それでも充実しているからさ」

 とノエルは明るく笑って見せた。しかしその表情は彫像のように固まっており、生気が感じられない。

「……お前は可愛くて綺麗だ。それはもう、とてもとても。皆、喉から手が出るほど欲しがるほど綺麗なんだ。だから……」

「……だからこんな職場はやめて玉の輿にでも乗れって?」

 俺が言おうとしていたことをつらつらとノエルが抑揚のない声で言った。それはまるで俺の心中を文章に仕立て上げ、それを読み上げるニュースキャスターのようだった。

「そう……そうすればお前は二度と……あんな生活には──」

 なにかを叩く高い音がした。一拍置いてそれが自分の頬を叩かれたことによるものだと気がついた。

「私は……! 私は今の生活が気に入っているの! だから邪魔しないでよ! ──そうだよ、お兄ちゃんのせいで私は今までいっぱい苦労した。なんでこんなに理不尽な世界なんだって。周りの人間を見て、私はずっとずっとずっと羨ましく思っていたの! 新しい洋服を買ったもらって、どこそこに連れて行ってもらったって話をずっと指を咥えて聞いていた!」

 ノエルは子犬が威嚇して吠えるように言った。一呼吸置いて続ける。

「なんでこんなにもうちにはお金がないんだろうって。なんでこんなにもうちは貧乏なんだろうって。私はみんなを恨んでいたよ。それでも──」

 口に溜まった唾液を喉を鳴らして飲み込み、

「──それでも私は文句を言わないで生きてきた! そしてそうやって隠して生きるのにも慣れてきたの! それなのに……お兄ちゃんは……自分が悪いって事実を述べて反省していると見せかけて……本当にタチが悪いよ。だから……お願いだから……もう……私の邪魔をしないで!」

 と言い切った。

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