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深淵の少女  作者: 高城ゆず
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満たされない空間 後編

「……お腹が空いたのじゃ」

 所持金が尽きた。冷蔵庫には僅かに残っている食料。後三日も保てば良いほうだろう。

「……働かないとなのじゃ」

 重い体を起こしてふらふらと覚束ない足取りで冷蔵庫を開ける。兎にも角にも空腹を満たしてからでないと、なにもできはしない。

「…………」

 昨晩袋に入れてタレに漬けておいた鶏肉を取り出すと、加熱して油を引いたフライパンの上に載せた。中火で炒めるとそれはとても良い香りがして、食欲がそそられた。

 お腹が鳴った。

「……そろそろかのう?」

 こんがりと焼き色が付いた鶏肉を炊きたての白米の上に載せて、食卓テーブルに置いた。

 胃が満たされるこの感覚がたまらなく幸福に感じられ、一生この感覚を手放したくはないと心底思った。

「……仕事を探すのじゃ」

 だからわらわは決心してその日のうちに仕事を見つけてきた。

 またしても工場勤務だが、それも良いだろう。安定して金が入ってくるのだから。それに少なくとも最初に働いていたあの職場よりもよっぽど労働条件が良いのだ。

 人間関係も悪くないその職場で働いて一年が経過した頃──とてつもなく大きな事件が起きた。

 わらわはその日は休暇をとっていて、外出していた。だから工場にいなければ寮にもいなかった。──それが幸運だったと言わざるを得なかった。

 街で一日中何かしらを食べながら過ごし、翌日の勤務に合わせて準備をしようと明け方に寮に戻ってくると、そこに人はいなかった。寮のある建物には鉄の臭いが充満しており、どこもかしこも血まみれで、気分が悪くなるようなものだった。

「……なんなのじゃ……これは……?」

 非常出口の緑の灯りが怪しく廊下を照らしている。入り口の管理人室を覗くと、無機質な白い部屋には赤色の花弁が散っていて、その真ん中で見知った人がうつ伏せで倒れていた。腹のところで真っ二つになっており、下品に臓腑をぶちまけていた。

「……管理人さん……死んじゃったのじゃ……?」

 恐る恐る体に触れると、それはとても冷たくて、現実を理解した。

「……なんで……なんでなのじゃ……どうして人が死ぬのじゃ……?」

 ポロポロと涙を零しながらわらわは死体となった管理人に手を合わせる。

「…………」

 こうしていても埒があかないことを理解していたわらわは立ち上がり、自分の部屋を目指して歩き出した。

 薄暗い廊下を歩き、階段を上る。異様な静けさの中、わらわの発する足音だけが不気味に響いた。

 生唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえる。

「…………」

 自分の部屋の前に到着したわらわは鍵を取り出して差し込み、回した。ガチャリと解錠する音がする。中には同僚である三歳年上の少女がいるはずだ。その少女はわらわと似た境遇で、親の顔を知らないと言う。だから意気投合してこのように同室で寝泊まりをしている。

「……無事なんじゃろう?」

 ドアノブにかける手が小刻みに震えている。その金属の冷たさに神経が驚いたようにビクリと跳ねた。

「……生きてるのじゃろう?」

 生唾を飲み込んでからゆっくりとドアノブを回して扉を開けた。立て付けの悪い扉の蝶番がキィと音を立てながら役割を果たした。

 部屋は恐ろしいほどに静かだった。血の臭いはしないし、血痕もなかった。

 それを見て安堵したわらわはそっと旨を撫で下ろし、部屋に入った。扉を閉めて鍵をかけると、二段ベッドの下段を見た。そこにはぐったりとして体調が悪そうだが、命に別状はない様子の件の少女がすやすやと寝息を立てている。

「……よかったのじゃ……生きてるのじゃ……」

 そう言葉を漏らして、わらわは二段ベッドの上段に上り、目覚まし時計を勤務開始一時間前に設定して、その時間まで眠ることにした。


 次に視界に入ったのは、わらわの知らない天井の景色だった。清潔感のある白い天井だ。それに加えて寝ているベッドの感触も異なった。それはとてもふかふかしていて、工場の寮にあるせんべい布団とは大違いの柔らかさだった。それも洗濯してあるようで良い香りがする。

「……なんなのじゃ?」

 わらわが上体を起こして周囲を確認するが、白いカーテンで個室のようになっているせいでここがどこかは分からなかった。

 その後に自分の体を確認すると、着替えさせられており、薄汚れた作業着ではなく、これまた清潔感のある薄い青色の病衣になっていた。

「……どうなってるのじゃ?」

 わらわは自分の頬を引っ張った。──痛い。どうやらここは現実世界のようだった。

「……誰か人を探さないとならんのじゃ」

  ベッドから降りようとするとバランスを崩し、顔面から床に落ちた。鈍い音と共に額がじんじんと熱を孕んで痛みを発する。

「……痛いのじゃ……痛いのじゃ……」

 床でしたたか打った額を撫でながら立ち上がると、仕切りになっているカーテンをそっと開けた。カーテンによる個室の外は一本の細い廊下のようになっていて、向かいも隣も同様にカーテンで仕切られて個室のようになっている。

「……これが病院というものなのじゃ?」

 自慢ではないが、わらわは人生で一度も病院に行ったことがない。だからこの初めて見る景色にわくわくしていた。

「……本で見た通りじゃな」

 部屋を出ると長い廊下があり、そこにいくつもの部屋があった。部屋の入り口にある名前のプレートを入れるところには、名前ではなく番号のプレートが入れられていた。

「……個人情報保護というものなのかのう? ……それはまた面倒なことじゃ」

 同時に自分の手首を見ると、一本の防水の細長い紙が巻かれており、数字の羅列が印刷されていた。それと部屋の入り口にある数字が表示されているところを見比べると、右下に同じ番号が書かれていた。

「ここがわらわの場所なのじゃな」

 部屋の番号と自分のベッドの場所を覚えたわらわは廊下を歩き出した。しばらくすると、ナースステーションに到着した。そこでは看護師が忙しそうに仕事をしている。それを興味深そうに観察していると、視線を感じた看護師の一人がこちらを見た。

 目が合う。

 女性の看護師が、

「あ、あなた、昨日搬送されてきた方ですよね。目が覚めたんですね、良かったです。では早く部屋に戻ってベッドで横になっていてください。今から検査と聞き取りを行いますので!」

 と早口で言ってわらわに病室に戻るように促した。もう少し探検したかったが、看護師を困らせてはいけないという天使のほうのわらわが言うものだから、渋々それに従って自分の病室に戻った。

 少しして先ほどの看護師とスーツを着た男性、それから白衣を着た黒髪の女性が入ってきた。

「えっと……とりあえず熱を測ってくださいね」

 看護師に体温計を渡されたからそれを脇に挟むと、男性が口を開く。

「あなたは昨日、なにを見ましたか?」

 男性の手にはクリップボードがあり、ボールペンを片手にこちらの心中を覗き込むように見つめてきた。

「なにって……なんのことじゃ……?」

「ピアノの製造を行なっている工場に勤務されている関係者にあたりますよね? だからそこでなにがあったのか話していただきたいのですよ」

「なにって……わらわは非番だったから工場でなにが起きたかは知らないのじゃ……」

「では……非番ということでしたが、あなたは寮で起きたことを知っていますか?」

「知らないのじゃ。わらわは明け方──五時くらいまで外出していたから……なにがあったのかは知らないのじゃ……だけれど……帰ってきたら……寮の建物の中が血まみれになっていたのは知ってるのじゃ。管理人さんが……管理人さんが死んでいたのじゃ」

 わらわの答えを聞いた男性は頬をぽりぽりと掻いてから、クリップボードに挟んである紙にボールペンを走らせた。

「では、それを誰がやったかは知っていますか? 誰がやったか見ていましたか?」

 わらわは首を横に振った。

「帰ってきたらそうなっていて……そうだ、わらわと同じ部屋にいた三つ上の人はどうしたのじゃ? 無事なのじゃ? ここに入院して──」

 男性はわらわの言葉を遮って、

「今は関係のないことです。私の質問に答えてください」

 とぴしゃりと言った。

「見てない! なにも見てないのじゃ! 帰ってきたらそうなってて! みんな……みんな血まみれの肉の塊になっていて……! それが夢だと思って眠ったら現実だと聞かされて……! もう嫌なのじゃ!」

 あっという間に起きた出来事に脳の処理が追いつかずに声を荒げるが、男性は感情の揺らぎ一つ見せなかった。

「……分かりました。聞き取りはこれにて終了です。ご協力ありがとうございました」

 胸ポケットにボールペンを差して男性は立ち上がり、会釈をして病室を出ていった。ちょうどそのタイミングで脇に差していた体温計が鳴る。それを抜き取った看護師が、

「──異常なしですね。大丈夫ですよ。もう少ししたら朝食が来るので、それまで待っていてくださいね」

 と言って男性の後を追うように出ていった。

 病室にはわらわと見知らぬ白衣の女性が残された。一見医者のように見えるが、それにしては妙に軽そうな人間に思えた。

 だからわらわは訝しげに女性を見る。すると、

「私はレジスタンス隊員訓練施設・施設長のシェリル・クラークよ。あなた──シルヴィア・アレンよね? 知りたくない? あなたがさっき言っていた同僚のこと」

 と矢継ぎ早に言った。

「なんじゃと! あの人は大丈夫なのじゃ? 生きているとは思っておるのじゃが……」

 ベッドから転がり落ちてしまいそうなほど前のめりになって話を聞こうとした。

「まあそんなに焦らないで。彼女のいる病室に案内するから。──立てる?」

 そう言ってシェリルはわらわに手を差し出した。わらわはそれを取り、ベッドから立ち上がると、引きずられるようにして彼女がいるという病室へと連れて行かれた。


 病室に着くと、中にはベッドが一つだけ設置されていて、そこで見知った顔の人間が横になっていた。

「良かったのじゃ……無事で……」

 シェリルの手を振りほどいて少女のほうへと駆け寄ると、少女は目を覚ましていたようで、わらわの存在に気がつき、ゆっくりと上体を起こした。そして少女が口を開く。

 少女がわらわに対してなにかを伝えようとしているとしているのは分かるが、それは言葉になっておらず、ただの音でしかなかった。

「……一体……どうしたのじゃ……」

 わらわが原因を知っているであろうシェリルのほうを見ると、シェリルは内面の読めない笑みを浮かべて話し始めた。

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