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第八十九話 窮地のただ中で



 雲が風脚の速い西風によって運ばれ、晴れ渡っていた空はいつの間にか見る影もない。

 灰色の天蓋が日光を遮っているせいで、日が最も高くなる午後の時間帯でも、辺りはどんよりとした陰鬱さに囚われている。

 そんな暗澹とした兆しは、これから起こる何かしらを暗示しているのか。



 ――アークスは、セイランや近衛たちと共に、すでに戦場から離れていた。



 場所は、討伐軍後方、平原東側にある森と森を切り裂くように造られた街道だ。

 平時は大型の馬車なども通るため、道幅は広く、よく馴らされ整備されている。しかし、街道両脇には背の高い木々が鬱蒼と茂っており、道以外の部分の開拓は進められていないため、広いはずの道幅がどことなく窮屈に感じてしまうのは……やはり錯覚なのか。

 曇天も相俟ってか、木々の間から、すぐにでも陰鬱な闇が漏れ出してきそうなほど、仄暗い道行。



 現状、護衛の数は十騎と、最低限の数しかいない。

 その分、多くの近衛を戦場に残しているため、戦の結果に対する憂慮もなく撤退することができている。

 戦はもともと討伐軍が勝勢であり、あと必要なものは勝利までにかかる時間だけだ。

 ここから覆される可能性は一切ない。



 だからこそ、この胸に兆したざわつく不安の正体が、いまもわからないでいるのだが。



 隊列の構成は、前に三騎、両脇に二騎、後方に五騎。その中心に、自分とセイランが馬を走らせているといった状況である。

 後方に設置した陣に向かう中、ふとセイランが話しかけてくる。



「余の偽物を用立てるとは、いつか聞かされた策を思い出すが……まさかこんな風に使うことになるとはな」


「はい」


「アークス。そなたはあの即席の張り子が、余の代わりを見事果たせると思うか?」


「可能だと存じます。他の誰にも知られなければ、殿下は最後まで戦場にいたということになりますから」


「ふむ……」


「……? 失礼ながら、殿下にはなにか憂慮がお有りなのでしょうか?」



 ふと、セイランの声音に陰りがあるのを感じ取り、そんな訊ねを口にする。

 面紗越しに漂ってくるのは、何かしらに悩むようなそんな気配。

 しかし、答えはすぐに返らなかった。いままでは言い淀むことなく、常に明瞭な答えばかりを返していたセイランにしては、随分と答えに時間を掛けているといった印象だ。



 やがて、



「アークス」


「なんでしょうか?」


「そなたは本当に、あの判断が正しいものだったと思うか?」


「それは撤退のことについてでしょうか?」


「そうだ。そなたの考えを申してみよ」



 セイランは、改めて他人の口から聞きたいのか。

 もしやセイランも、自分と同じように茫漠とした不安を抱いており、それを払拭したいのかもしれない。



「では、恐れながら……状況的には、殿下の撤退は手堅い手だと思います。ポルク・ナダールの狙いも殿下でしたし、帝国が狙うとすればやはり殿下以外にないでしょう。そのような策謀が戦場のどこかしらで蠢いているのであれば、戦場から殿下を引き離せば、その策を事前に挫くことになります」


「帝国の策がナダール軍の敗勢を覆すものだとは考えられぬか?」


「あの状況を一変させるには、それこそ討伐軍と同程度の兵数を補充しなければならないでしょうし、よしんばそうだったとしても、帝国にはそうまでしてポルク・ナダールを勝たせる理由がありません。むしろ関与を疑われぬため、劣勢になった時点で早々に見切りをつけるのが上策だと考えられます」


「そうような……余もそう考える。そうは考えるのだがな……」


「……?」



 セイランは、己に言い聞かせるように言葉を漏らす。

 そんな言い回しを怪訝に思っていると、セイランは問わず語りに言葉を口にし始めた。



「……臭いがな。臭いが取れぬのだ」


「臭い、でありましょうか?」


「そうだ。戦場にも、もともと妙な臭いが漂っていたのだがな、ここに来てその臭いが一際強くなったのだ」


「その臭いというのは、重要なことなのでしょうか?」


「うむ」



 何故かセイランは、論理的な説明ではなく、臭いというものに拘泥しているらしい。

 だが、臭いはどこにいてもするものだ。屋外ならば土の臭い、草花の香り。屋内ならば建材や調度品の発する臭いなど。戦場ならば当然、血の臭いがまず挙げられる。

 しかしセイランの言葉はそういった臭気に触れるものではないし、戦場から離れたいま、そんな臭いがするはずもない。



 別種の何かを暗示するような言葉のその核心に触れようと、訊ねを口にする。



「殿下、その臭いとは、一体どんなものなのでしょう?」


「葉巻……いや、紙たばこだ」


「紙たばこ?」



 こんな場所で、そんな臭いなどするはずもない。当然、戦いの最中に近衛が紙たばこを吸うことはないし、喫煙の嗜好があったとしても戦場に持ってきている者はいないはずだ。

 やはり、何かがあるのだろう。

 そんな風に考えた、そのときだった。



「――セイラン・クロセルロード! 覚悟ぉおおおおおおお!」



「――!!」


「――!?」



 突如として聞こえてきたのは、命を狙うことを目的とするそんな声。それが右横合いから襲いかかってくると同時に、何者かが猛りを発して、木々の中から馬と共に飛び出してくる。

 数は――一騎ではない。五、六騎がまとめて、槍を前方に突き出しながらの突撃してきた。



「帝国のっ……」


「こんなところで奇襲だと!」


「っ、全員! 殿下をお守りしろ――ぐぁ!」



 それに対する近衛たちの動きは素早かったが、当然対応が間に合うはずもない。

 自身やセイランは咄嗟に馬を急がせて突撃から免れたものの、襲撃者が現れた方の側面を守っていた近衛は、突撃をまともに受けて撥ね飛ばされてしまった。



「殿下! ご停止を!」


「くっ、前にもか!?」



 セイランがそんな声を上げ、馬に制止を掛けたその直後、右前方の木々の隙間から騎兵が現れ、こちらの進路を塞ぎに掛かる。

 当然こちらは止まらざるを得ない。急な制動のせいで馬が嘶きの合唱を上げる中、近衛はセイランを守るため、すぐさま馬を寄せて守勢に入る。



 ……森の中から現れたのは、二十余名にも及ぶ騎兵の部隊だった。

 人馬共に重装であり、しかもそのすべてが、黒い鎧を身にまとっている。鎧も黒。馬も黒。武装も黒。すべてが真っ黒に染まった漆黒の騎兵部隊。

 そのうえ、胸当てには帝国の兵士であることを示す紋章が据えられている。



 ――一体なぜ、こんな場所で。



 そんな言葉が、頭の中を占拠する。

 襲撃者である帝国騎兵は、こちらの隊列の横腹を突くように一当てしたあと、即座に別の部隊が前方の進路を塞ぎ、後方の退路までもが塞がれた。

 この動き、こちらが退却することを想定していたとしか思えない。

 どういうことなのか全貌は掴めないが、いまはそんなことを悠長に考えている暇はなかった。



「ちぃ――降り落ちる槍。殺意の閃光。眩き黄金。愚かなる者は地を這いつくばりては塗炭(とたん)にまみれ、金色の槍が前にその身を捧ぐ。律せよ。滅せよ。天より下されし絶叫よ!」



 帝国兵の襲撃に対し、セイランが即座に魔法を唱えにかかる。すぐに発光と共に稲妻が迸るが、帝国兵はそれを見越していたのか、馬に素早い動作を促して、魔法発動前に散開。それを見事回避してしまう。

 動きがいい。良すぎるほどに。これまで見てきたナダール軍の動きなどとは比べものにならないほど、馬の動かし方が卓越している。



 これが、帝国の騎兵なのか――



「殿下! これは帝国の黒豹騎です! ご油断召され――ぐはっ!?」



 注意を促した近衛の鎧を、矢が貫通する。

 見れば、部隊後方の騎兵が一回り大きな弩を構えていた。



「っ……皆、余に構うな! 自分の身を守れ!」



 セイランは叫ぶと同時に、すぐさま乗っていた馬から下りて、その影に身を隠す。

 弩から矢が放たれた。あたかも横殴りの雨のような射の連続が、セイランを守る近衛たち、そして自分にも襲い掛かる。

 呪文での防御は――間に合わない。



「くそ、このっ……うわっ!」



 放たれた矢を避けるために、馬を動かす。

 矢のほとんどはセイランや近衛に集中して向けられていたため、かわすことができたが、それでもいくつかが馬に当たってしまう。

 馬の足の均衡が崩れ。

 馬の悲壮な嘶きが上がる。



 ――足が崩れる。そう悟った瞬間、馬がくずおれるその勢いを利用して、馬上から転がるように飛び退いた。ざ、ざ――と地面を靴で擦過する音と、砂煙に巻かれる中、なんとか勢いを殺して着地することはできたものの、今度はセイランとの間に距離ができてしまう。

 見れば、守勢に回った近衛の幾人かも、落馬している。



 直後、帝国騎兵の中で指示が飛んだ。



「――まずは近衛だ! 近衛を倒し切れ! 矢をすべて使ってもかまわん!」



 敵の動きは迅速だった。

 残った近衛たちに、ありったけの矢が打ち込まれる。

 近衛は死に物狂いでそれを払うものの、いかんせん飛んでくる矢玉の数が多すぎた。

 残っていた近衛も次々と落馬。息がある者が多いが、矢による怪我で満足に動けない。

 聞こえてくる呻き声と、セイランの逃走を促す言葉。



 ……ほぼ一瞬だ。一瞬のうちに、護衛に付いていたすべての近衛が倒されてしまった。

 残ったのは、自分とセイランのみ。

 しかもこちらは馬を失ったことはおろか、セイランとの間に距離まである。

 状況は、これ以上ないほど最悪だった。



(くそ――)



 ぎりり、と奥歯を噛みしめた音が頭蓋に響く。

 絶体絶命のそんな中、帝国軍の指揮官らしき男が、前に出て下馬をする。

 他の騎兵と同じく黒の鎧に身を包んだ、すらりとした美丈夫だ。

 年の頃はおそらく、二十代前半から半ばに掛けて。

 どこにでもいるような地味な姿であり、集団にいると埋もれてしまいそうな見掛けだが。

 薄青い瞳には力強さが宿っており、誠実な性格を思わせる。



 指揮官の男は兜を脱ぎ、その場で、略式ではあるが帝国式の礼を執った。



「セイラン・クロセルロード王太子殿下に、初めて御意を得ます。私はギリス帝国東部面軍所属、デュッセイア・ルバンカ。東部方面軍では、副将の位をいただく者です」



 セイランには、その名前に覚えがあったのか。



「……知っている。剛騎デュッセイア。もとは、帝国と敵対していた氏族の出だが、その勇猛ぶりを皇帝に評価され、軍内で高い地位を与えられた男……そうだな」


「名高き王太子殿下に名を知られているのは光栄と存じます」



 セイランの口ぶりを聞くに、どうやら有名な将らしい。

 しかし、そんな将がこんな場所に、狙い澄ましたように待ち構えていたということはつまり、帝国は初めからセイランにのみ狙いを絞っていたということになる。

 問題は、何故帝国がセイランの撤退を読み切ることができたかだが――しかし、帝国兵はその答えを出す猶予を与えてはくれなかった。



「余の首を狙うか」


「ええ。恐れながらその首、頂戴いたします――皆、決して油断するな! 騎馬で取り囲み一斉に打ちかかれ!」


「…………」


「っ、殿下ぁっ!」



 叫びを上げる中、セイランが騎兵たちに取り囲まれる。

 そして、黒槍が一斉に突き出されんとしたそのみぎり、周囲の空気が一気に色めき立った。




「――ハ、このような攻撃で、余を害せるなどとは思い上がったな下郎ども!」



 響き渡るセイランの怒号。

 セイランが中華風の剣を振り払ったその直後だった。辺りに剛風が駆け抜け、いままさにセイランを害そうとしていた帝国騎兵が馬ごと大きく吹き飛ばされる。



「な――!?」


「なんだと――!?」



 自分の驚きとデュッセイアの驚きが重なる中、セイランが黒衣の裾を払うように翻し、剣を地面に突き刺す。稲妻さながらの轟音が響くと共に、地面に地割れのような罅が入り、小規模な地揺るぎが辺りに巻き起こった。



 セイランが堂々と正面に構える姿を見せて、声高らかに吼える。



「余をなんと心得るか! クロセルロード王家が神子、セイランなるぞ! このような些末な攻めでは余に毛筋の傷一つ付けられぬことと知るがいい!」



 威厳を持った声音が、四周にさながら衝撃派の如く走り抜ける。

 この絶体絶命の状況の中、敵兵を堂々と喝破するその姿には、まさしく王者の風格があった。



「この場で剣を放すか――」



 セイランが地面に剣を刺したことを好機と見たのか。吹き飛ばされた帝国兵の一人が、セイランに対する敵意を剥き出しにする。

 そのまま、すぐにでも攻めかかろうというのだろう。



「待て! 油断するな!」



 デュッセイアが慌てて叫ぶが、しかしその制止の声は遅すぎた。




『――鈞天より招き至る、七つの(つるぎ)よ降り落ちよ。剣は輝き、光ひらめきを以てあまねく敵を打ち砕く。打ち鳴らしの鼓の前に、夜光の雲は切り裂かれよ。天震わせる絶叫の嚆矢(こうし)が前に、霞も靄も消え失せよ。混淆(こんこう)し汚濁し交叉し、雷鳴を讃える者の呼び声を彼方にして、万雷の剣よこの手に宿れ!』



 デュッセイアの声が届くよりも、帝国兵が攻めかかるよりもさらに早く、セイランの呪文が完成する。



 詠唱によって生まれた【魔法文字(アーツグリフ)】が、セイランの手のひらの上で青ざめた色を伴って回転すると、やがてそれは閃電を断続的に弾けさせながら輝く球体に変じていく。セイランが手鞠大になった光球を、さながら弓を引き絞るかのように引き延ばすと、光球はバチリバチリと弾けるような音を伴いながら、剣の形に固定。そんな中も、青白い稲妻に触発された塵埃が浮き上がり、やがて青みがかった霞が空気に雑ざり始める。



 辺り一帯に立ちこめる青臭い刺激臭。オゾンの毒性で喉の奥にピリピリとした痛みが現れ始める中、聞こえてきたのは。



 ――【雷公剣】。



 魔法の完成と共に、セイランがその手から雷鳴の(つるぎ)を放つ。

 直後、摂氏三万℃にも達した高温の空気が衝撃波を作り出し、あらゆるものを吹き飛ばす。空気の壁を突き破った稲妻の先鋭は白霞のような衝撃を四周にまき散らして、セイランが狙い定めた場所へと貫通。先ほどの雷撃を遙かに超える威力が地面に突き刺さると、稲妻は周囲に大きく拡散した。

 敵意をむき出しにした帝国兵を含む幾人かが、その放電のただ中に巻き込まれる。



 死の間際に人が上げる断末魔の絶叫はおろか。


 感電が引き起こす断続的な震えもない。


 帝国兵はただ一度の震えのみを最後に、地に伏した。



 その様を眺めながら、地面に突き刺した剣を鷹揚に引き抜くセイラン。剣によって発した衝撃に続き、圧倒的な力の発露だが、しかし帝国兵の戦意は衰えず。

 再度セイランを取り囲もうと動き出す。

 セイランも、それを迎え撃とうと動くが。



(いや、見とれてる場合じゃ――)



 気づきのような自戒が心の中に生まれた直後、援護に入るために走り出す。

 地面を蹴って、急いでセイランのもとへと向かおうとするが……そこに帝国兵が立ちはだかった。



「ガキが! 邪魔をするな!」


「くっ……!」



 振るわれる黒槍。

 正面から襲い来るそれを、剣を寝かせて受け止めるが、膂力に物を言わせた打ち込みのせいで大きく吹き飛ばされてしまった。

 転がり、膝を突く中、自分を排除しようと帝国兵が槍構えて襲いかかってくる。

 動きが早い。いつかの傭兵頭など比較にならないほどの俊敏ぶり。

 一番短い呪文でも、間に合わない。

 剣は取り落としてしまった。

 回避ができる体勢でもない。



「お前もこれで終わりだ!!」



 終幕を告げるそんな言葉が、上から覆い被さってくる。



 終わり。


 帝国兵は確かにそう言った。


 終わりだと。


 これでこの人生も、幕引きなのだと。



(…………これで終わり?)



 死に際に、ふいに湧き上がったのはそんな疑問だ。

 こんなところで死んでしまっていいのか、と。

 こんなところで終わりにしていいのか、と。

 魔法を覚え。

 魔力計を作り。

 それを国定魔導師たちの前で発表し。

 今度は王太子セイランに謁見するまでに至った。

 まだまだ、自分(アークス)の人生は始まったばかりではないか。

 これから不遇な生まれを切り開くため、さらに踏み出して、より良い生を掴むはずなのに。

 ここで終わったら、これまで頑張ってきたものが、応援してくれた人たちの期待が、すべてすべて水の泡になるではないか。



 クレイブが、リーシャが、ノアが、カズィが、シャーロットが、そして、スウがいる。

 支えてくれたみんなの思いを裏切りたくはない。

 助けてくれたみんなの思いを無にしたくはしたくはない。

 もちろん自分の思いだってそうだ。

 これで終わりになど、できはしない。



 だから――



「まだだ……こんなところで、こんなところで終わってたまるかよっ……」



 腹の底から、絞り出すようにそう叫ぶ。

 終わらせるわけにはいかないと。

 ここで死するわけにはいかないと。

 そう心の中で吼え声を上げたとき、己の身体が、燃えるような熱を帯び始めたのだった。





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