第七十八話 顔の見えない面会
館の出立前に、ディートから「アニキー、がんばれー」などというエールを送られてからしばらく。
ノア、カズィと三人、迎えに寄越された馬車に揺られながら、セイランの待つ城へと向かった。
夕食前のこんな時間に呼び出しなど、一体どうしたのかと迎えに来た近衛に訊くが、近衛は「詳細は知らされていない」と言うのみで、事情はよく聞かされていない様子。
どうやら、単に迎えに行けと言われただけらしい。
……馬車の窓から差し込む日没前の強い西日に眩しさを感じ、遮光カーテンを閉めると、カーテンの先端に付いた刻印がレール終点の刻印とくっつき、天井のナイトライトが点灯する。
馬車内は明るくなったが、突然の、それも超の付く上位者の呼び出しを受けたという不安のせいで、心の中にはまだ陰りがあるまま。
身を覆うのは、妙な緊張感だ。
軍議の場ではうまく立ち回れたため、この呼び出しはお叱りの類いではないと思われるが――セイランのことをよく知らない以上は、油断出来ないのもまた事実。
結果うまく立ち回ることができたが、不用意だったことを咎められるということも、自身が気づけていない無礼にお叱りを受けるということも考慮しておかねばならないだろう。それでわざわざ呼び出して……ということは考えにくいが、あまりよくない状況というのも念頭に置きつつ、考えを巡らせる。
……ナルヴァロンドの城に到着したときにはすでに日は沈みきっていた。
セイランが逗留しているためか、城の中は厳重な警戒が敷かれ、セイランの部屋に通じる廊下は多くの近衛で固められている。
接見前に荷物検査を受け、当然武器になるようなものは一時預かり。
ノアとカズィは別途用意された部屋で待機して。
呼びに来た近衛と一緒に、セイランの部屋へ。
廊下は夜にもかかわらず、ずいぶんと明るく、さながら男の世界の蛍光灯が点灯しているかのよう。
おそらくは警備のために光量を増やしているのだろう。
通路に配置された近衛たちはみな例外なく武装しており。
常にぴりぴりとした緊張感を保っているようだった。
やがてセイランの部屋の前に到着。
近衛が到着の報告をすると、中から短く「入れ」という声が返ってくる。
質問等に丁寧に対応してくれた近衛に感謝の礼をして、部屋の中へ。
入室は当然のように一人。ここからは近衛も同行することはなく、不思議なことに室内にも護衛の姿はなかった。
高価そうな調度品が並ぶ豪華な部屋には、セイランがたった一人だけ。
いまは白い装束に身を包み、軍議のときとは異なった風体をしていた。
手や腕は長く広い袖口に隠され見えず。
男の世界の〈中国剣〉を思わせる剣は近くにあるが。
金襴の施された高価な織物の膝掛けを広げてくつろぎ。
しかし黒の面紗は外さぬまま、その面容は杳として知れず。
天蓋付きのベッドの上に、人形さながらの無反応さで腰掛けていた。
入室後すぐに一礼し、セイランの前に膝を突く。
そして、
「――アークス・レイセフト、殿下がお召しと伺い参上いたしました」
口上を述べた直後、もともとあった緊張がさらに増す。
その原因は、セイランがにわかにまとった威風のせいだ。
それは謁見のときや軍議のときと同じような、冷たい威厳。あまりの身の凍えように、まるで氷点下の最中に放り出されたかのような錯覚にまで陥ってしまう。
吹雪は真正面から。
まるで目の前に冬山の魔物でもいるかのよう。
身体がまやかしの冷え込みでこわばり、手足に震えが忍び寄る。
そんな中、セイランがやっと声を発した。
「アークス」
「……はっ!」
「そなたは、余を怖れるか?」
「この国、いえ、この大陸に、殿下を恐れぬ者などございません」
そう言うと、セイランは機嫌を良くしたのか、面紗の奥からかすかな笑声を漏らす。
「では、少し緩めよう――これで震えも収まろう」
「は。お心遣い、ありがたく存じます」
「うむ」
威圧が解かれると、身体の冷えがまるですべて幻だったかのように消えてなくなる。
こういうものを意思一つで切り替えられるなど、まるで漫画や小説の登場人物のようだが、実際この世界にはそれを出来る者が多くいる。
気になるのは、みなこれを一体どうコントロールしているのかだ。
そのあたり今度クレイブに聞いてみた方がいいかもしれないな……と、思いつついると、セイランが口を開いた。
「楽にせよ。そうだな、そこの椅子にでも腰掛けるがよい。余もそちらに移ろう」
セイランはそう言うと、部屋の一角を示す。
そこには鏡面のように磨かれた大理石製のテーブルと、随分と座り心地の良さそうな一人掛けのソファがあった。
「ですが」
「よい。ここには余とそなたの二人だけだ。この場の無礼を咎める者は誰もおらぬし、隠れ見ている不躾な輩もいない」
「しかし、護衛の一人もいないというのは一体どういうことなのでしょうか」
「それは余がそなたと二人で話がしたかったからだ。ならば、他に立ち会う者など不要であろう? それとも、そなたが余に害をなすとでも言うのか?」
「いえ、滅相もございません」
そんなつもりがないのもそうだが、それができない一番の理由は力量差だろう。
もしこの場で、こちらが先に動けたとしても、腰元の剣によって一瞬で首を刈り取られる未来しか思い浮かばなかった。
セイランの言葉を受け、指示された場所へ。
テーブルの上には、お茶のセットが用意されていた。
あるのは、乾燥した茶葉を入れておく容器と湯を入れておく容器、湯を捨てる金壺に、急須、湯飲茶碗、ガラスの水差しなどなど。
趣はやはり中華風を思わせる意匠であり、事前に温められていたらしく、ぬくもりを持っていた。
先に腰掛けたセイランがふいに茶碗を持ち上げて、無造作に振る素振りを見せる。
マナーに則った動きではないのか。動きに気軽さと、かすかな笑声が聞こえた。
つまりは、淹れてくれということなのか。
「これは……」
「鳳だ。佰連邦から取り寄せた一級の品よ」
と言われてもピンとこない。
湯気から香るほのかな芳香を頼りにして、どんな茶なのか推測する。
鼻腔を満たすのは、男の世界の中国茶のような香り。
「……ウーロン茶?」
「……! そなたは博識よな。東方の茶にも理解があるのか」
「い、いえ……偶然にございます」
「ふふ、そうか」
茶の種類を言い当てたことで、セイランは気を良くした様子。笑声にはっきりとした喜色が交じる。
まさかこちらにも、烏龍茶があるとは驚きだ。いや、紅茶がある時点であってもおかしくはないのだが…………。
ともあれ、いまは茶か。
セイランの方を見ても、何も答えてはくれずであるため、自分がどんな風に茶を淹れるのかを見たいのだろうと思われる。
さて、あの男はウーロン茶の入れ方など知っていただろうか。
そう考えながら、テーブルの上をよく観察する。
茶器はすでに温められているし、ポットの中身は刻印によって沸かし立てが保たれている。
無用な物は置かないため、おそらくは置いてある物は全部使わなければならないだろう。
(……確か中国茶って洗茶とかいうのをしないといけないやつがあるって読んだ覚えがあるな)
そんな情報を追体験の記憶からどうにかこうにか掬い上げつつ。
急須を熱湯で温めてお湯を捨て。
急須に茶葉と熱湯を入れてお湯をガラスの水差しに入れて捨て。
再度急須にお湯を入れて茶を出すのに数十秒待ち。
ガラスの水差しに茶を移す。
ノアから習った紅茶の淹れ方とはやり方が随分と異なるが、そうした工程を経てやっと湯飲みに茶を注ぎ込んだ。
「どうぞ」
楚々と湯飲みを差し出すと、セイランは面紗の端を軽く持ち上げて、口を付ける。
「香りは立っているが……まあまあだな」
「は。申し訳ございません」
「今後茶の淹れ方も精進するがよい」
セイランに返事をして、頭を下げる。
これまたなんとも妙な儀式だなと思いつついると、やっと本題に入るのかセイランが口を開いた。
「アークス。先ほどの軍議での発言、見事であった。討伐軍の方針が斯様に定まったのは、そなたの功績と言えよう」
「お褒めに与り感激の至り。恐縮しきりにございます」
「うむ。これで余がそなたに助けられたのは二度目だな……いや、もっと多いか? ふふ」
セイランはそんなことを口にして、冗談めかしたように笑っている。
「それとだが、今日の軍議でそなたが口にした余の偽物を作るという策について、あとで細かなことを書き出して提出せよ。採用するには細部まで詰めねばならぬが、おおむね策としては有用であったと思う。釣れるか否かに関わらず、やってみる価値はあった」
「そうなのですか?」
「ああ。あの策は悪くなかったとも。もしそなたに地位と実績があれば、余は迷わず採用しただろう。だが、諸侯がいる手前、実績のないそなたの策を採り上げ、諸侯を蔑ろにするわけもいかぬ。それはわかるな?」
確かに、方針転換の契機を作り、策も採用したでは、あまりに自身に偏重してしまう。
そうなれば、諸侯からセイランが贔屓する君主という風に取られかねない。
今回は、不満が出ない方を選んだということなのだろう。
「殿下にそう言っていただけるだけで、私には十分でございます」
「うむ。余もまさかそなたが採用するに足る策を口にするとは思わなかったのだ。あの場で使えぬ策と言わざるを得なかったのは、余がそなたを見くびっていたことにほかならぬな」
セイランはそう言って、ほう、と茶の香る息をやや上向きに吐き出す。
今回のこと、つまりはセイランが選択肢を一つ潰してしまったことに等しい。
策を採用できなかっただけでなく、他の諸侯たちも相似する策を採れなくなってしまったのだ。セイランからすれば、ふとした戯れが失敗に繋がったという風に思えるのかもしれない。
謝罪の言葉が含まれない謝罪に対し、頭を垂れる。
この世界で王太子ほどの上位者がここまで言うだけでも、相当なことだ。最大限の謝意を示したようなものだろう。
「それと、ボウ伯爵は煩わしいだろうが、余はあれをそのままにさせておくつもりだ。あれはあれで使い道があるからな」
「は」
「……軍議では愚かなことばかり言っていたが、伯爵と同じように考えが及ばず似たような考えに至る者もいる。あのような者がいると、多くを貶めずに説明がしやすいのだ」
「ボウ伯爵は気の毒に思います」
「詮無きことよ。あれは功名にばかり目を向けているせいで考えが足りぬのだ。おかげでうまく議論をまとめることができたがな」
セイランはそう言うと、
「――話が逸れたな。まずそなたのこれまでの活躍に、改めて称賛を贈ろう。余を窮地から救った知恵。そして先ほど立てた策もそう。特にそなたが作った魔力計は素晴らしいものだ。あれが余の元に届いた日ほど、心が高ぶったことはなかった」
「微力ながら王国や王太子殿下のお役に立てたこと、嬉しく思います」
「そなたの存在は王国でも稀有なものだ」
「私などいまだ矮小な身。希有など滅相もございません」
「遜る必要はないぞ? そなたはその歳でそれほどの功績を挙げたのだ。余もそなたのような臣民がいることを誇りに思う」
セイランはそんな風に、次々と称賛の言葉を並べ立てる。
上位者からこうして称賛を受けるのは、嬉しいものだが……。
「どうした? 胸を張るがよい。己が諸国に並ぶものない傑物だと言ってもよいのだぞ? そなたはそれだけのことをしたのだからな」
くすぐったい。
あまりにくすぐったすぎるのだ。
褒めるにしても、これはあまりに褒めすぎだ。
これではこちらを調子に乗せようとしているようにも思えてしまう。
相手を褒めて気分を良くさせ、取り入ったり、言うことを聞かせやすくしたりするというのは、ままある世渡りの手法だ。創作に出てくる場合の豊臣秀吉という武将が、よくこういった風に描かれていたように思うが、どこかこれに似たようなものを感じてしまう。
どんな表情をしているのかがわかれば、判断材料にはなるのだが、しかしセイランは面紗を付けているため顔色を窺うことはできない。
だからこそ、
「お戯れを……」
自分にはそう返すので精いっぱいだった。
セイランが椅子から立ち上がり、近づいてくる。
「アークス。余はそなたをいたく気に入っている。そなたほど才がある者はそうそういない。余はそういった者に活躍して欲しいと思う」
「ありがたきお言葉の数々。王家の臣の一員として、嬉しく思います」
「そう思うか」
「は」
「余は今後ともそなたを引き立てたく思う。今後の出世も望むままだ――」
セイランは横に立つと、肩に手を置く。
そして間を置かずに、
――そなたが余の言うことに従えば、だがな。
そう付け足して、ふいに耳元に顔を近づけてくる。
そして、静かに囁くのは。
「アークス。余の犬となれ。余の忠実な犬に」
「…………!?」
耳朶に吹き掛かった甘い言葉に、驚きを隠せない。
まさか、こんなことを言うほどに、自身のことを買ってくれているとは。
だがしかし、だ。それでも「犬」とは随分な言いようではないか。それはつまり、己の自尊心を消して、餌を求めて走るだけの存在になれということに他ならない。
確かにこれに飛びつけば、出世は思うがままだろう。セイランはいずれ王国の最上位者になるだろう人間だ。そんな人間に引き立てられるというならば、己の目的の一部は間違いなく達成される。
だが、頭をよぎるのは疑問だ。
そんな、己を蔑ろにするようなやり方で出世するのは、本当にいいことなのか、と。
「どうだ。悪くない話であろう? いずれにせよそなたにとって余の命令は絶対なのだ。ただ余の申すことを聞くだけで、何もかもがそなたの思いのまま。我が世の春を謳歌できるのだぞ? 迷うことはないはずだ」
「……恐れながら、私には分不相応なことかと」
「そなたがそぐわぬとは思わぬ。そなたの才は余が認めるところだ。いずれそれは世にも知れ渡ろう」
「は……」
「ならば、頷くがよい。余の犬になる、とな」
セイランが、選択を迫ってくる。
自分もセイランも、貴族社会に生きているのだ。こういった駆け引きというのも、よくあることなのだろう。
だが、なにか違うような気がしてならない。
いまのセイランは、これまでに抱いた印象から、どうにもかけ離れている気がするのだ。
挨拶の場でも、軍議の場でも、セイランは常に厳しさを心がけていたように思う。
常にバランスを保ち、公明正大を心がける。
そんな人間が、甘い言葉で他者を弄して調子に乗らせて、味方に付けようと考えるのか。
自分が最初に抱いた印象が正しければ、だ。
他者を贔屓して、甘い蜜に漬けるよりも、厳しさに徹して働かせようとするのではないか。
この考えが正しければ、作為的な何かが、ここにはあるはず。
ほのかに甘い吐息の余韻が漂う中、意を決して口にするのは――
「殿下、怖れながら、私に発言をお許しいただきたく」
「なんだ?」
「殿下は一体何をお考えなのでしょうか。ご無礼を重々承知のうえで、どうか本意をお聞かせ願いたく存じます」
そう願い出ると、セイランの声のトーンが一段下がる。
「……そなたはなにゆえそう思う?」
「殿下の振る舞いを見た限り、どうしても不自然さを否めません。であれば、殿下は別の考えを持ってこの会話に臨んでいると、そう愚考する所存です」
「…………」
この予想が間違っていれば、己は怒りを受けるだろう。
だがどうしても、これが「セイランの本意」だとは思えないのだ。
部屋に入ったとき以上の緊張が身体を縛り、汗が一筋、首筋を伝い落ちる。
セイランは、まだ訊ねに対して答えない。
ぐるぐるする頭の中。
思考が鈍磨していく。
ぐるぐると、ぐるぐると。
「くく……くくく……」
そんな風に、ただひたすら言葉を待つだけの中。
ふいにセイランが笑い声を上げた。
その笑声はだんだんと、どこか気分を良くしたように高い響きへと変わっていく。
そして、
「くく、いや、そなたの言う通りだ。余はそなたを試したのだ」
その言葉を聞いて、大きく安堵する。
ため込んだ息を吐くのを我慢するも、極度の緊張が解けたせいか、身体から力が抜けていく。
要するにセイランは、自分がどんな人間なのか、先ほどの問いで測ったということなのだろう。
だが、人が悪い。
そう思ってセイランの方を見ると、セイランも息を吐き出した。
その様はまるで、セイランの方も緊張していたかのような素振り。
もしかすれば、安堵したのはセイランも同じだったのか。
セイランは背を向けて、椅子の方へと戻る中、
「余も人を試すような真似などしたくはないが、そうせざるを得ない身の上でもある。他者の本心は、目に見えぬものであるゆえな」
そう言うと、
「だが、安心した。やはりそなたは余の思った通りの男だ」
「殿下のご期待に添えたこと、なによりと存じます」
だが、思った通り、とは。
やはりその口ぶりでは、もともと買ってくれていたということになる。
自分とセイランには接点がほとんどないため、その辺が随分と不思議なのだが。
「しかし不思議なものだ。余が声をかけると、感極まる者ばかりなのだが、そなたはその素振りすらなかった。それはおろか、褒めれば褒めるほど、裏に何かあると考えた」
「殿下の腹の内を探ろうとしたご無礼、お許しいただきたく」
「いや、そうでなくては困る。欲に走り、見も知らぬ者を無条件で信じるのは愚か者のすることだ」
セイランはそう言うと、唐突に問い掛けてくる。
「――アークス。そなたは余が、なんであるか知っているか?」
そんな意味ありげな問いかけを。
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