第八十六話 その名は、バルグ・グルバ
ポルク・ナダールの従士、バイル・エルンを討ち取ったその直後、その場にいた誰しもの者の耳を騒がせたのは、笑い声だった。
その笑声は、それこそミルドア平原全体を震わせるかのような大音声。
こんな屍の積み上がる戦場で笑い声を上げるなど、常軌を逸しているとしか思えないが。
その声音には確かに、愉悦と呼ばれるものが交じっていた。
やがて、その大笑が失せたあと、戦場がいましばらくの静寂に包まれる。
鉄と鉄がぶつかり合う、丁々発止の音も。
兵士たちが絶えず上げる喊声も。
ただひたすら喚き散らしていた、ポルク・ナダールの声さえも。
その何もかもが絶えて消え果てていた。
いま再びの静けさに陥る中。
――何かが、来る。
ふと感じたのは、そんな予感だ。
何か不吉なものが訪れるような凶兆にも似た感覚が、敵兵士たちのその奥から、確実に漂ってきている。
敵兵の向こう側に、真っ黒い何かを幻視していると、やがてその笑い声を上げた者が姿を見せる。
それは、巨馬にまたがった一人の男だった。
正面戦列のど真ん中から、敵兵士の垣根を割り開くようにその身を現し、悠然と馬を歩かせる。
敵兵士がその道を譲り、遅れた者は馬に跳ね飛ばされ、踏み潰される始末。あまりに容赦ない闊歩に、敵兵士さえ腰が引けていた。
驚くべきは、その身の丈の大きさだろう。人の海の中にあって、その全体が窺えるほど。巨馬に乗っているにしても、あまりに大き過ぎる。巨漢だ。おそらくはその背丈、二メートルを超えるもの。カーウ・ガストン侯爵を思わせる偉丈夫――いや、この遠間でも大きく見えるということは、彼の侯爵よりもさらに大きいことは想像するに難くない。
肥え太ったポルク・ナダールが、ひどく矮小な存在に感じられる。
……目に付くのは、豊富な毛髪だ。頬下まで伸びたもみあげはあご髭と繋がっており、男の世界で言うショートボックスのようなスタイル。腕も足も太く、細身の女の腰くらいという行き過ぎたはずの表現が、まったく言葉通りのものだったということを実感させる。
牛、そう、まるで牛だ。バッファローなどの毛むくじゃらの牛が巨馬に乗って現れたような頭のおかしい錯覚に、ふとした目眩を覚えそうになる。
その巨漢は、二つの巨大な戦斧を肩に乗せ、馬に任せたままの常足。
真っ直ぐ近衛の部隊、セイランを目指して向かってくる。
その巨牛に向かって、近衛が一斉に弓矢を放つ……が。
「ダボがぁあああああああああ! そのようなものでこのワシを討ち取ることなどできんわぁああああああ! がぁあああああああ!」
巨牛が発したのは、そんな獣声だった。おおよそ人が口にできないような音と声量が、衝撃波となって襲いかかる。直後、その巨漢は巨大な戦斧を豪快に振り回し、飛来する矢のすべてを払い落としてしまった。
そして、
「遠からん者は音に聞けぃ! 近くば寄って目にも見よ! 帝国最強! バルグ・グルバとはこのワシのことぞぉおおおおおお!!」
巨牛は、バルグ・グルバという名乗りを上げ、即座に巨馬を走らせる。馬は重厚な馬鎧を身につけているが、それを感じさせないほど軽快な走り。
――帝国最強。バルグ・グルバと名乗った男は帝国の軍服をその身にまとっている。
ならば本当に、帝国軍人なのか。ポルク・ナダールの背中を後方からせっつくことはあっても、参戦まではないと思っていたのだが、その予想は間違っていたらしい。
一方でセイランは、バルグ・グルバに見覚えないし、その名前に思い当たる節があるのか。
「馬鹿な、なぜあの男がここに……」
「まずい……近衛全隊! 正面へ! 急ぎなさい! 殿下をお守りするのです!」
極めて冷静沈着だったエウリードが、明確な焦りを声に表す。
その証拠なのか、まだバルグ・グルバとの間には距離があるにもかかわらず、ビリビリとした武威が伝わってくる。
そのしびれは、筋肉の動きを阻害する毒のよう。徐々に身体が固められたようにうごかなくなっていく。
(ぐ……)
しびれの強烈さに、心の中で呻く。
そんな風に、恐れを自覚した直後だった。
先ほど克服したと思われた焦燥が戻ってくる。
あれを止めなければ、負けてしまうぞ。
あれを止めなければ、死んでしまうぞ。
もう一人の自分の声が、そんなことをがなりたててくる。
もはや一刻の猶予もない。
内からの声が耳鳴りのように響く中、身体を縛り付けていた緊張の毒が、ふと消えてなくなった。
身体が動く。勝手に。さながらそれは、もう一人の自分に手綱を握られているかのような感覚だ。
その感覚に身を任せたまま、急ぎ馬を走らせる。
周りが何か言っているが、聞こえない。
ふとした突出に、制止の声を上げているのだろうか。
その制止を聞かない自分に、咎めの声を上げているのだろうか。
声の中身は杳として知れぬが、バルグ・グルバは目の前。百メートルは先の距離。死まで、もうわずかしかない。
だから自分は、その焦りに駆り立てられたまま、現時点で自分が使える最も強力な呪文を唱えた。
『――極微。結合。集束……小さく爆ぜよ!!』
――【矮爆!!】
呪文を唱えると、バルグ・グルバの周りに【魔法文字】が寄り集まり、彼を捉えるように魔法陣を構築。輪の中にバルグ・グルバを捕まえるが――しかし、バルグ・グルバは構わずに突っ込んでくる。魔法を掛けられているのにもかかわらずそれを考慮しないなど、一体どういう思考のもと動いているのか。
魔法陣を収縮させるため、右手をぐっと強く握り込むと、同時に魔法陣も圧壊。
即座に爆裂の轟音と衝撃が、眼前に弾けた。
音を吹き飛ばす衝撃が駆け抜け、瞬く間に炎と黒煙に覆われる。
狙いは完璧。
バルグ・グルバは、魔法の爆撃をもろに受けた――はずだった。
「っ、かぁああああああああ!!」
そんな音声が、燃えさしの黒煙と、残留した炎を薙ぎ払う。
それは聞き覚えのある獣声であり、聞こえてはいけないはずの獣声だ。
見ればそこには、バルグ・グルバの姿が。
馬と共に、その場に健在。
魔法のせいで足は止まっているものの、ダメージはほぼない。
無傷。いや、顔の一部が、少し赤みを帯びた程度の痛手はある。
「う、うそだろ、直撃のはずだぞ……」
理解できない現象を前に、戦慄を禁じ得ない。目を見開き、呆然と呟く中、戦場に再び獣声が響いた。
「ぶ、ぶはははははははは!! 汝はいましがたバイル・エルンを倒した若武者だな! よい魔法ぞ! 久しぶりに魔法で痛みというものを感じたわ! ぶわははははは!!」
振り下ろされた戦斧の先を差し向けられると、目に見えない力が熱波となって身体を襲う。
……いくらこの世に刻印装備という守りがあるとは言え、ノーダメージは絶対に有り得ない。まず間違いなく、衝撃で昏倒するはずだ。真っ先に潰れるはずの鼓膜さえも無事など一体どういう理屈が働いているのか。
そのうえ巨馬も無事とは、まったく意味がわからない。
バルグ・グルバから、ぎらりと、猟欲の滲んだ視線が差し向けられる。
「う、ぐ……」
「汝もセイラン共々戦場の花となって散れぇい!! ボゲェエエエエエエエエ!!」
声から生じた圧力に、再び身体が動かなくなる。
足止めのため先行した近衛数騎が、戦斧の一振りで馬ごと宙を舞った。
後方に控えた近衛魔導師も魔法を撃つが、まるで意に介していない。
『――雪山の魔性。朽ちた庭園。冬ざれの野。足を止めるために地を覆え、凍えの風よ吹きすさべ』
ノアが生み出した凍てつかんばかりの氷風を押しのけて。
『――縛鎖を司る者共は戒めに喘ぐ科人を冷たく見下ろす。科人よ、鎖に巻かれよ。科人よ、鎖に抱かれよ。双精霊チェインの足元、幽世の引手に足を掴まれ、とこしえの微睡へと落ちよ』
カズィが現界させたチェインの鎖さえも引きちぎって。
バルグ・グルバが、迫ってくる。
――呑まれる。そう思った。彼我の間には、あまりに絶望的な力の差があった。ありすぎた。
遅れて、近衛たちが自分たちのすぐ後ろで人垣を作る。その範疇に、自分たちの存在はない。当然だ。セイランは何に代えても守らなければならないのだ。非常事態において、優先事項が変わるのは当然のこと。
「っ、みな、アークスを!」
セイランが焦ったように叫ぶが、しかしエウリードが、
「そんな暇はありません! 殿下! いますぐ撤退を!」
「だ、だが……」
「殿下ぁっ!!」
優柔不断な発言を喝破するように、エウリードが声を上げる。
近衛の布いた防壁に、バルグ・グルバが衝突せんとしたそのみぎり。
ふいに敵兵の中から、馬に乗った兵士が現れる。
その兵士も、バルグ・グルバと同じように、帝国の軍服を身にまとっていた。
「ぐ、グルバ将軍! いけません! 言い渡されたのは左翼歩兵への攻撃っ!」
「んうぅ? 何を言っておる? 左翼はこちら……」
「こ、こちらは右翼です!!」
「うよ……? おお! 右と左を間違えておったか! うはははははは! 偶にはそんなこともあろうよ! ぶわはははははは!!」
「しょ、将軍閣下……」
バルグ・グルバは兵士に対して呵々と笑うと、その場ですぐに馬首を返す。
そして、
「さらばだセイラン! また戦場で見えようぞ!」
そんな台詞を吐いて、死をまとった暴風は自分たちの前から去って行った。
「こ、ここで? ここで退くのか……?」
あとに残されたのは、困惑だ。この場にいた誰も彼もが、呆然としている。
このまま攻め込めば、討ち取れる可能性もあっただろうし、そうでなくてもここでセイランを撤退させることができれば、ナダール軍の命を長らえさせられる可能性もあったはず。
それを、命令と違うからと言うだけで、絶好の機会をドブに捨てるのか。
意味がわからない。
動くことができない。
動悸が止まらない。
「アークスさま!」
「あ、ああ……」
ノアに引きずられるようにして、近衛の中に戻る。
すると、セイランが、
「……あれが知者殺しバルグ・グルバか」
「殿下、知者殺し……とは?」
「ギリス帝国中央軍所属、遊撃将軍バルグ・グルバ。またの名を、知者殺し。己の知恵も壊滅している男だが、戦場においては敵の知者もことごとく破壊するという」
知恵が壊滅しているとはあまりの言いようだが、それなら先ほどの意味不明な撤退も頷ける。
それに、確かにあんな常識外れの存在に動かれたら、どんな作戦も壊滅するだろう。
そう、いまもこうして、壊滅させられそうになったばかりなのだ。
セイランが、エウリードに訊ねる。
「エウリード。そなたならば、あの者、倒せたか?」
「……いえ。ですが殿下を逃がすことならば可能でしょう。殿下だけ、と条件は付きますが」
「そうか……戦場ではまみえたくないものだ」
「ですが、今後、避けては通れないでしょう」
エウリードとのやり取りのあと。セイランが馬を近づけてくる。
「殿下」
「……アークス。あまり無茶をするな」
「は、申し訳ございません」
そんな風に、不徳を謝罪したあとだった。
ふいに、セイランに腕を掴まれた。
「……殿下?」
戸惑いの視線を向けると、セイランは他の誰にも聞こえないような小さな声で、
「……アークス。収まるまで少しこのままでいてくれ。決して周りに気取られるな」
腕から、セイランの震えが伝わってくる。
ということはセイランも、バルグ・グルバの武威に呑まれかけていたのか。
セイランほどの威を放つ人間が、こうして恐れを抱くのは以外だった。
セイランは他者に恐れを布く者であり、それに相応しい力と威厳を持っていた。
それゆえ、もっとかけ離れた存在のように思っていたが――そういうわけでもないのだろう。
腕を掴んだ手のひらは、ひどく華奢なもののように思えた。