第七十四話 王太子との初対面
ナダールから送り込まれた工作員たちの拠点を制圧し、大領主ルイーズ・ラスティネルが王太子セイランの救出に出てから、はや数日。
アークスがノア、そしてカズィと三人、ラスティネルの館でもてなしを受けている最中に、報告が入った。
――ルイーズ・ラスティネルは領都を出たあと、夜通し馬を交代で急がせ、関所を突破。兵たちと共にナダール境界側の関を守っていた守備兵たちを蹴散らしつつ、王太子一行の足跡を追ったという。
一方王太子セイランの方はというと、ちょうどナダール領内に入ったばかりだったらしく、最初の街に逗留していたところをルイーズと合流。彼女から一連の事件についての報告を受け、その後は無事にラスティネル領内へ引っ込むことができたそうだ。
ナダール側からの追撃も、他領で山賊行為を行っていた工作員の襲撃もなく。
当初より危惧されていた撤退戦はただの杞憂で終幕。
これによりポルク・ナダールのセイラン襲撃計画を頓挫させることが叶い、まずは一安心といったところ。
だが当然、話がこれで終わるわけもなく。
次いで届けられた報告によると、ナダール領内から撤退したセイランはラスティネル領にある城塞都市、ナルヴァロンドに拠点を移し、即座に周辺の諸侯たちにポルク・ナダールの討伐を呼びかけたらしい。
西部貴族にポルク・ナダール討伐についての正当性を訴える檄文を発し。
次いでは軍を編成するため、貴族、君主、小領主など王国西部の戦力を徴収。
あまりに迅速果断な行動で、ナダール側のみならず味方側までも泡を食う中。
セイラン側に諸侯たちが徐々に集まってきたところで、ナダール側も軍を興して、王家に対して宣戦を布告。
ライノール王国への敵対を旨とする蜂起の宣言を行い。
目下、ポルク・ナダールの軍勢は常備兵および徴発兵、金で雇った傭兵団諸々合わせて四千の軍をラスティネル領に向けて進発させているという。
アークスとしては背後にいると思われるギリス帝国の侵攻も予期されたが、その予想に反して帝国は静観の様子。ただ単に主立った軍事行動を起こしていないだけかもしれないが、実情は果たしてというところ。
――なんか、大事になったなぁ。
というのが、今回のことでアークスが抱いた印象だ。
自意識過剰かもしれないが、自分のちょっとした行動で、戦争にまで発展してしまったように思えて仕方がなかった。
アークス自身が何かしなくても、こうなることは避けられなかったとはいえ、なんとはなしに妙な気持ちになる。
「ほんの些細な行動で内紛を引き起こさせてしまうとは。アークスさまはまるで裏舞台で糸を引く黒幕のような存在ですね」
「うるせえ」
「だが裏社会に君臨するには、だいぶ可愛げのあり過ぎる顔だけどな。今度から仮面でも付けてみるか?」
「うるせえ」
従者たちとそんなやり取りがあったのは、また別の話。
――――……
王太子セイランがポルク・ナダールの討伐を宣言してから数日後。
アークスたちはルイーズに呼ばれ、ディートと共に城砦都市ナルヴァロンドを訪れていた。
ルイーズは倉庫街で口にした通り、王太子セイランにアークスの活躍を報告してくれたらしく。
ひいては王太子自ら感謝のお言葉を下さるということで、いまは臨時に設けられた謁見の間にて、挨拶に訪れた貴族共々、静かにそのときを待っている。
……謁見の間の奥、放射状に広がった階段の最上部には、豪奢な椅子が据えられており、セイランのために用意したのか、上部にはこの城の内装とは趣が異なった天蓋が設置されている。
それには高貴な者の姿を隠すという意味も持ち合わせるのか。天蓋の上部からは、前と両横三方にすだれが垂れ下がり、さながら男の世界の映像作品などによく登場する、古代中国の玉座といった外観。
いまはそこに、次代の国王セイラン・クロセルロードの姿がある。
身にまとう装束は、どこか中華らしさを感じさせる黒い長着。
ところどころに炎を思わせる赤い色味と、黄龍を模った金色の刺繍が施され。
動きやすさを考慮してのものか、腰元あたりからスリットが入れられている。
袖口も広く作られ、全体を通して袍服を思わせる出で立ちだった。
ともあれ、気になるのはそのご尊顔なのだが……頭巾には黒の面紗が付いているため、男か女かもわからない。
ライノールの王太子は成人になるまで公式の場で面紗を付けるのがしきたりらしく、王族とその側近以外には決して顔を見せないのだという。
セイランも同じくらいの歳だったはずだが、ひどく落ち着いているようにも思える。
幼いながらに高い位に就いた者がするような、自信に欠けたおどおどした素振りは一切ない。
そこにいるのがさも当然の如く、至って泰然とした様子を崩さず、静かなまま。
しかも、何とは言い表せぬ確かな威厳までにじみ出ている。
――この世界においては、大国の王族というものは絶対の存在だ。
男の世界の王族は、基本的に統治者の延長線上のものでしかないが、この世界の王族は男の世界でいう神のような超越存在と同義であるため、特に絶対視されている。
事実、王族の血に連なるものはみな、人知を超えた力を有しているという。
ゆえに彼らはその武力なり、知力なりで、人々から尊崇され、王として君臨しているのだ。
……こうして多くの貴族たちを傅かせている、セイランのように。
壇上の椅子に座して。
下段には護衛が控え。
領地の支配を認められた地方君主であるルイーズ・ラスティネルとその子であるディートは、他の貴族や領主たちとは格が違うため、護衛と同じくセイランの近くに控えている。
いまは西部の貴族たちやルイーズ傘下の主だった領主たちが、セイランの前に跪き、それぞれの名乗りと挨拶の口上を述べていた。
「ラスティネル家が臣、ガランガ・ウイハ。このたびは主君ルイーズ・ラスティネルの供として、王太子殿下にお力添えを致す所存」
「ローネル男爵家、ローバー・ローネル。此度は参集のご命に従い参上いたしました」
「シャールマン伯爵家、ピスタリス・シャールマン。初めて御意を得ます。この度の戦は王太子殿下の御為に、微力をお尽くしいたします」
などなど。
西部すべての貴族や領主が集まったわけではないようだが。
号令に応じた西部貴族家は上級下級合わせて四十四。
君主はラスティネル家で一つ。あとはこまごまとした領主たち。
みな手勢を引き連れての参集らしい。
一方セイランから下されるのは、短い言葉だ。
――よく励め。
――活躍を期待している。
参じたことを喜ぶわけでもなく、ただひたすらに冷たい印象ばかりを受ける言葉をかけている。
……ライノール王国は分類上、列強に数えられる大国だ。
その国の王太子というのは、その権威も大きく。
それゆえ、他者に侮られることがないよう、こんな態度を取っているだろうと思われる。
ともあれそんな形式的なやり取りの応酬に変化が現れたのは、貴族たちの挨拶に終わりが見えてきた、そんなときだ。
「――か、方々! 大将軍閣下ご入来にございます!!」
入り口から、兵士の焦ったような報告が入ると共に、その後ろから体格のいい老人が現れる。
直後、室内の空気が一変した。
それは、老人がその身にまとう強烈な武威のせいなのか。
さながら赤熱した鉄塊が謁見の間に転がり込んできたかのように、空気が高温を帯び、灼熱感が身を襲う。緩慢さを思わせる動きで、のしり、のしりと闊歩する姿もあいまってか、どこかの神話に登場する炎の巨人を思わせた。
さらにその後ろをぞろぞろとついてくるのは、その老人の配下たちなのか。
みなそれぞれが息を呑むような威圧感を持っており、その実力の高さを窺わせる。
さながら乱入のようにも思えるその登場ぶりに、場が大きなざわめきに包まれた。
挨拶を待っていた貴族たちは、逃げるように部屋の脇へ。
老人の不興を買いたくはないというように、王太子までの道を開ける。
やがて老人がセイランの前で膝を突くと、喧騒がさらに大きくなった。
「――ガドウルド・ベルハーン、麾下の将を連れ、王太子殿下の御前に」
ガドウルド・ベルハーン。
この名前は、アークスにも聞き覚えがある。
ライノール王国の西北部を拠とする大軍閥の長であり、自らも大将軍と呼ばれるほど勇猛な将だ。軍閥の長という肩書からもわかる通り、高い軍事力を有した軍事国家を運営している。
ライノール王国を後ろ盾としており、クロセルロード家が西側で融通できる大戦力でもある。
ガドウルドが名乗りを上げると、淡白一辺倒だったセイラン声に確かな喜色が交じった。
「おお、ガドウルド大将軍。余の要請に応じてくれたこと、嬉しく思うぞ」
「みどもは王家に恩義がありますれば、こうして殿下の下に参じるのは当然の由にて」
ガドウルドの話ぶりは、年齢を感じさせないはっきりとしたもの。
口はもつれず、声は枯れず、確かな力強さが窺える。
また、言葉と共に深く頭を垂れるが――
「しかしなれど、この度の召集は、どうか遠慮させていただきたく」
次いで続けられた言葉は、誰にも予想しえないものだった。
喜色から一転、セイランの声が一気に冷めたものへと変わる。
「……ほう? ではそなたは余の要請には応じず、援軍も出さぬと申すか?」
「はは。いかにもその通りに」
失望にまみれたその声音に、しかしガドウルドは臆面もなくそう返す。
上位者に対してあまりに無礼極まるその態度に、場が再びざわめいた。
「殿下の求めに応じないだと!」
「それでよくも殿下の前に顔を出せたものだな!」
「大将軍ともあろう方が一体なんのおつもりか!」
ガドウルドに向かって、非難の声が集中する。
声を上げたのは、王国傘下の貴族たちだ。自分たちの主家であるクロセルロード家、その嫡子に対して無礼な態度を取られたのだ。たとえ強大な軍事力を持つ人間といえども、怒りの一つもぶつけたくなるというもの。
しかし、ガドウルドもその配下も、非難の声に対して何も行動を起こさない。
そのせいで、非難の声がさらに高まる始末。
騒ぎの収拾がつかなくなりそうになった折、セイランの側近がよく通る声を発した。
「方々、静粛に。まだお話の途中です。それとも、方々は殿下のお言葉を妨げるおつもりなのですか?」
「う……」
「ぐ……」
側近の言葉を聞いた貴族たちは呻き声をまばらに上げて、黙り込んだ。
ガドウルドの無礼な行動を非難することは必要だが、セイランの話を邪魔するわけにはいかないと考え、自制したのだろう。
謁見の間が静かになってしばらく。
まず、ガドウルドが口を開いた。
「みどもがここに参ったのは、筋を通したゆえのもの。いくら此度の召集に応じることができないとはいえ、大恩ある王家に対し挨拶の一つもないというのは、道理が立たぬと考えたまで」
「それゆえ、わざわざ兵を引き連れてここまで出向いてきたというわけか」
「はは」
ガドウルドは膝を突いたまま、また深く頭を下げる。
しかし、彼のこの行動は何を意図してのものなのか。
挨拶に出向くだけで、要請には応じないとなれば、セイランの不興を買うのは目に見えている。それがわからない人間ではないだろうし、ならばなぜ、わざわざそんな行動を起こしたのかだ。
言葉少なく、態度からも判じ得ず。
そんな老将軍に対し、セイランは、
「ガドウルド・ベルハーン。そなたに問おう」
「はは」
「余の前で王家に恩があると口にしておきながら、援軍を出せぬというのは何ゆえか? 出兵を否とするには、それ相応の理由があろう」
「みどもとしては、それが最も良いからと信じるがゆえのもの」
「最も良いだと?」
「いかにも」
「…………そうか」
セイランはそう言うと、しばし黙り込む。ガドウルドの方を向いたまま。
それはあたかも、彼の周囲にある目に見えない判断材料を探しているかのよう。
やがて、答えが出たのか。
「うむ。あいわかった。ガドウルド・ベルハーン。挨拶に参ったこと、大儀であった」
「はは。此度の戦は、配下共々殿下のご武運をお祈りいたす所存。であればまこと勝手ながら、これで失礼させていただきたく」
「そうか。余はもう少しそなたと話がしたかったが……やむを得まいよ」
「平時であれば、いつでも。そのときはシンル陛下も交えゆるりと語らいたく」
「うむ、余もそのときを楽しみにしている――しかし大将軍。そなたほどの人間が、帰りが手持無沙汰というのも寂しかろう。土産も持って行くがよい。望みのものを用意させよう」
「お心遣い、感謝いたす」
しかしてガドウルドの挨拶は、そんな風に決着した。
どこか予定調和めいたそのやり取りを不思議に思いつついるのは、自分だけでなく、他の貴族たちも。
援軍を断った相手に、まさか土産まで持たせる厚遇ぶりだ。まるで意味が分からない。
そんな困惑を余所に、ガドウルドは配下と共に謁見の間から去って行った。
……やがて、主だった貴族たちの挨拶が終わり、ついに自分の番が回って来た。
「アークス・レイセフト、王太子殿下の御前に!」
側近に呼ばれると、緊張のせいで身体が硬直する。
すると、隣に控えてくれていたノアが。
(……アークスさま。気を張ってお臨みください)
(……こういうときってさ、緊張をやわらげてくれるとかするんじゃないの?)
(こういった場は逆に緊張していた方がよいでしょう。気を緩めていると、周囲に王太子殿下を蔑ろにしていると受け取られかねません。殿下のことを恐れている自分を演出をするのです)
(……なるほど)
(事前に確認しましたが、もう一度。顔を上げていいのは二度目の許可が下りたあとです。挨拶のあとは頭を下げ、返答はできるだけ少なく、王太子殿下のお言葉を否定してはいけません)
(わかった。ありがとう)
ノアの駆け足気味な忠告を聞いたあと、形式に倣い、セイランの姿を見ないよう視線を下げつつ前に出る。王太子が姿を余人の前に現し、こうして直答が許可されているにもかかわらず、古い形式に縛られているのは中々面倒なものだなと思う中。
自分が歩み出たことで、また周囲がざわめきに包まれた。
当然、喧騒の理由はガドウルドのときとは違うものだ。
――なぜ、あんな子供が?
――聞いたことがあるぞ。確かあの名前は……。
――これは一体どういうことなのだ?
疑問の声が各所から上がり、訝しむような視線が集中する。
あまり気分のいいものではないが、いまはそんなことに気を向ける余裕は一切なかった。
指示を受け、ノアの言葉を聞き、セイランの前に歩み出たその直後だった。
(これ、は……?)
突然、強烈な緊張が身体をがんじがらめに縛りつける。
それがセイランの圧力がなせるものだということには、すぐに気付いた。
国定魔導師たちが放つものとはまた別種の圧力で手に汗が滲み、悪寒じみた寒気が身体全体を冒しにかかる。
肌がぴりぴりと痺れ。
身体を動かそうとするごとに、それが全体へと伝わっていく。
首筋に鋭利な刃先を宛がわれたかのような危機感のせいで、息ができなくなるような感覚に喘いでいた矢先。
「アークス・レイセフト。面を上げよ」
セイランの側近が発したその指示に従わずにいると、再度同じ言葉が掛けられる。
そこでやっと、顔を上げた。
目の前、壇上には黒衣をまとうセイランの姿。
黒の面紗の奥は……やはりわからない。
やがて、壇上から声がかけられた。
「そなたがアークス・レイセフトか?」
「お、お初にお目にかかります殿下。レイセフト家長男アークス・レイセフト、この度は殿下がお召しと伺い、過分なれどこの場に参上いたしました……」
「…………」
挨拶の口上を述べて頭を垂れるが、セイランからの返答はない。
口上に間違いやそぐわない部分でもあったのか。
面紗の奥から、検めるような視線を向けられているようにも感じられる。
そんな不安が徐々に浮上してきた折、セイランは軽く息を吐いた。
「アークス・レイセフト。そなたの此度の活躍、まこと大儀であった。そなたがポルク・ナダールの企てた薄汚い目論見にいち早く気付いたことで、余も窮地にまみえず済んだ。心から礼を言おう」
セイランが礼を口にすると、ざわめきがさらに大きくなる。
王太子を助けたこともそうだろうが。
こういった身分社会で、君主から褒められることはあれど、直接感謝の言葉をいただくというのはとりわけ珍しいことだ。
王国傘下の貴族たちが、銘々に驚きの声を上げている。
やがて、それが静まったのち。
「王家に仕える臣として、王家ならびに殿下の御為に動くのは当然のことと存じます。にもかかわらず、こうして身に余るお言葉をいただけたことは、感激の至り」
「そうか。王家に仕える臣か。その歳で貴族家の一員たる自覚があるのは、見上げた志だ。余も上に立つ者として嬉しく思う」
「……ははっ」
また頭を垂れて、返事をする。
しかし、まさかここまで言葉を頂けるとは思わなかった。
貰っても一言、二言、簡単な言葉だけだと思っていたのだが、お礼のお言葉に続き称賛まで。しかも、先ほど貴族たちの挨拶に返していたものよりも若干、語気が柔らかく感じられた。
セイランに礼を言われ、なんとなく面映ゆい気持ちになっていたそのみぎりだ。
「――ではアークス・レイセフト。戦のときは余の側を許そう。この戦では、余のもとで戦うとよい」
そんな、思いもよらぬ言葉をかけられたのは。
「――え?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
だが、セイランの声の余韻が徐々に脳に浸透していくにつれ、理解が及ぶ。
戦のときは余の側を許そう。
つまりこれは、ナダール討伐戦に参加しろということだ。
……ここに来たのは、セイランからお礼の言葉を貰えるからだったはず。
貰ったあとはそのまま、ルイーズと銀に関する話をまとめ、王都へ取って返そうとしていたのに。
なのに王太子セイランは、そのまま戦に参加するものと考えていたらしい。
咄嗟にルイーズの方に視線を向けると、随分と驚いたような顔を見せている。
ということは、彼女もこれについては知らなかったのか。
その隣で嬉しそうに拳を振り上げているディートはともかくとして。
当意即妙な返しができなかったせいか、セイランの声音がわずかに冷たくなった。
「……どうした。そなたはなにか不満でもあると申すのか?」
「い、いえ! 滅相もありません!」
「ならばよかろう。そなたも此度の戦、よく励むがよい」
「は、ははっ!」
結局、頷いてしまった。
最悪だった。これでもう逃げられない。
ここで異を唱えてしまえば、セイランのもとで戦うことに不満があるということになるし、もしかすれば、セイランのナダール討伐に異を唱えるということにもなりかねないのだ。
本当は戦争に出たくないだけとだとしても。
だから、頷くよりほかなかった。
(ま、マジかよ……)
こんな世界だ。ある程度の地位を望むようになれば、いつかはこういったときが来るとは思っていた。そのときまでに魔法を完璧に仕上げ、できることはすべてしようと思っていたのだが。
まさか、これほど早くにくるとは、まったく予想していなかった。
……側近から「下がれ」という言葉が掛けられるのをじっと待つ中。
突然、居合わせた貴族の一人が声を上げた。
「王太子殿下、どうか私に発言の機会をお許しいただきたく……」
一人の貴族が、セイランの前に歩み出て平伏する。
歳のころは三十代程度。
ひげ面で、肌は日に焼けて色濃く。
武官貴族なのか、体格もいい。
許可されていない申し出に、側近が咎めの声を上げた。
「ボウ伯爵! まだアークス・レイセフトの目通りの儀は終わっていない! 下がりなさい!」
「そこを曲げて、なにとぞ発言をお許しいただきたく。伏してどうか、どうかお願いいたします」
伯爵と呼ばれた貴族は、唐突な割り込みを注意されるが、まったく引き下がろうとしない。
側近の気配が研ぎ澄まされたように鋭くなった直後、セイランが声を発した。
「そなたは……ダウズ・ボウ伯爵だったな」
「ははっ!」
「いまはまだ余がアークスに言葉をかけている最中だ。にもかかわらず不躾に嘴を挟み込むとは、一体どういう了見か?」
「は。王太子殿下のお言葉を妨げるご無礼、謝罪の言葉もございません。ですが、王太子殿下の臣として、どうしても申し上げたき儀がございます。どうか、どうかお許しをいただけないでしょうか……」
ボウ伯爵がそう訴え出ると、にわかに近衛が動き出す。
ボウ伯爵を力ずくで下がらせようと言うのだろう。
しかしセイランはそれを手で制すると、伯爵に訊ねた。
「ふむ。なんだ。申してみよ」
「恐れながらこの者は、まだ幼い子供。平時ならばいざ知らず、戦場にて殿下のお側に控えるという大役は務まらないものと存じます。そして、そのことが原因で王太子殿下に何かあれば王国の一大事。殿下の臣として決して看過できぬことでございます。どうかご再考いただきたく……」
その発言は、当たり前だが子供が戦場に出ることを気遣ったものではない。
言葉そのまま、王太子の供をするには不適当だと訴えるものだ。
当然、それについては、伯爵と同じように考える者がいたのだろう。
集まった貴族の中から、ささめき声が聞こえて来る。
「いくらなんでも、戦場であのような子供を側に控えさせるというのは……」
「それに、確かアークス・レイセフトは廃嫡子だったはずだぞ?」
「そのような者に殿下の側仕えなど務まるはずがない」
どれも、実力を疑うような声ばかり。
貴族間で、あの噂が先行しているためだ。
そんな中、側近が一睨みくれると、それらの声は一瞬にして消え失せた。
「ボウ伯爵。歳が幼くとも高い実力を併せ持つというのは、世にままあることだ。それは余然り、ラスティネル家の嫡子然りだろう。それに、アークス・レイセフトは工作員が詰めていた拠点の制圧に尽力したと聞く。なれば、相応の力量があるように思うが?」
「は。殿下のおっしゃる通り、世には歳にそぐわぬ力を持つ者がいるということは疑うべくもありません。ですがそれは、高貴なる者の中でもたった一握りの者のみにございます。たかが下級貴族の子が、そのような天稟を持つなど、とてもではありませんが考えられませぬ」
ボウ伯爵はそう言い終えると、軽くこちらに顔を向けた。
顔に浮かぶのは、嘲笑だ。「お前が殿下の側に控えるなど、おこがましい」とでも言うような、他人を追い落とさんとする者が見せる笑みである。
(こいつ……)
これがあからさまな当てつけということを知って、腹が立つ。戦場に立つのは本意ではなかったにしろ、こんな風に言われたくはない。
しかしこちらはそれに対して、おくびにだすことも、反論することもできない。
相手は伯爵。正面切って向かい合っていい立場の者ではないのだ。
こちらがもどかしさに歯噛みする中、伯爵は話を続ける。
「それに先の拠点制圧の話についても、本当かどうか疑わしいものでしょう。この者の活躍があったということですが、疑問を抱かずにはいられません」
伯爵がそう言うと、今度はルイーズが口を挟んだ。
「へぇ? それはつまり、あんたはあたしの部下の目が節穴だったって言いたいのかい?」
「え、ええ。直截的に言えば、そういうことになりますな」
「は――伯爵風情が言ってくれるじゃないか……」
ルイーズの言葉を聞いた伯爵が、顔を険しくさせる。
だがすぐに眉間のシワを開き、腕を大仰に広げ、どこか芝居がかった調子で気取った言葉を並べ立て始めた。
「ルイーズ閣下。いくらあなたが大領を抱える君主の一人とは言え、王国貴族である私に、伯爵風情というのはいささか言葉が過ぎるのでは? 王国の伯爵位は、王家やひいては王国のため、力を尽くしたお家に与えられる由緒ある地位。さきほどのお言葉はいますぐ取り消していただきた――」
「あぁ!?」
話が終わるのも待たず、ルイーズが伯爵に威圧的な声を叩きつける。
一方で伯爵は「ひ――」と鶏を〆たような啼き声を一声上げて、すくみ上ったようにしゃくり上げた。武官貴族の中では恵まれた部類に属する体格にもかかわらず、その様はまるで小動物のよう。
伯爵が悲鳴を上げたのを合図に、ルイーズの家臣たちが伯爵に向かって猛烈な武威を差し向ける。確かな実力を持つ者たちに敵意を向けられたせいで、伯爵の顔が一瞬で青褪めた。
そればかりか、ルイーズはさらに語気を強め、
「この! あたしに! 貴様如きが! 随分舐めた口利くじゃないか! ええ!?」
……謁見の間に、ルイーズの強烈な武威が爆発する。
それは、先ほどのガドウルドのものを凌駕するほどの威圧感だ。
その圧力を前に、伯爵は怖気づいたのかごくりと唾を飲み込む。
上級貴族とはいえ、そもそも役者が違うらしい。
シャーロットの父、パース・クレメリアも伯爵の地位にあるが。
同等の位を与えられている者にも、ピンからキリまであるということなのだろう。
ルイーズの怒りで、謁見の間が一気に剣呑な気配で包まれる。
他の貴族たちも慄いているのか。平静を保てているのは、数人程度。
そんな雰囲気の中、セイランが口を開いた。
「ルイーズ。控えよ」
「……は。御前で取り乱し、申し訳ございません」
セイランが仲裁に入ったことで、ルイーズは大人しく引き下がる。
一方でボウ伯爵は、まだ言い足りないのか。
「そ、そもそもこの者は廃嫡されているという話。そのような愚物に、殿下の側に控えるという役目が務まるはずがありませぬ。それは、他の者も同じ意見かと」
「ふむ」
「もし殿下がどうしても側仕えが必要だとお望みなのであれば、他の者を付けた方が適切かと存じます。僭越ながら私は武官としてこれまでいくつも武功を上げており、殿下のお側に控えるには十分足るかと」
伯爵は異議を申し立てるどさくさで、そんなことを言い始めた。
面の皮が厚いことだ。最初から、こうして側仕えを奪うつもりだったのだろう。
一方、貴族たちは伯爵の抜け駆けにいまさら気付き、してやられたと声を上げ始める。
そして、
「ボウ伯爵。そなたの話はわかった」
「はは! では!」
「うむ」
セイランの言葉を聞いて、伯爵の声の調子が明らかに弾んだ。
意見を受け入れられ、ひいては自分がセイランの側に仕えられるという手ごたえを感じたからだろう。
伯爵の顔が目に見えて、明るくなり。
反対に、先ほどまで彼と言い合っていたルイーズの顔が険しくなる。
他の貴族たちも同じなのか、抜け駆けされたことに対してぶつぶつと文句が聞こえてきた。
そんな風に、ボウ伯爵が臨時の側仕えとして決まるかに思えた折。
セイランが思いもよらないことを口にする。
「――つまり、だ。そなたは余の眼力を疑うと言うのだな?」
「――は、え?」
「そういうことであろう? 余がアークスを側に控えるよう命じたのは、余が、この目で、アークスが足る者と判断したからだ。ならば、それに異を唱えるということは、暗に余の目が節穴だと言っていることに他ならぬというわけだ」
セイランが、その答えに至った理由を、淡々と口にしていく。
伯爵が唱えた異議を、自分への批判に転化して考えるのは深読みのし過ぎのようにも思えるが――セイランはさらに伯爵を追い詰めにかかる。
「余が戦に臨むのが初めてとはいえ、これから余の力となる上位貴族にまさかここまで率直な態度を見せられるとは思わなかった。余の眼力が及ばぬことをここで諸侯たちに声高に訴え上げ、ひいては余が討伐軍を興したことに対しても異議を呈する…………くくっ。いや、これほどの批判もなかろうな」
独り言なのか、それとも言い聞かせているのか、定かではないが。
自嘲とも受け取れるそれを聞いた近衛たちが、にわかに殺気立ち始める。
当然だ。セイランに対する批判に対して、近衛たちが黙っているはずもない。
これでは、先ほどのルイーズのときの焼き直しだ。
先ほどのものを遥かに超える危機感に、伯爵はひどく焦り始める。
「い、いえ! いまの言葉にはそのような意図などまったく!」
「違うのか? 先ほどのそなたの言い分をかみ砕けば、つまりはそういうことになろう?」
「いえ! 決して! 決してそのようなことは欠片も! ただ私はこの者が側仕えにそぐわぬのではないかと申し上げたかっただけでして!」
伯爵は頭を垂れて否定する。
自らの発言がセイランを貶めるとまでは考えが及ばなかったのだろう。スケベ心を出して自薦したはいいものの、それが浅慮だったことに今更気付く。
やはり、下手に異を唱えることは王家の批判に受け取られかねないか。
……そもそもこの話、セイランの考えがよくわからないというのも要因にある。
自分を手元に置くというこの差配は、個人的な判断に寄っているのは確かだ。
しかしセイランも、そう言ってしまった以上、ここで下手に伯爵の意見を受け入れて撤回しては、優柔不断だと思われかねないだろう。
そうなれば王太子としての判断力を疑われ、諸侯のセイランに対する評価は、言葉通りに暗愚に堕ちることになる。
簡単に直言を受け入れてしまうようでは、上に立つ者として示しがつかないのだ。
セイランがくつくつと、不穏な笑声を漏らし始める。
危殆を孕んだその笑い声に、諸侯が不穏を感じ始める中、
「だが、伯爵。そなたの言い分にも一理ある。余は初陣ゆえな、戦慣れした者から見れば至らぬところもあるのだろうな」
「い、い、い、いえ……そのような意味では決して……」
伯爵は再度否定の言葉を重ねるが、セイランの中でこの件は批判されたという風に固まってしまったのか。まったく受け入れる様子が見られない。
不穏な笑い声と声音を口から吐き続け、諸侯まで脅しにかかる王太子に、ボウ伯爵が取れる行動は一つしかなかった。
「王太子殿下! お願いいたします! どうか私の至らぬ発言を撤回させていただきたく……」
「くく……よい。伯爵、そなたはもう下がれ」
「は……」
伯爵は、ぽかんと口を開け放つ。
その場で停止したまま微動だにしない伯爵に、セイランの側近が怒鳴り声を上げた。
「ボウ伯爵!! いつまでそうしているつもりか! 殿下は下がれと仰せだぞ!」
「ははっ!」
伯爵はその場から逃げるように、慌てた様子で後ろに下がる。
その一方で、セイランはいまだ笑気に囚われているのか、笑声を断続的に上げていた。
……笑っている姿が途轍もなく怖い。
セイランの笑声が高く、大きくなっていくのに反比例して、謁見の間は水を打ったように静まり返る。
――セイランの怒りを買ってしまった。
諸侯が冷や汗をかく中、一転セイランが笑いを止め、椅子から勢いよく立ち上がった。
そして、
「皆、聞け! 余はこの決定を変えるつもりはない! 余には父である国王シンル・クロセルロードと同じく、物事を正しく見通す力と、そなたらを導く力がある! この戦で、それを余自ら証明しよう! 余が間違いを犯すなど決してあり得ぬことだと知れっ!」
セイランが壇上から高らかに言い放つと、集まった貴族たちは一斉にその場に平伏し、セイランの言葉を肯定する。
次いで、セイランはこちらに向かって剣を鞘付きのまま差し向けた。
「アークス!」
「はっ!」
「この戦で飛躍せよ。余の判断を間違いだったと思わせてくれるな」
「承知いたしました!」
勢いでそう返答する。
いや、そう返答するしかなかった。
ここでできないと口にしたが最後、首をはねられるだけでは済まないだろう。
責任重大だ。
戦に参加するだけだったはずなのに、アホ伯爵のせいでセイランの名誉まで守らなければならなくなってしまった。
……やっと、側近が「下がれ」と声をかける。
――というか、なんでどうしてこうなったのよ。
もはやそんな言葉しか湧いてこない。
……元の位置に戻った際、いい笑顔で「おめでとうございます」と口にしたノアを絞め殺したくなったのは、言うまでもないことか。