第九十一話 生死の境、ここにあり
――グランツ将軍が立案した作戦は、完璧なものであるはずだった。
ミルドア平原で戦う討伐軍に、まやかしの勝利を掴ませたあと、セイランが撤退するよう仕向け、これを奇襲し討ち取る。
そう、完璧だ。一切の瑕疵もない、非の打ち所のない作戦だ。
もしそれでもこの作戦に穴があるとするならば、セイランとグランツ将軍との運の釣り合いがとれず、天がセイランに味方することくらいだろう。
帝国の影が見えても戦場から退かずに、愚かにもそのまま戦い続けること。
援軍の国定魔導師が予想を超えて早く現れ、セイランが退く必要がなくなること。
そんな偶然がない限りは、セイランの首は確実にこの手中に収まる。そう断言できるほどに、完璧という言葉が相応しいものだった。
しかし、蓋を開けてみればどうか。
天はグランツ将軍に微笑んだにもかかわらず、率いてきた黒豹騎の半分を失うというこの惨状。いまだ戦力は残っているが、それでも絶対的な優位は失われ、作戦が失敗するという未来さえ見え始めてきた。
作戦は当初、グランツ将軍の予想通りに進んでいた。
セイランが後方の陣へ向かう中、その途中にある街道で奇襲を敢行。
まずは取り巻きである近衛をすべて排除し、セイランを追い詰めることに成功した。
あとは予定通りセイランを討ち取るだけ。
にもかかわらずこの大事な場面でこの体たらくとは、これも指揮官である自分の不甲斐なさのせいなのか。
……頭の中に蘇るのは、奇襲に向かう直前にグランツ将軍が開示した言葉の数々だ。
それはナダール軍の崩壊が確実になってきた折、いまだ状況を掴めずにいた自分を安心させるためにグランツ将軍が口にした、ポルク・ナダール蜂起から始まる作戦の全容である。
そう、ミルドア平原での衝突も、その衝突でナダール軍が劣勢になるのも、そもそもが将軍の策の内だったのだという。
「――帝国での地位といううま味のある餌をぶら下げれば、ポルク・ナダールはセイランを追い回すのに躍起になるだろう。あの豚には、目の前の餌しか見えないのだからな」
……ポルク・ナダールはセイランを襲撃する計画を企てたことで、王国での地位を失ったばかりか、王国に降伏すら出来ない状況に置かれてしまった。
そこから復権を望むならば、王国と敵対状態にある他国に頼るほかはない。
当然、ポルク・ナダールは立場が弱いゆえ、条件を出されればそれを呑まざるを得なくなる。
彼はグランツ将軍が提示した条件にばかり気を取られ、セイランに固執。戦列を引き延ばしてしまうという失策を取ってしまった。
「――襲撃計画を事前に察知できたのであれば、ポルク・ナダールの魂胆を予測できる者の一人や二人はいるだろう。しめたとばかりにセイランを囮にして、ナダール軍の戦列を引き千切りにかかる。この通りにな」
ライノール王国が、これまで幾度も帝国の侵略を跳ねのけてきたのは伊達ではない。
当然、知略を巡らせる者がおり、背後関係に勘付く者もいると考えてしかるべきである。なればこそ、討伐軍はポルク・ナダールを手玉に取って、戦を有利に運ぼうとするだろう、と。
「閣下。ナダール軍の戦列を危機に晒すのは、討伐軍を勢いづけることになるのではないのですか? そうなってしまえば、軍団としての質が低いナダール軍はひとたまりもないはずです」
「それでいいのだよ。ナダール軍など遅かれ早かれ崩れる運命にあるのだ。ならば、さっさと崩れて我らのためになってもらった方がありがたかろう?」
だが、それがセイランの奇襲へどう繋がるのかがわからない。
ナダール軍を敗勢にすれば、セイランは戦場に留まり続け、決して撤退などしなくなるからだ。
「――だからこそ、そこへ誰もが思ってもみない要素を投じるのだ。誰もが考えつかないことだからこそ、相手の虚を突くことができる」
そう、それこそが、遊撃将軍バルグ・グルバの投入という一手だ。
帝国最強と謳われ、一人で万軍に匹敵するとも言われている破格の兵を戦場に送り込む。
西側諸侯はバルグ・グルバの脅威をよく知るために、混乱。討伐軍に看過できない楔を打ち込んだ。
「――そうなれば当然、討伐軍はセイランを後方に下げざるを得なくなる」
「……何故ですか? グルバ将軍によって劣勢になったとしても、それはごく一部のもの。その程度では、セイランを戦場から遠ざけることなどしないのではないでしょうか?」
そう、たとえバルグ・グルバによって打撃を与えられたのだとしても、戦列が千切れた方と比べればどちらが優勢なのかは明白だ。兵が倒されれば倒されるほど、ポルク・ナダールは追い詰められるし、戦いの趨勢が決すれば帝国とて最後まで戦う必要はない。
討伐軍はセイランを筆頭にして、そのまま押し切ろうとするはずだ。
むしろ、士気を下げないために、戦場から離さない可能性すらある。
「――だからこそ、私は先にナダール軍の敗勢を決定づけさせたかったのだよ」
「……?」
それでは先ほどの話と同じだ。
ナダール軍が崩れれば、セイランはなおのこと退かないはずなのだ。
それゆえ、どういうことなのかわからない。
「よいか、デュッセイア。今作戦におけるセイランの役割は、ポルク・ナダールを釣り上げる囮の他に、討伐軍全体の士気の維持が挙がる。ナダール軍が崩れてしまえば、当然だが討伐軍には勝ち戦の空気に包まれるだろうな。そうなれば、討伐軍の士気はどうなる?」
「たとえセイランが居なくとも、討伐軍の士気は維持されたまま……」
「そうだ。そもそも戦場にはラスティネルの魔女もいる。士気が下がったとしても憂慮に値するようなものではなく、討伐軍にとっては押し切れる範囲だろう。セイランが退いてもなんら問題はない」
「しかし、それでもセイランが退くかどうかは賭けなのではないでしょうか?」
「それゆえの、バルグ・グルバなのだ。あんなものを投入してきたと知れた以上、討伐軍は帝国のさらなる策謀を考えずにはいられないし、連中にとってバルグがセイランの首を脅かすことなど万に一つもあってはならない。目に見えた危機がある以上、無理はさせん。絶対にだ」
「王国はセイランを失うことができない以上、安全策を採るしかない……」
「……そうだ。平原での戦いは決戦であるが、緒戦でもある。たとえこの戦いでセイラン軍とナダール軍の趨勢が決するのだとしても、今後、追撃戦や籠城戦が控える以上は、ここでセイランを後ろに下げても軍全体の士気やセイランの名声に然したる影響はない。むしろナダール軍の瓦解を決定付けた時点で、セイランを後ろに下げるのが常道だとも言える。奴らにとっては残りの安全な戦場で目立ってもらえばいいだけなのだ。あとは、先ほど言った通りラスティネルの魔女にでも任せてしまえばいい」
「だからこそ、セイランの部隊が撤退するのは自然なことである、と?」
「そうだ。そのうえ、後方の陣への撤退だ。退路を確保している以上、護衛に多くの近衛を割かずともよい。当然、撤退は少数でということになる」
――そら、奇襲するにはうってつけだろう?
……まぶたの裏に、グランツ将軍の涼しげな笑みが蘇る。
常勝将軍の名に恥じぬ、堅実で綿密な作戦の立案。
最強無比の魔導師を揃える王国と幾度も渡り合い、若い頃は王国から剣と砦を奪取するという無類の大功を成したほど。
無能なものは即座に廃される帝国で、長く将軍を務めて来た男の真髄が、あの笑みの裏には確かにあった。
彼の言った通り、セイランの首は必ず取れる。
自分もそう思ったし、間違いなくそうなるはずだった。
――だが、それでもこうしてセイランの首を取れずにいるのは、心のどこかで王国の力というものを舐めていたからなのかもしれない。
セイラン・クロセルロード
龍王の血脈、雷鳴の王統たるシンル・クロセルロードが、精霊の末裔と呼ばれる女の胎より産ませたという、比類なき血統だ。その力は巷に流れる風説すら上回り、剣を振れば天にかかる雲すら払い、声を発しただけで雷鳴すら呼ぶと言う。
まだ年端もいかぬ子供だが、油断できない相手。たかが子供と見て戦えば、それこそ全滅もあり得るほどの怪物だ。
だからこそ、出し惜しみせずに兵をぶつけたのだ。確実な殺害を期するために。
だが、まさか近侍の少年の方まで、慮外の腕前を持つとは思わなかった。
銀色の髪を持った、年のころはセイランと同程度の少年。少女のような可愛らしい顔立ちで、最初見たときはまったく少年とは思わなかったほどだ。
ならばあの容貌、所詮は高貴な者が慰みに侍らせる小姓だろうとたかをくくった。
そうでなくても、決して戦うことはできないはずだと、そう考えた。
だが、まさかそれが裏目に出るなどとは思わなかった。
無視しても構わないだろう。
そんな見くびりや侮りの代償は、結局兵士の命で購う羽目になる。
襲いかかった黒豹騎は、あれよあれよという間に、この少年に討ち取られていったのだ。
最後はセイランのお膳立てだったとはいえ、それを含めても十一騎は倒した計算になる。
ときには魔法を用い。
ときには年齢に見合わない体術を見せ。
最後の動きなどまったく見えなかったのだから、驚嘆を通り越して白昼夢でも見せられている気分になるほどだ。
十騎騎を超える黒豹騎を倒すことに要した時間は、おそらく五分にも満たなかったはず。
……見た目は、十かそこらの年頃。普通に考えれば、まだまだおもちゃで遊んでいるような年齢だろう。そんな歳でここまでできるとは、おそるべき資質であるが、自分をもっとも驚かせたのは、あのライノールの恐るべき魔法を防ぐ術を持っているということだ。
未だどんな魔法を隠しているかわからない。
もしやすれば、セイランと同程度の魔導師ということもあり得る。
いまはセイランのもとにたどり着き、その前で一人、立ち塞がる。
先ほど黒豹騎に剣を突き刺して吹き飛ばしたため、空手のまま。
叫びも怒号も発せず、佇む姿は静かなもの。しかし、にじみ出る気迫が、火の灯った真っ直ぐなまなざしが、この少年が強者であることを如実に語っている。
――兄上様、父上様のお言葉をどうかどうかお忘れなきよう。勝利の目前こそ、生死の境にございます。
脳の奥のどこからか、妹が口にした言葉が聞こえて来る。
勝利の目前にこそ、生死の境が存在する。
それは幾度も聞いた、父の口癖だ。バルグ・グルバに討ち取られ、もう二度と会うことは叶わないが、その言葉はいまでも耳に残っている。
大きな勝利の前にはかならず巨大な障害が立ちはだかり、それを掴むことを阻むのだと。
父は、バルグ・グルバだったが、おそらく自分にとっては、この少年なのだろう。
二人の魔導師を見据えながら、大声で叫ぶ。
「ッ、命令だ! この二人は刺し違えてでも殺せ! 絶対に! 絶対にだ!」
この二人を逃せば、これが必ず禍根となる。
ここを切り抜けたということは、死線を乗り越えたことを意味するのだ。死地より舞い戻った兵士がどれほどの経験と力を培うかは、歴史がそれを証明している。
それが出来上がった代償は、さらなる帝国兵の屍の山で贖わなければならないだろう。
そう、ここでセイランとこの少年を逃がすことがあれば、セイランは途方もない武器を得た王として、天へと駆け登ることになるのだから――