第四十三話 救出後
カズィが侯爵を心行くまでぼこぼこにしている中、捕まっていた二人の縄を解く。
リーシャを猿轡と縄から解放すると、彼女はすぐに飛びついてきた。
「兄さま!」
「リーシャ、無事でよかった……」
大事な妹が自由になり、腕の中に収まったことで、今度こそ胸が安堵で一杯になる。
そのまま強く抱きしめると、確かな震えが伝わってきた。
縛られているときは涙一つ見せなかったが、頑張って堪えていたのだろう。
いまはその堰が切られ、涙顔を胸に埋めてくる。
彼女の頭を、そっとやさしく撫でると、リーシャはこれまで我慢してきたものが込み上げてきたのか、嗚咽混じりに謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい。私があんなものを預かったばかりに……」
「あれはリーシャのせいじゃない。悪いこと考える大人が全部悪いんだ」
「でも……」
「大丈夫」
囁きかけて、リーシャが落ち着くまで、優しく撫でて宥めすかす。
今回のことは、不正を行った侯爵とそれに巻き込んだ役人とやらが悪いのだ。
リーシャにまったく非がないとは言い切れないが、まだ十歳そこらの子供に上手い立ち回りを望むのも酷なこと。
捕まっていたもう一人の方も気になっていたのだが、向こうも状況を察して待ってくれているようで、すんすんとすすり泣くリーシャに温かな視線を向けていた。
しばらくの間そうして、やがて、
「落ち着いたか?」
「はい」
まだ感情の高ぶりは収まっていないだろうに、リーシャは気丈にも袖で涙を拭いて、凛とした顔で見上げてくる。次期当主がいつまでもぐずっていてはいけないという、責任感の強さが垣間見える仕草だ。
だが、彼女はふと、その表情を曇らせる。
そこから飛び出してきたのは、怖れを含んだひどく不安そうな声。
「その、兄さま……私のやったことは間違っていたいたのでしょうか?」
「というのは、証拠を預かったことか?」
「はい。私は、正義を成す者の助けになることが、貴族として正しいことだと思い、ああしました。でも結局は侯爵に捕まり、こうして迷惑をかけてしまいました。ならそれは、本当に正しいことだったのでしょうか……」
リーシャは結果だけを見て、不安を感じてしまったのだろう。
正しいと思って成したことが、周りを巻き込む大事になった。
だからそれが、貴族の行いとして、自分の取る選択として、真に正しいものだったのかと。
……リーシャの目が訴えかける。
こんなことならば、何もせずにいた方がよかったのではないか、そんな風に。
そんな彼女に、自分が返した答えは――
「リーシャ、失敗したから正しくないっていうのは極端すぎだ。正しい行いのすべてが、成功につながるとは限らないし、どれだけ正しいと訴えても、聞き入れられないことだってあるだろ?」
「でもそれなら、余計私のしたことは……」
「それは結果だ。リーシャは今回、こんなことになるなんて思わなかっただろ? 最後になにがどうなるかなんて、結局誰にもわからないことだ。そんな失敗を恐れて何もしなかったら、貴族の為すべきことも為せないぞ?」
貴族の為すべきこと――いまのリーシャが重んじていることと絡めるのは、少々意地悪なことなのかもしれない。だが、失敗を怖がって何もしなくなれば、それは彼女にとってとても不幸なことだ。
……ふと、男の人生を追って得た経験を思い返す。
あの男の友人にも、ひどく臆病な者がいた。地頭は良かったにもかかわらず、失敗を恐れ、何事にも否定的になり、結局ここぞというときも動かなかった男だ。
結果、多くの機会を逃してしまい、掴めるはずだった大きな成果を得ることができず、平凡に落ち着いてしまった。
そんな彼から聞いたのは、多くの後悔だ。あのときこうしておけばよかった。ああしておけばよかったという未練の言葉は、男が酒の席で彼から良く訊かされた話。
自分の選択を狭めるのは、後悔しかない道であるということは、自分が彼からもらった教訓だ。
だからこそ、リーシャにも、そんな道を歩んでほしくない。
いまからそんな風に失敗を恐れるような人間になってしまえば、当主として後世、暗愚と呼ばれるものになってしまうだろう。
だからこそ、
「大丈夫。失敗なんて考えなくていい。リーシャは、自分が思うようにすればいいんだ」
「ですが、それではまたこんなことになるかもしれません」
「そのときはまた、俺が助けに行くよ。俺はリーシャのお兄ちゃんだからな」
「…………はい」
優しく語り掛けると、リーシャはまた潤んだ瞳を見せ、やがて凛と引き締まった表情を作る。
「兄さま。私も精進します」
「ああ」
一区切りついたところで、待ち人の方に目を向ける。
それは、リーシャと共に囚われていた少女だ。
紅茶にたっぷりのミルクを落としたような髪色は長く。
透き通った琥珀色の瞳は宝石さながらに美しい。
可愛らしさよりも淑やかさの方が強く見える顔は最適な形で整っており、良家の子女という言葉がぴったり合う。長いまつ毛。開けばぱっちりと、細めれば凛とした双眸。横髪は頬まで流れている。
白を基調とした平服からはふんわりと春の花の香りが漂い、身だしなみにもしっかりとした細やかさ。
リーシャの方にばかり気を向けていたが、よくよく意識すると雰囲気が大人びており、受けている教育の厳しさが窺える。
十中八九、自分たちよりも身分の高い人間で間違いないだろう。
「リーシャ。そちらの方は?」
「はい、こちらはクレメリア家のシャーロットさまです」
「って……」
クレメリアとは、伯爵家のお姫様ではないか。
しかも、レイセフト家の属する派閥の筆頭である家の息女。
そういえば、リーシャとは仲良くしてくれていて、よく一緒に出掛ける仲だと聞いている。今回は、それで巻き込まれてしまったのだろう。
いや、もしかすれば侯爵のこと、リーシャとの交渉をしやすくするために、狙って攫ったということも考えられる。
ともあれと、相手は上級貴族のお姫様だ。
一旦リーシャから離れて、膝を突いて礼を執る。
「――お初にお目にかかります、シャーロット姫。アークス・レイセフトと申します。この度は私どもの不始末に巻き込み、謝罪のしようもありません」
「いえ、あなたの勇気のおかげで侯爵の謀略に倒れず済みました。侯爵を恐れず助けに来てくれたこと、感謝いたします」
「は。そう言っていただけると幸いです」
シャーロットは、横髪を手で後ろに流し、どこか感じ入ったというような表情を見せる。
そして唐突に、
「私は自分のことが恥ずかしく思います」
「え?」
「私も、あなたのことを無才の人間だと思っていた一人なのです。自分に才があると疑いもなく信じ、伝え聞く話のまま、あなたのことを見下していました」
その独白は、己のことを知っていてのものか。
彼女も、両親が流した話を聞いていたのだろうが――
「……それがどうでしょう。私は、あの傭兵の男に敵わないと知ったとき、抵抗することを早々に諦めてしまいました。最後まであの傭兵に立ち向かったあなたとは違って」
「それは」
いくらなんでも相手が悪すぎる。
あの傭兵頭は、かなりの腕前だ。子供の力では当然のこと、剣で戦うならばノアにでも出てきてもらわない限り、こちらに勝利はなかっただろう。
だからこそ、自分は不意を打つという手段に出たのだ。
だが、シャーロットには思うところがあるようで、
「私はこれでも王国の剣を担う宗家の娘です。いずれは、多くの者の手本となるべきときも来るでしょう。それが才能という言葉ばかりに気を取られ、しっかりと向き合わず、自分を顧みることのなかった結果がこれです」
「しかし」
「いえ、相手の力量の高低は関係ありません。立ち向かう姿勢を捨てることは恥ずべきことだと、先ほどあなたに教えられました」
彼女は、やはり感じ入ったというように胸に手を当てて、
「先ほどのあなたが口にした『足掻いて見せる』という言葉、大変胸に染みました。非礼、申し訳ありません」
彼女は本気で、自分の内心を恥じているようだ。
その考えを外に出して、自分に突きつけたわけでもないのに。
あまりに律儀で、真っ直ぐだ。
ふと、シャーロットは謝罪のための淑やかな一礼を挟んだあと、ゆるゆると近付いてきて、手を握ってくる。
「今後は、その、アークス……くん、とお呼びしても?」
「え? は、はい。どうぞ」
「ありがとうございます。改めて婚約者であるあなたに、最大の謝意を」
「――え?」
「しゃ、シャーロットさま!?」
リーシャは何故か驚いているが、驚きの声を張り上げたいのはこちらだ。
先ほどの感謝には、聞き逃せない言葉が混じっていたのだから。
「あの、婚約者とは?」
「お聞きになっていませんか? アークスくんが生まれた頃に、父と子爵さまが話し合われて許嫁と決まったのを。その、少し前に子爵さまが、父に解消を願い出たのですが……」
「そう言えばそんな話が……」
確かに魔力量を測定する少し前くらいに、そんな話を聞いたような覚えはある。
しかしその後すぐに廃嫡され、そのうえひどく冷遇されることになったため、話は消滅したものだと勝手に思い忘れてしまっていた。
「私もそのときは婚約の解消に賛意を示したのですが……」
では、婚約は解消となったのか。
しかし、先ほど彼女は確かに婚約者と言い切った。
シャーロットは俯いて、バツの悪そうにもじもじしている。
そして、
「私は婚約の件、もう一度、考えてみようかと思います……」
「は、はあ……」
そんな風に、妙な返事しかできなかった。
話が自分のあずかり知らぬところで進んだり退いたりしているためだが、なんとも触れにくい話。
状況確認のため、一度彼女から離れると、ふいに近付いてきたノアが耳元で囁く。
(……アークスさまはあれですか? いわゆるヘタレというやつなのですか?)
(……ちょ、俺にどうしろっていうんだよ!)
(……ここは抱きしめて是非お願いしますと言うか、優しい言葉を囁きかけるのが常套かと)
(……俺はそんなこと軽々しくできんわ!)
(……ですが、もう少し気の利いた返事ができないと今後困りますよ? 貴族の振る舞いとしては減点ですね)
(……うぐ)
先生の、手厳しいダメ出しである。
というか十歳の子供に、異性への貴族的、紳士的な対応を望むのは無茶ではなかろうか。
一方でカズィが侯爵を罵りながらぼてくりまわしているぶん、なんともカオスな状況ではあったのだが。